矢部定謙と藤田東湖
以前「妖怪」の中で矢部定謙が藤田東湖に「物価高騰の元凶は桜銀で、これをなんとかしなければ物価は下がらない」と語った記述を私は事実あったものか、それとも創作か確認していないと書きました。この記述が事実あったものかどうか気になっていたのですが、創作ではなく事実だったようです。中央公論社の「日本の名著 29 藤田東湖」(責任編集・訳 橋川文三)の中に書かれていました。(語った相手が藤田東湖なら、彼の書き残した物を確かめればよかっただけなのですね・・冷や汗)
東湖の「見聞偶筆」の中に彼と矢部との交流を示すものがあるのですが、現今、物価騰貴が全国的難問となっている。どうしたらその害悪を改められようと問うたところ、矢部がいうには、「このことは自分の職務上、日夜苦心する問題である。老中ならびに勘定奉行あたりの論では、罪を悪徳商人のせいにし、その悪徳を摘発せよと自分にしばしば督促してくるが、自分の論はそれとは異なっている。なぜかというと、近年新しい金銀が流通し、いまの桜銀は金百匹に通用しているが、二十年前の南鐐(二朱銀)に劣る。その他も似たようなものである。政府でこんな不正を行いながら、ただ商人だけを悪者にするのは間違いである。自分もけっして悪徳商人をかばうのではないが、ものには本末がある。第一に悪質金銀の流通を停止し、それでも物価が騰貴するなら、自分はいかにも悪徳商人の罪を糾弾せずにはおかないのだがと、最近答申した」とのことである。
もともと、物価騰貴は十組問屋のせいだと水野忠邦にいったのは水戸斉昭だったのですが、「所詮は殿様で経済がわかってなかったのね」と思ったものです。
同居人は「それは仕方がないだろう」と言ったのですが重ねて「藤田東湖がついていながら?東湖も経済わかってないんじゃ?」と聞いてみると「それでも矢部が説明したことはわかったようじゃないか。それならたいしたものだ」
それもそうかも・・・言ってもわからない人が大半だったみたいですし。
ちなみに、「びいどろ正月」に出てくる南鐐ですが、これはおそらく文政七(1824)年に鋳造された「文政南鐐二朱」だと思うのですが、これは天保十三(1842)年八月六日をもって通用停止になっています。
「びいどろ正月」は黒船来航の後の話だと思っていたのですが、そのころには「南鐐」は通貨としては使えなくなっているはずです。(東京堂出版「日本史小百科 貨幣」より)
もう一つ余談を・・・「はやぶさ新八 幽霊屋敷の女」表題作で水野出羽守忠成のことを「びわぼん」と呼んでいます。
ところが「びわぼんをふけば〜」という狂歌が出たのは文政八(1825)年のはずです。(「妖怪」にもそう書かれてます)
ところが根岸の殿様は文化十二(1815?1816)年の十二月に亡くなっています。ですから「はやぶさ新八」で水野忠成のことを「びわぼん」と呼ぶのは本当はおかしいのです。
あの狂歌は「世の中は水野出羽守の思いのままだから賄賂次第で動く」という意味だと思っていたのですが、もしかしたら文政の貨幣改鋳を皮肉る意味もあったのでしょうか?
「メキシコ銀貨」と「江戸幕府・破産への道」
「メキシコ銀貨」雑考を書いた後でNHKブックス「江戸幕府・破産への道」(三上隆三著)という本を読んだのですが、どうやら平岩先生はこれをもとに「メキシコ銀貨」を書かれたようです。
「洋銀といえば、今日ではニッケルと銅の合金であるジャーマンシルバーとよぶものをさすのが通常であるが、幕末時では欧米人から受け取った、アメリカ・メキシコ・スペイン・イギリス領香港などで鋳造された銀貨の総称であった。」(161頁)
「アメリカ艦隊から購入日本物資への支払いに使用された一ドル銀貨は、量目七・一二匁で品位八六五のものであった。洋銀代表格のメキシコ・ドルは量目七・二匁の品位八九八である。両者の比較からも明白のように、アメリカ海軍の紳士たちも同じ人の子、旅の恥はかきすてとばかりに、良質のメキシコ・ドルは温存して悪貨ばかりをよって日本につかませたのである。このことは、当時のアメリカの一般的意識からすれば、まさか自分の手渡した銀貨が日本における高度の科学水準で精査されるとは想像だにしなかったということによるものではあるが、人間味ゆたかなエピソードではある。」(163頁)
「同種同量原則によって洋銀一枚には一分銀三枚、洋銀一〇〇枚には一分銀三一一枚が提供されることになった。」(171頁)
「いま一〇〇ドルの洋銀がもちこまれたとしよう。それを同種同量の原則によって三一一枚の一分銀に交換し、更にそれで七七両三分の小判を入手したとすれば、一三二・五匁の金を得ることになる。これをアメリカ金貨一ドル=純金〇・四匁で計算すると、三三一ドル相当となる。(中略)ただしこれは単純な机上計算であるにすぎず、現実には
事態はこのように運ぶものではない。同種同量の交換原則からわかるように、日本政府は一分銀と小判との異種交換には全く関知していないからである。したがって一分銀と小判の交換はアメリカ人個人の仕事であり、一個人としての日本人と直接に交渉しなければならない。交渉相手となるものは小判商人とよばれるものである。しかし、日本の金貨と銀貨との交換については、幕府は関知しないどころか、小判商人の手を経て金貨が海外流出することに目を光らせる幕府は、庶民の彼らへの小判売却を禁止したのである。したがって、小判商人は小判売却にあたって手数料プラス禁令を犯す処罰への保険料を要求することになる。つまり、外国人の小判購入価格の上昇である。」(172〜173頁)
「流出額については、これまでに二〇〇〇万両説から一万両説までという極端なひらきがあって、正確なところはわからない。私は約八〇万両と推定しておいた。」(182頁)
この「江戸幕府破産への道」に書かれた記述が随分「メキシコ銀貨」の元ネタになっているように思われるではないでしょうか?
実をいうと私個人としてはこの本の書かれた内容について少し疑問を持つところがあるのですが・・(大学教授の学説に素人の身で我ながら無謀ではありますが)
それにしても、短編一つお書きになるのにこういう本を一冊お読みになるとは・・つくづく作家って大変なんですね・・・感服
銀貨の質とモラルの関係
「江戸幕府破産への道」に書かれた内容で「メキシコ銀貨」でわからなかったことがわかったりしたことや疑問に思ったいくつかについてお話しようと思います。
「メキシコ銀貨」で源太郎君達が拾った銀貨の銀の含有量が6.16匁になる計算ですが、私は7.2匁に0.865をかけていましたが、作中には書かれてなかったかと思いますが、質の良くない銀貨は重量が7.12匁だったのです。(上質のものは7.2匁。品位のみならず重量も少し軽かったのです。)
7.12匁に0.865をかけると6.1588匁、四捨五入すれば6.16匁に確かになります。
疑問はいくつかありますが、まず彼らが「どうせバレないだろう」と思って日本人に質の悪い銀貨を支払ったという話はおそらく事実あったと思いますが、これについて三上先生は彼らのモラルが低劣であったといわんばかりに思われます。(高山さんもそういう口ぶりでしたね)
でも、これは別にアメリカ人のモラルが特に低いという問題ではなく、単に「グレシャムの法則」が働いただけのことだと思うのです。江戸の人だって同じ額面一分のお金を「一分金」と「一分銀」で持っていたら、支払いには「一分銀」を使って「一分金」の方はしまいこんだはずです。
相手が日本人だから騙そうとしたというより、相手が誰であっても質の良い銀貨はしまいこみ、質の悪い銀貨で支払ったと思うのです。(まあ相手が余程のコワモテの人なら二の足をふむかも・・・)
次に小判商人の要求する手数料の話ですが、彼らも外国人に小判を売るにはまず、商品である小判を集めなければなりません。持ち主は「グレシャムの法則」でもって小判をしまいこんでいるのです。手放すには相応の代価を要求するはずです。買い集めるのには人手を遣いその上、小判にもプレミアをつけて買い集めなければならないのです。
例えば、一分銀を四枚両替商に持っていき「小判に替えてください」という状況は本来ありえないわけです。一分銀四枚で一両として通用するわけですから、わざわざ手数料を払って小判に替えるのは通常しないわけで両替商に怪しまれるわけです。
「大君の通貨」では、「外国商人の手に渡る一分銀の数が激増した。するとどうなったか、小判の値がピーンと撥ねあがった。六イチブで取引されていたコバングが〇・五イチブ(二朱ですね)刻みで八から九イチブまで一挙にあがった。(中略)あわてて幕府は外国人に小判を売り渡すのを禁じた。」 それでも、日本人は、あの手この手で横浜へ小判を運び始めます。
「アメリカ彦蔵自伝」(東洋文庫)には「地元の商人がたくさんの小判を羽織の折目に隠し、外人地区にやってくるのだった」と書かれてあるそうです。
仮にも幕府の取締の目をかいくぐって運び込むのではたかが知れていると思うのです。流出した小判も今まではもったいなくて使わずに仕舞い込まれていたもの(死蔵とか退蔵という状態)です。それでは「生きたお金」とは言えず、外国人に売却し引き換えに得た六枚〜九枚の一分銀は消費に使われ経済を活性化するかもしれないのです。(えっ?近年稀にみる詭弁?)
小判流出自体は日本にとってそれほど損にはなっていないのです。(十分プレミアがついてますから)
「売国奴」は小判を売った人間でなく為替レートを受け入れた幕府の方なのです。
いったいいくら流出したのか?(上)
幕末に流出した金の量がいかほどであったか、三上先生は約八〇万両と推定されています。
「江戸幕府破産への道」には藤野正三郎(一橋大学の名誉教授をされている方らしいです)先生の研究として開港時の金貨流出を第一次のものとして、およそ八二〇万〜八六〇万両推定したものを紹介されています。その上に万延元年五月には洋銀は時価通用になり市場相場による交換レートや比価の成立にもかかわらず万延小判や万延二分金が流出したとして、同じく藤野教授の推定としてその第二次貨幣流出の規模を一一〇〇万両という数字を紹介しています。
これには疑問を覚えるのです。というのは、同じく「江戸幕府破産への道」には「金流出は安政六(1859)年八月下旬から十月中旬にかけての二か月と、一一月の中・下旬の二〇日間とに集中しておこった。」と紹介してあることによります。
この期間は幕府が外国商人に対して一分銀の両替を行なっていた期間なのです。一分銀さえ手に入れれば大儲けできますから、当然にように天文学的数字の両替要求が起きます。ところが、もともと幕府はこのレートで交換するのは不本意なので、在来一分銀の枯渇による両替不能という作戦をとります。時間稼ぎの姑息な戦法です。外交団に責められて渋々と八月下旬から一日一万六千枚の一分銀を両替することにします。
更に、たまたま十月十七日に起きた江戸城本丸の火事を理由に両替を中止します。これに外交団は「本丸火災と銀座の作業は無関係」とつっこみ、十一月十五日から一日に二万二千四百枚を限度に両替を再開します。
要求額に対し余りに少ない一分銀の供給に業を煮やしたハリスは、十二月末より量目七・二匁以上の洋銀の表面に「改三分定」と刻印を押して三分として流通されるように提案します。
ところが、これはほとんど流通しなかったのです。日本人が受け取りを拒否したためです。
翌年の初めには「直増通用令」を出して小判の値打ちを三倍に引き上げます。これ以降、外国人に小判を売り渡す者はいなくなったと思うのです。
ここで、外国人が手にした一分銀の量をもとに計算すると
@安政六年の八月下旬から十月十七日は一日に一分銀一万六千枚(額面で四千両)両替
つまり四千両×六十日=二十四万両
A十一月十五日から十二月下旬にかけて一日に一分銀二万二千四百枚(額面五千六百両)
つまり四十日として 五千六百両×四十日=二十二万四千両
上の合計は四十六万四千両になります。ただし、これは一両=一分銀四枚のレートでしかも両替した一分銀がすべて小判漁りに廻った場合の計算です。
これ以外に外国人が一分銀を入手したのでしょうか?
実際は、小判購入以外にも一分銀を使ったはずですし、まして翌年には金価格を引き上げたので、外国人に小判を売っても得にはならなくなるのです。
井伊大老が家来に「なるべく小判に換えておけよ」といった可能性があるという説まであります。一分銀で四枚持っているのと、二月以後には三両一分二朱になる小判で手元に持っているのとでは大変な違いになりますから、おいそれとは小判を手放さなくなるわけです。両替商の店先には大変な行列ができたそうです。
いったいいくら流出したのか?(下)
幕末の金流出がどれくらいだったか推定したものを、他のいくつかの本で調べてみました。
まず、「日本史小百科 貨幣」(東京堂出版)では、「・・・外国側の反対により安政二朱銀は二週間ほどで通用停止になった。その結果、日本からの金貨流出(一説に五〇万両)が本格化するが、その金貨流出の規模・期間はこれまで言われてきているよりは小さく、短いものであったという学説が提唱されている。」(116頁)
「この金貨の流出額に関しては、種々の推定が報告されているが、現在では合計五〇万両程度という見方が一般的になっている。」(150頁)
次に「貨幣の日本史」(朝日選書・東野治之著)では「その額がいくらだったかは、専門家の間でも意見が分かれ、大は八〇〇万両から、小は一〇万両まで、ずいぶん開きがあるが、妥当なところは三〇〜四〇万両というところだろう。 これは安政の改鋳で登場した安政小判の鋳造量、三五万両余りにほぼ匹敵する。おそらく天保小判以前の古い
小判も含め、流出していったことだろう。」(236頁)
「大君の通貨」に引用されている「横浜市史」では「まず三十万両前後としておくことが穏当なのではあるまいか。この金貨流出額は、従来予想された数字よりはるかに少ない」
これらの数字は、両替した一分銀の額面(麻生の計算では四十六万四千両)から推定したものだと思うのです。
五十万両は、額面をそのまますべて流出した小判に計算し、三十〜四十万両は、「手数料」や「小判漁り以外」に一分銀を使ったことも含めて計算したものと思うのです。
「貨幣の日本史」に出てくる安政小判は安政六年(1859)に一年限りしか作られていない小判で、もともと三十五万両余しか作られておらず、現存するものは極めて少ないそうです。
江戸後期の天保小判などと較べて時価で三倍以上するそうです。(レアなのですね)
これを「貨幣の日本史」ではほとんど全てが海外に流出して鋳潰されたためと推定しています。
可能性がないとはいいきれませんが、少し疑問なのです。例えば天保小判は鋳造高が八百十二万両余、額面にして安政小判の二十倍以上鋳造されているのです。現在時価評価でそれくらいの差がついても当然のような気がしますし・・・現存数が稀少なのも全て流出したという他に、回収されて万延小判などの新しい小判に吹替えられた可能性もあるのではないでしょうか? 万延小判は安政小判と品位は同じ(56.8%)で重量が三分の一になっただけなのですから・・・
両替した一分銀(四十六万両余)も小判一枚につき一分銀八枚要求されたら半減してしまうのです。
小判にプレミアがつくと小判以外の商品を買いあさった方がお得になるのです。
洋銀一枚=一分銀三枚だと、小判以外の全ての品物が三分の一の越コストで手に入ることになります。例えば、三両の品物を外国人が買う時、本来12ドル出さねばならないのですが、誤った為替レートだと4ドルで買えることになってしまいます。
その為に手当たり次第商品を買い漁ることになり、物価が上がり始めます。その上に金価格を引き上げた為に未曾有のインフレが起こったのです。
「迷子の鶏」と銅流出
小判にプレミアがついて引合わなくなると、商品を買い漁る騒ぎになったとお話しましたが、買い漁った商品の中に「銅」がありました。「大君の通貨」を書かれた佐藤雅美先生が「江戸の税と通貨」(太陽企画出版)という本を書かれていて、その中にある話です。
幕末になると幕府も銅取引に神経質になりました。日本の大砲は鉄ではなく、銅を素材としていたので国防上重要な戦略物資であると考えられたためです。実際は、西洋列強はすでに鋼鉄製の大砲を使うようになっていたのですが・・・(上野の彰義隊はフランス式の旧青銅砲を使っていたのに対し、新政府軍が鋼鉄製のアームストロング砲を使い、一日で勝負がついてしまったことなど象徴的に思える話です。)
黒船が来航し、欧米の国々と通商を行うようになると、日本の銅が持ち出され、その上諸外国の間で銅の分配をめぐってトラブルが起きるのではないかと心配したのです。
それまで日本が交易していた中国やオランダは自国内に銅が乏しいので輸入品の代価として銅を拒まなかったのです。特に「銅はオランダ人にとって花嫁に匹敵する」とまでいわれていたのです。その為に英米も日本の銅を咽から手が出るくらい欲しがっていると錯覚してしまったのです。実際はアメリカ、イギリスは産銅国で産業革命以後、産銅量を増やしていたので日本の銅を渇望していたわけではないのですが。
その為、安政四年(1857)八月に水野忠徳が日蘭和親条約の追加条約を結ぶときに、銅の原則輸出禁止条項を盛り込んだのです。
翌年の六月から九月にかけて、幕府は五カ国と通商条約を結びますが、そちらにも「銅の原則輸出禁止条項」が盛り込まれました。
ところが、更にその翌年の安政六年(1859)六月に横浜・長崎・箱館が開港すると、開港直後に横浜で銅器・銅製品が買い漁られるという騒ぎが起こったのです。
外国側は「原則輸出禁止」の銅は銅地金(棹銅)と限定し、銅器・銅製品は該当しないと主張したのです。
日本の商人も、外国商人の求めに応じて、用途不明のやたら大きい船釘や十能、中身が空洞になっていない薬缶などの銅製品を作って外国商人に売り渡したのだそうです。
この話を読んでいて、ふと「迷子の鶏」の事件を思い起こしました。「横浜では大砲の材料にするために銅が引張りだこになっている」というデマが飛んで江戸近在のお寺の鐘が盗まれるという話です。
あれは、開港直後に外国商人がなぜか銅を買い漁ったことを背景にした作品ではないでしょうか?
幕府は「やはり銅が抜き取られる」と緊張したかもしれません。
しかし、これは日本の銅を必要としたのではなく、三分の一のコストで日本の商品を買えることから起きたのです。
金に限らず、その他の商品も三分の一で買えるのですから、小判の値が上がれば、商品を買い漁ることになり、特に単価の高い商品に人気が出ただけのことです。
その為、小判一枚が三両一分二朱になれば、やがて銅の買い漁りは終息しました。オランダ以外の国は、格安ならともかく日本から銅を買う必要は無かったのです。
ということは「迷子の鶏」は横浜が開港した安政六年(1859)年の秋の話でしょうか?
この頃、おるいさんは身籠っていましたので、千春ちゃんが誕生したのは翌七年(1860)の立春でしょうか? でも「丑の刻まいり」も同じ年になるんですけれど・・・
「びわぼん」と「縮尻鏡三郎」
以前、「長崎会所の不正の中味」を書いた時、もし長崎会所が幕府に損をさせていたのなら、会所の赤字を幕府に穴埋めさせていたことになるはず、と書きましたが、「江戸の税と通貨」を読んでいて天保前期に幕府が会所の赤字を実際に穴埋めした時期があったらしいという事実を知りました。但し、これは銅の値段を誤魔化したことによる損失
ではないようです。
繰り返すようですが、市中相場で百斤銀百七十三匁二分の銅を銀六十匁二分五厘で売り渡しているといっても、実際に棹銅について銀で支払わせているのではなく、輸入品に対する支払いの形で引き渡しているのですから。
日本はオランダ相手の交易では樟脳以外にめぼしい輸出品がないので、銀や銅と引き換えにする他はなかったのです。
中国相手には、海産物(鮑、海鼠などの乾物)、これを俵物というそうですが、を輸出していましたが。
以前、貿易額の制限を「正徳の新例」に基づく数字で紹介しましたが、「貨幣の日本史」には、その後「寛政の改革」の時に更に制限がきつくなり、総額の上限を銀で七百貫に減らし、銅も六十万斤しか持ち出せなくしたのです。
それでは、貿易量は減ってしまい利益をあげることはできませんし、その上、秤量銀貨の品位も低下している以上、相
対的に輸入品も値上げされているはずですから、長崎が立ち行きません。
試みに、寛政以降の制限額を銅の単価で計算してみましょう。
「妖怪」の時期の市中相場は銅百斤=銀百七十三匁二分ですから、銅六十万斤は銀千三十九貫二百匁、制限額の銀七百貫をオーバーしてしまいます。そこを銅百斤=銀六十匁二分五厘で計算すると、銅六十万斤は銀三百六十一貫五百匁。残り銀三百貫以上余裕があることになるのです。
この時期、長崎会所が出した赤字は、薩摩藩が貿易に割り込んできた為だったのです。
文化十四年に松平信明が亡くなると、「びわぼん」が実権を握り、彼に御台所の父島津重豪が運動し、長崎で交易品の販売許可を得たのです。
少しづつ取扱い品目を増やしてもらい、しかも長崎の薩摩屋敷での売却を認めさせるなどの運動を行い、天保二年には利益が出るようになったのです。
しかし、その分長崎会所の利益は減り、天保四年には上納どころか、幕府から金を拝借する羽目になり、以降天保五、六、七年と続けて幕府から借金する状態でした。
天保五年に「びわぼん」が亡くなると、幕府の査察が入り天保十年から薩摩の長崎での唐物売りさばきが停止されます。
世にいわれる「薩摩の密貿易」はこのようなものだったらしく、佐藤雅美先生は「縮尻鏡三郎」にこの話を取り入れて書かれています。
後に、水野忠徳や川路聖謨が「長崎で銅を不当に安く売り渡している。重大な御国損だからやめさせねば」といい始めたらしいのですが、貿易額を圧縮して、貿易量を維持するためのカラクリとまでは思い至らなかったようです。
水野忠徳や川路ほどの人物でさえ、気付かなかったのですから、鳥居に分からなかったもの無理はありません。鳥居耀蔵という人は、経済に明るかったとも思えませんし・・・「縮尻鏡三郎」はドラマの時は今一つノレなくて(ちゃんと見ていたわけではないのですが)、文庫の解説を見ていたらなんとなく面白そうなネタが出てくるので、早速図書館から借りてきました。どうやら、長崎会所のカラクリに気付いたのは鏡三郎さんだけだったようです。
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