「メキシコ銀貨」と「天保一分銀」
「初春弁財船」をやっと借りて読んでいるところなのですが、「メキシコ銀貨」を読んでいていくつか「?」という箇所が出てきたので、今回はその話をしたいと思います。
この話は結構人気があるようで本家掲示板にも何回か書き込まれていますね。高山仙蔵さん、なかなか特異なキャラでこれからもなにかと登場されそうですが・・・
まず、「メキシコ銀貨」一ドルがなぜ一分銀一枚と同じかということです。
たしかに天保一分銀は銀の純度が高い貨幣です(ほぼ100%)が、一方で重さが2.3匁しかないのも事実です。純銀であっても重量2.3匁しかなければ含まれる銀の重さは2.3匁でしかありません。
他方、メキシコドルの品位の低さを高山先生が言い立てておられますが、品位865(おそらく86.5パーセント)で重量7.2匁あるのです。
高山先生もメキシコドルに使われた銀の重量が6.16匁あるのを自分から説明しておられるのです。(7.2匁に0.865かけると6.228匁になってしまい計算があいません、何が間違っているのでしょう・・・)
銀の含有量2.3匁の一分銀がなぜ銀の含有量6.16匁のメキシコドルと同じ値打ちであると主張できるのか? 銀の含有量からいって一ドル=一分銀三枚というハリスの言い分の方に理があるのではないか? 利発な源太郎君、麻太郎君が何故つっこみをいれないのか・・・当然出てくるべき疑問に対する高山先生の解説がないのは何故か・・・
結論をいうと多分、短編には収まらなくなること、「御宿かわせみ」ではなくなってしまうということ、御政道批判になってしまうということが考えられるのですが、ここらへんの事情について泥縄式に調べてみました。
私が初めて「一分銀」の存在について考えるようになったのは「茂七の事件簿」の「鬼子母火」で見かけた時のことでした。それまで一分は一両の四分の一で四朱にあたる、つまり金貨だと思っていたものですから、「一分銀? 銀とあるけど一両の四分の一の一分?」と思い、いくつかHPを検索してみたものでした。その時は、天保八年(1837年)に発行された銀貨で一両の四分の一として流通するということを知っただけで、それ以上のことを勉強しないで済ましてしまったのです。
ちなみに「鬼子母火」の次の作品「消えずの行灯」で永代橋崩落から十年後というフレーズが出てきましたが、永代橋が崩落したのは文化四年(1807年)のことで、その十年後なら文化十四年(1817年)のはずで「一分銀」が出てくるのとは二十年もの開きがあります。「鬼子母火」は本来「茂七」シリーズでないので、当然、原作には「一分銀」を出すシーンは出てきません。
ところで、この話に出てくる一分銀というのは、「妖怪」で天保の改革時に物価引下げ令を出した時に矢部定謙が取り上げた「桜銀」なのですが、「妖怪」を読んだ時は読み飛ばしていました。ただ、物価を引き下げたいのなら貨幣の質を上げなければ意味がないという意味だというのは感じられたので、矢部を軽薄な人物として描写する意図だったのかもしれませんが、却って「本当に矢部がそう発言したならさすがに矢部は水野や鳥居と違って経済というものを解っている大した人物」という印象を受けてしまったのです。
そこで「一分銀」というのはどういう性質の貨幣で、なぜ約三倍の銀を含む「メキシコ銀貨」と同じ値打ちになるか考えてみようと思います。
「メキシコ銀貨」と「大君の通貨」
以前(2001年12月5日付)、本家掲示板に「源さん」様も書き込まれていましたが、遅まきながら「メキシコ銀貨」を読んでいて「?」な箇所に対する参考になるかと思い「大君の通貨」(佐藤雅美著・講談社文庫)を読んでみました。この本は、かなり以前に同居人(経済学部を卒業)が「面白い」といって読んでいたのですが、私は経済が苦手で「なんとなく難しそう」と思って敬遠していたのです。少し難しいですが、どうにか「幕末の金流出」に関して解ってきたような気がしました。ドキュメントのような不思議な作品で、派手さはないですが、いぶし銀のような面白い小説でした。
もともと江戸時代の日本には小判のような単位の銀貨(計数銀貨)はなくて、秤で重さを測って決済する延べ棒のような銀貨(秤量銀貨)、丁銀・豆板銀が使われていました。
「卯の花匂う」や「釣女」でお寺に寄進する御戸帳の代銀をごまかすのに貫目という単位が出てきましたが、一貫目=千匁=3.75kgという重量を表す単位でした。京・大坂では、小判何両で決済する江戸とは違い、銀の重量で決済する方式でした。といってもこれは身分ある人、お金のある人の話で、その日暮しの庶民は全国どこでも普段は銭貨(銭形平次の寛永通宝のような)しか縁がありませんが。
金一両が銀何匁にあたるかは、その時の経済状況に左右される、今の円とドルのような相場になっていました。幕府は最初一両=銀五十匁=銭四貫文と公定しましたが、結局自然に相場が立つようになり、一両が銀何匁で銭何貫文にあたるか、その時の相場次第というややこしい状態になります。両替のタイミングによって得したり損したりするわけです。
ところが時代が下ってくると国内の金銀の産出量が減ってきて、貨幣をつくる材料が不足してきます。だからといって通貨の製造量を減らせば、経済の血液であるお金の流れが滞ってしまいます。
そこで元禄の頃、荻原茂秀の意見により金銀貨の改鋳をします。混ぜものをして貨幣の発行額面を増やしたわけです。小判二枚分の材料で三枚作ってしまうような・・・(小判一枚分が幕府の利益になります=改鋳差益、俗にいう出目稼ぎ)
荻原という人は「貨幣の流通はお上のご威光(政府の信用)であるから素材の良し悪しではない」ということにいち早く気付いたある意味では天才だったわけです。
新井白石のような儒学者はこういうタイプを嫌うらしく六代家宣の治世になって悪政として全て否定されてしまったのです。
その後、幕府は小判の品位を上げたりしますが、デフレになるなどして、結局は元禄小判より少し金の含有量の少ない元文小判に落ち着きます。
これが、江戸時代の第一次通貨革命とでもいうものですが、その後もう一人の天才・田沼意次(「魚の棲む城」の主人公ですね。同居人は知り合った頃からずっと田沼を評価していて「彼が評価されないのはおかしい」と言い続けていました。七〜八年くらい前です)の登場によって第二次通貨革命というべきものが始まります。
江戸時代の貨幣の歴史については日銀貨幣博物館のHPを参考にしています。幕末の金流出についても説明されていて勉強になりました。
「一分銀」誕生への道
もともと、江戸幕府は日本全国を共通した通貨で統一したかったようなのですが、大坂などでは銀の重量ではかる決済方式がすでに根付いていたこと、最初どうしても大坂から下ってくる商品に依存していたため秤量銀貨を発行せざるを得なかったのです。その後、少しづつ大坂への依存度が下がってきたので、銀経済を金経済に組み込もうとしたのです。
手始めに一枚の銀重量が五匁の「明和五匁銀」を発行します。これによって
@資金決済の費用削減
A金貨による幣制統一(小判の体系に組み込む)
ことを目指しました。しかし、両替商の反発などから普及しませんでした。
次に、明和九年(1772年)一枚で二朱=八枚で一両の計数銀貨、南鐐二朱銀を鋳造します。「びいどろ正月」にも出てきた「南鐐」です。
この時の南鐐二朱銀は一枚の重さが2.7匁でした。一両で21.6匁です。幕府の想定している相場は一両=銀六十匁です。但し、幕府の鋳造していた元文丁銀は二十五匁中の純銀量が十匁でした。(今まで純銀だと勘違いしていましたが銀に銅を混ぜたものだったのでした)つまり、元文丁銀で六十匁なら、含まれる銀はその五分の二である二十四匁です。
「南鐐」八枚(額面一両)の銀の重量は、元文丁銀六十匁の90%ということになります。「南鐐」八十枚(額面十両)鋳造すると一両分幕府が潤うことになります。但し、田沼失脚後、松平定信によって一度「南鐐」の鋳造は中止されてしまいます。
その後、松平定信が失脚してしばらくして、南鐐二朱銀は復活します。更に文政七年になると、銀の含有量を更に少なくした(銀二匁)文政南鐐二朱銀を鋳造します。一両=銀六十匁(但し文政丁銀は品位36%)として計算すると一両に含まれる銀は21.6匁、一方、文政南鐐二朱銀は八枚(額面一両)で銀十六匁です。文政南鐐二朱銀は額面一両の銀の量が秤量銀に較べると74%しか含まれていないのです。この時期の幕府の改鋳は、あからさまに出目稼ぎを狙ったものなのです。(贋金作りが贋金呼ばわりするという笑い話がありました。「俺達の方がまだ良心的だ」ということでしょうか?)
天保一分銀が出た時も事情は同じでした。
一分銀を鋳造した天保八年は「大塩の乱」などが起きた年です。連年の飢饉で幕府は更に財政に困り、銀2.3匁で一分という「一分銀」を出したのです。
明和の二朱銀は2.7匁でしたが、額面が二倍の「一分銀」はそれより銀の含有量が少ないのです。
同じ年に鋳造された天保丁銀は品位が26%でした。一両=銀六十匁として銀の含有量は15.6匁です。
他方「一分銀」四枚では銀9.2匁です。一分銀は秤量銀に較べて銀が58.9%しか含まれていません。
これは「大君の通貨」に較べるとまだ甘い計算になります。「大君の通貨」では一分銀
は本来必要な銀の三分の一しか銀が含まれていないという説明になります。(実際は変動相場制なので一両=銀六十匁には一定していない、あくまで目安)
「大君の通貨」では一分銀は銀でできてはいるが、銀の値打ちで通用する通貨ではなく、あくまで金貨の代用品で紙幣のようなものと結論づけてありました。メキシコ銀貨のように銀の含有量で通用している通貨ではないのです。銀の重量で比較することが間違いだったということです。
「メキシコ銀貨」一ドル=「一分銀」一枚の根拠
ここで高山仙蔵さんがメキシコ銀貨一枚は「一分銀」一枚と同じ値打ちといった根拠について「大君の通貨」では金貨の金含有量をもとに説明されていました。一分銀は本来は金貨の代用を勤める通貨なので本体貨幣の小判の金含有量をドルの金貨の金含有量とを比較する説明が出てきます。
ドルの金貨は20ドル金貨しかないのですが、あまりに高額(水兵の給料二か月分)なのでめったに出てこないものでした。ここら辺の事情は小判と同じ、むしろ大判(額面十両、実質七両二分)に近いかもしれません。
ここで20ドル金貨の金含有量は小判五枚分と同じという記述があります。つまり一両=4ドル、一ドル=一分という説明です。
ここまで説明すると幕府が出目稼ぎをしていることを説明することになり「御政道批判」ととられかねないというわけです。
今日、私達は「紙切れ」にすぎない紙幣を当り前に使っていましたが、十九世紀の時点では、世界的にまだ当り前ではなかったのです。日本でも保守的な儒学者などは小判の品位を落すことは大罪であると考えていたのです。
必ずしもそうではないですし、適度な経済の成長には通貨供給量を増やすことは必要です。ただ、経済状況をわきまえずに出目稼ぎに走ってしまったのが文政・天保の改鋳だったのです。
「妖怪」の中で矢部が「桜銀」をどうにかしないと物価は下がらないと言ったのに水野は機嫌を損ね「過去の失政をあげつらって何になる。こちらは負の遺産を背負って改革しなければならないのに」と言ったという話でしたが、「桜銀」が出た時には水野忠邦はすでに老中になっていたのです。大御所家斉がまだ生きていてその側近がしていたことを止められないといっても、まったく責任が無いとは言い切れないと思うのです。矢部は「桜銀による差益を懐にして置き、それはそのままにしているのに商人にお触れだけで物価を下げさせようとするのは無理だし、虫が好すぎはしないか?」と言いたかったのではないかと思うのです。もっとも、矢部が藤田東湖に語ったというこの話が事実あったものか、それとも創作かはまだ確かめていませんが・・・
話を幕末の金流出に戻しまして、私達が歴史の時間習ったのは、「日本での金銀交換比率は1:5なのに諸外国の方は1:15なので日本から金が持ち出された」という説明でした。この話のイメージから金や銀の延べ棒を重量比で交換した様子を想像していたのですが、実際は1:5の比率なのは小判と代用通貨の一分銀だったのです。
ところで、「一分銀」が出た後の経済状況を「大君の通貨」では「グレシャムの法則」が働いたと推測しています。「悪貨は良貨を駆逐する」というあれです。(紙幣には関係ない話)
小判を手にした人は、その小判を使わず金庫(?)の中にしまい込み、普段の支払いには一分銀を使った筈であると。だから、この時期を描いた時代劇や小説で小判がポンポン飛び交うのは間違いの筈だというのです。(吉原で豪遊する時も、一分銀で支払っていたのでしょうか? 小判が飛び交っていた方が雰囲気は出ますけれど・・・)
蛇足ながら、天保小判・一分金の鋳造高は八百十二万四百五十両、対する一分銀の方は千九百七十二万九千百三十九両でした。(日本史総覧 近世Tより)
「メキシコ銀貨」の設定年代?
「メキシコ銀貨」を読んでいて疑問に思ったもう一つはこの話の設定年代は何年なのか?ということでした。前作「佐助の牡丹」収録の「江戸の植木市」で勝が軍艦奉行を罷免された(1864年)事が出てくるので「江戸の植木市」は1865年ということになります。「初春弁才船」表題作で1866年になったことになります。(実際は西暦と和暦でズレる)
作品発表順にエピソードが並んでいるなら、1866年の四月の話ですが、時々時間を遡ることがあるようなので検証してみたいと思います。
高山先生は水野忠徳が勘定奉行から田安家家老に移されたという話に触れていました。安政四年(1857年)十二月三日のことです。
ところが、七ヶ月後の翌年七月八日には外国奉行として復活しています。そのことに高山先生が触れてないなら「メキシコ銀貨」は安政五年四月のエピソードでしょうか?
ところが、安政五年に蟠竜丸が贈られたことが出てくるのです。これは、安政五年七月に日英通商条約を結んだことに伴って贈与されたので、四月の時点ではまだ日本に存在しないはずです。(エンペラー号が寄贈された詳しい日付を調べて確定したいのですが、検索した範囲では確認できませんでした。詳しくはエルギン卿の伝記のようなものを読む必要があるかもしれないです。)
水野忠徳の職歴から離れて、ドル=一分銀三枚の交換レートが決まった時期を探ってみました。小学館の「江戸東京年表」によると安政六年(1859年)の六月二十二日です。
この時点で水野忠徳は外国奉行に勘定奉行を兼ねています。(四月八日に勘定奉行に復職)ただし、大事な交渉の最中にはずされていたのでこの時には間に合わなかったようです。銀の含有量1.5倍の新二朱銀(額面一分で銀の量が三倍)を作って対抗しようとしたけれども英米がいやがった、というのは高山先生の説明どおりです。
高山さんは主人が左遷されたので浪人したわけですが、少し早まったのではないでしょうか・・・もっともその直後の七月二十八日に起きたロシア士官暗殺事件の責任をとらされて水野は外国奉行を罷免され、軍艦奉行に移されてしまいます。更に井伊に睨まれて西丸留守居という閑職に追われてしまいます。小判流出の起きていた時に水野はまたしてもはずされてしまったのです。
ここで、幕府は何も手を打たなかったのでしょうか? 打つには打ったのです。但し、むしろ打たない方が良かったのです。実際は金流出よりこちらの方が問題でした。ハリスやオールコック(「大君の通貨」ではそれほど悪人ではなく経済にやや疎い人として書かれています)に「金の流出を防ぐには金の値打ちを上げることだ」と勧められて金価格を引揚げたのです。安政七年(1860年)の二月一日から一両を三両一分二朱として流通させるというお達しを出したのです。
更にその年の四月には金の含有量を三分の一にした新しい小判「万延小判」(少し前の三月三日に「桜田門外の変」が起きて年号が安政→万延に改元している)を鋳造します。
これで金の流出は終わったはずなのです。但し、このために大変なインフレが起きました。特に米など信じられない値上がりをします。(実はこうしなくても金の流出は止まっていた可能性があります。)
一体「メキシコ銀貨」は何年の四月〜五月のエピソードなのでしょうか?
「金流出」と「小判商人」の実態
前回の話で「金流出」は自然に止まっていた筈と書きましたが、今回はその理由を書きたいと思います。今まで幕末の間ずっと金流出が続いていたというイメージをもっていましたが、せいぜい半年かそこらのものだったのです。小判商人という闇の組織相手の戦いをこの後することになるという話ですが、その前に小判商人の活動は終わってしまったはずなのです。
幕末に流出した金の量が「二千万両とも一万両とも」と書かれてますが、額が違いすぎることをさておいて、二千万両はありえない数字です。天保小判・一分金あわせても鋳造額は八百十二万両余に過ぎません。二千万両出て行く訳がないです。「大君の通貨」では流出した額は六〜七万両と計算しています。幕末のことを書いた「日本の歴史」シリーズなどでも流出額を五十〜六十万両と書いたものがありますが、どれも実際に流出した金の量を確認できずに想像したものなのです。
ただおそらく流出の勢いがものすごかったために大変な量の小判が出て行ったと考えてしまったのですが、ほんの一時の瞬間風速のようなものだったわけです。実際、金の流出はたいした問題ではなくまた幕府が手を打たなくても自然に止まったはずなのですが、その理由をお話します。
「一分銀」が誕生した時点で「グレシャムの法則」が働き、小判は金持ちの金庫の中にしまいこまれ、流通にまわるのは「一分銀」ばかりになったと書きました。
その状態で、例えば外国人が「一分銀」四枚持っていったところで小判にあっさり替えてもらえるでしょうか?
「手数料一割というのは法外だが・・」とありますが、一割というのは法外とはいえないのです。まず、小判の持ち主は一分銀四枚の公定レートでは小判を手放さないはずです。「大君の通貨」では一分銀六枚くらいで話をつけたのではないかと想定しています。
そのうち小判を買い集める者が現れてたちまち小判にプレミアムがついていきある時点では小判を買って海外で売り捌いてもひきあわなくなるのです。つまり、外国人の小判漁りはすぐに収まります。また流出した金にしろ、それまでは金持ちの金庫の中で眠っていたもので国内の流通に出回ってないのです。国外に出て行ったところでたいした違いはないのです。
本当は一ドル=一分銀三枚のレートだと外国人にとっては日本の品物を三分の一のコストで買えることになり、こちらの方が問題だったのです。(大部分の外国商人が「日本は世界一物価の安い国」と誤解していたらしいです。恐ろしい事に)
「小判商人」の実態について書かれてあるHPを見つけました。「幕末千夜一夜」というHPなのですが「1860年正月十日ごろ、武蔵国南小曾木村の部落まとめ役である市川庄右衛門の所に小判や一分金を買いに来た者がある。一両小判を一両三分、一分金は一両一分で買い取った。28日には値上がりし小判一枚が二両三分から三両になった」
これはもう外国人が買いつけても引き合うレートではありません。この時の小判買いはその十日後の「小判直増通用令」に関係があるようです。一両が三両一分二朱になるというお触れが出るのが事前に漏れていた可能性があるのです。
外国人の小判漁りは前年のうちに下火になっていたというのが「大君の通貨」での推定です。今回参考にしたHP「幕末千夜一夜」はとても面白いHPです。よろしければご一読下さい。
幕末に起きた米騒動
「万延小判」を鋳造したために急速にインフレが起こったという話をしましたが、実際に幕末に起きた物価の値上がりはすさまじかったようです。
日銀貨幣博物館のHPなどで万延小判のカラー写真を見ましたが、それ以前の小判と並べると大きさもはるかに小さく、色調も小判というより真新しい十円玉のような色合いです。同じ小判と名乗っているのが何かの悪い冗談のように思えました。「これではインフレが起きるだろうなあ」と思わせるに十分というか・・・金の含有量が三分の一になっているのですから、理論上あらゆる物価が三倍になるということになります。
(幕末に書かれた「藤岡屋日記」という日記などにも幕末の米価について百文あたり何合買えるかという、「百相場」と呼ばれる数字を記載してあるそうです。)
「春の高瀬舟」で、お吉さんが百文で一升買える話に飛びついてお米を買い込んだ話がありました。その時点では百文で六〜七合が相場だったようですが、「江戸っ子は見栄っ張りだからそんなお米を買ったら『かわせみ』が左前になったと噂される」と源さんが言ってました。しかし、そんなのんきなことを言っていられない状態だったようにも思えます。米価が上がってもそうそう宿賃をあげるわけにいかないでしょうし・・
「春の高瀬舟」の設定年代がいつかわからないのですが、おおむね幕末になる前の江戸時代後期は、飢饉などでないかぎり百文で一升買えたようです。
よく目安として一石一両という数字を出しましたが、小売りしてもらうと大量に纏め買い(俵単位か一石単位でしょうか)するのと違って割高になってしまうのです。(一両は六〜七貫文くらいでしょうか)
「春の高瀬舟」は開国の後の話と思っていたのですが、もの凄いインフレが始まっていたのではないか?と思うのです。横浜、函館などが開港したのは安政五年(1859年)五月なのですが、その年の正月には百文で下白(白米の下級品ということと思うのですが)六合七勺しか買えなくなっています。百文で一升ならお吉さんでなくとも飛びつくと思います。
文久元年になると二月には一両で三斗しか買えなくなり(百相場不明)慶応年間になると百文で二合買えなくなっているのです。こうなると、もはや小判改鋳によるインフレだけでは説明できない値上がりです。(三倍以上)
文久の頃には攘夷論が盛んになり諸侯が糧米を蓄えるようになったため米価が上がったと書かれている本もあるのですが、いま一つピンときません。
理由を色々考えていてふと仮説(あくまで想像ですが)を思いつきました。
江戸時代を通じて大名家は米(その他特産物)を売却して財政を賄っていたわけですが、多分それまでは早く現金を手に入れたくて売り急ぐ傾向があったのではないでしょうか?
ところが、幕末の凄まじいインフレの中でそのうち「現金で持っていても目減りしてしまう」ことに気付いたのではないでしょうか? 額面はそのままでも、日毎に遣出が悪くなるのです。
おそらく諸藩は、なるだけ商品(米)のままで持っていてどうしても現金が必要な時にだけ、売却するようになったのではないでしょうか?
結果的には売り惜しみですが、大名家にとってはインフレへの自衛策だったのではないか?と考えてみたのです。あくまで私が考えただけの仮設(小市民的珍説?)ですがどうでしょうか?
「妖怪」と「大君の通貨」
「大君の通貨」を読んでいて、以前「妖怪」を読んだ時に理解できなかった記述が一つ理解できたような気がしてきました。高島秋帆が逮捕された理由とされた「長崎会所の銅取引の不正」に関する記述です。
「お上の銅座において百斤百七十三匁二分で取引される銅を六十匁二分五厘で売却している。お上に損をかけているけしからん」という趣旨でした。この記述は小学館の「日本の歴史 第二十二巻・天保改革」の中にもありました。(端数も一致しています。文庫版の参考文献リストに載っていました。)
「妖怪」を読んだ時、「確かに不正があるとしても、わざわざ損になる取引をすることで長崎会所にどんな利益があるのだろう?」と思ったのです。
いくら貿易で利益をあげられるからといって意味もなく損になる取引をするのは理解できません。それにお上に損をかけるというのも(長崎会所は名目上幕府のもの。あくまで名目上です)本当に幕府に損をさせているなら、会所が出した赤字を幕府が補填していなければならないはずです。
実際には幕府は長崎会所の収益から運上金を取り立ててましたし(千五百両、毎年か毎月か不明)、長崎奉行は俄大名と呼ばれるくらい見入りのいいポストでした。会所から毎年一万五千両から二万両もの賄賂を慣例として受け取っていたのです。
その上、会所の収益で長崎の地役人の給料や長崎市中の助成金を出した上、市民に箇所銀・竈銀と呼ばれる配当を配っていたのです。(最低七万両)
箇所銀は地主に配分され、竈銀は借家人に配分されました。文政六年(1823年)以降、箇所銀は一箇所につき年百三十四匁、竈銀は一竈につき年三十五匁でした。
お上を食い物にして私腹を肥やしているとかいうのでは、説明ができないはずです。それなら、とうに長崎会所は取り潰されて、一切の交易が禁じられている筈です。
「釣女」では、相手が朝廷でも、不正にメスを入れた幕府です。町人相手に遠慮はしないでしょう。
「大君の通貨」を読んで、その不正というのが、実質貿易量を確保するための苦肉の策だたらしいことがわかりました。
江戸中期以降の幕府は「貿易は国の筋骨たる金、銀、銅を抜き取られ、何の益にもならぬ奢侈品を移入するもの」という理念を持っていて、これを背景にしばしば貿易縮小策をとり、貿易額や船舶数を制限していたのです。とんだ自己矛盾です。
改革といわれたものの究極の目的は「権現様の時代に返れ」だと思うのですが、彼等が理想とする権現様の時代には、盛んに交易を行っていたのです。海外との交流に制限を加えるようになったのは、「偉大な」権現様と違って、後継者達が諸外国と渡り合う自信がなかっただけだと思うのです。
もう一つ疑問に思ったのは、鳥居が高島秋帆を告発する時に採用した密告人の本庄茂平次という人物のことです。
本庄は長崎役人の子で、高島家に出入していたが、素行不良で高島家から追い出された(一説には罪を犯して長崎にいられなくなったとも)人物といわれています。もっとも、どういう事情で長崎にいられなくなったのか、不明なのですが、それが事実なら、彼を召抱えた鳥居は「ワキが甘い」といわざるを得ませんし。
本庄の前歴にかんする定説は根拠のない俗説なのでしょうか? 「妖怪」で本庄の前歴に関する言及が無いのは残念です。私が読み落としているだけでしょうか?
長崎会所の不正の中味
前回、長崎会所が銅取引で行った不正は、貿易を維持するための苦肉の策だったらしいという話をしましたが、それについて少し調べてみました。「長崎会所」で検索したいくつかのHPと「図説・長崎歴史散歩」(河出書房新社)を参考にしました。
「妖怪」の頃の長崎貿易は「正徳の新例」による制限を受けていたと思うのですが、これは「オランダ船は、一年に二隻まで貿易額は銀三千貫目とする。その一部を銅三百万斤で支払う。唐船数は年に三十隻までとし、貿易額は銀六千貫目とする。その一部を銅百五十万斤で支払う」という制限でした。
銅百斤につき銀百七十三匁二分の市中相場で計算すると、三百万斤は、銀五千百九十六貫目となり、制限額の銀三千貫目を上回ってしまいます。(「妖怪」で銅百斤につき銀六十匁二分五厘で売り渡したのはオランダ相手、中国相手には百斤いくらのレートで売り渡していたかは「日本の歴史 天保改革」にも記載がないですが、「大君の通貨」では百十五匁とありました)
ここで、銅百斤につき銀六十匁二分五厘で計算すると、銅三百万斤は銀千八百七貫目五百匁となり、残り銀千百貫目余制限額が残りますのでその分、商品を輸入することが出来るのです。
もともと、銅百斤あたり銀六十匁二分五厘というのは、初期にきめた公定相場だったらしく、その後、銅の市中相場が値上がりしたため、幕府の決めた制限額を守っていては、貿易量を維持できないのです。というより、銅の相場を市中相場で計算すると制限額を守ることは計算上からも不可能ということになります。
制限額を定めた当時に較べ、物価だって変わりますし経済事情だって変わるのです。
江戸初期には金銀の流出を問題視して、なるだけ銀が国内より出て行かないように貿易額の一部を銅で支払うようにしたのでしょう。ところが、江戸後期になれば銅が銀に対して値上がりをしただけのことなのです。
銅の取引でみすみす損をしているように見えますが、見かけ上の(輸入に対する)支払額を少なくする、見た目の貿易額を圧縮する為のカラクリで、その分は、輸入品の単価を圧縮しているので損はしていなかったわけです。こうでもしなければ、長崎の町は寂れてしまい「日々の煙も立ちかねる」状態になっていたことでしょう。
「お上に損をさせている」というタテマエですが、確かに名目上長崎会所は幕府のものですが、おそらく幕府は設立資金をほとんど出していないと思うのです。(確認できる資料をまだ見つけていませんが)建前上は、幕府のものだけれど、運営するのは長崎の商人のもので、実質上は長崎町人のもの、長崎町人は「名を捨て実をとった」そういうことではないでしょうか?
名目上幕府のものにしておいて、運上金を支払い、長崎奉行に莫大な賄賂を差し出すかわりに、会所の運営について詮索させない、それが江戸時代の長崎の実態だったらしいのです。
おそらく、歴代の長崎奉行は例外なく(あまり考えたくないことですが、金さんのお父上・遠山景晋さんも)賄賂を受け取っていたでしょう。というより、「こんな筋の通らない金は受け取れない」とか奉行に言われたら長崎会所の方が困るので、奉行を更迭させるために画策することになったことでしょう。
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