「卯の花匂う」 と 鬼平との関係 ?
「かわせみ」の所在地が、最初「柳橋」になっていたという話に関係して、第一巻の最初の方を読み直していて気付いたんですが・・・
「卯の花匂う」は御所役人の不正と敵討ちの話でしたね。
その中に「京都町奉行山村信濃守」という具体的な固有名詞が出てきたので、もしかして「山村信濃守」も実在の人物では?と思ったので調べてみました。
近所の図書館にある「日本史総覧 近世T」(新人物往来社)の中に歴代の京都町奉行の名前が載っていました。山村姓はただ一人32代目の「山村良旺」という人だけなのですが、通称十郎右衛門・官名信濃守とあります。
前職は目付で前任者が在職中に亡くなったのを引き継いで西町奉行に就任しています。この前任者が31代長谷川宣雄という人なのですが、通称平蔵・官名備中守・・・そう鬼平さんのお父上だったのです。(これは、鬼平関係のHPを検索していてわかったことですが、鬼平さんのお父上は、質素倹約をもって職務にあたり、華美に流れていた町奉行所内の空気をひきしめたとか・・・)
ところで、実在の「山村信濃守」は、在職安永二年七月十八日〜安永七年閏七月二十日で勘定奉行に栄転し(在職安永七年閏七月二十日〜天明四年三月十二日、一説に安永七年閏七月五日〜天明四年三月十三日)、更に江戸町奉行(南)に昇進しています(在職天明四年三月十二日〜寛政元年九月七日)。
ところが、その後清水家家老に転じているのです。左遷のように思えるのですが、何があったのでしょうか?
ともあれ、京都町奉行を五年務めた後、勘定奉行、町奉行と進んでいるのですから、まず有能な人だったのでしょうし、経済にも明るかったのではないでしょうか? 御所役人の不正を暴くために送りこまれるにふさわしい人材にも思えます。
源さんや兄上様の話の端々にも有能な人を思わせるものがありますし。
ところが、かれが京都町奉行に在職していたのは、西暦でいうと1778年までのことです。荒井清七が進藤喜一郎の父を殺したのは七年前、ということは「卯の花匂う」のエピソードがあったのは遅くみつもっても1785年ごろ十代将軍家治の治世、田沼時代の末期ということになります。「初春の客」より更に遡ることになってしまいます。
これも「かわせみ」の謎の一つになるのでしょうか?
ちなみに、御所役人の不正なのですが、禁裏の御料地はたったの三万石、不正を働くとしても、たかがしれている、という気がするのですが。
兄上様が東吾さんに説明したからくりは、御戸帳の代金を銀百貫目分ネコババするということですが、米一石が大体、金一両=銀六十匁ですから、三万石は、銀にして千八百貫目ということになります。(一貫目=千匁)
お寺に寄進する御戸帳の代金でネコババするのは収入に較べて多いように思います。(請求書を全部所司代に回せるわけではないでしょうし・・)
御戸帳にしても銀百五十貫目=金二千五百両もするものなのでしょうか?確かに、ああいう特注の豪華な品物は、定価があってないようなものだとは思いますが。
不正を調べるのに京都町奉行がふさわしいかどうかも疑問だと思うのですが、それについて少し調べているので、次の機会に考えてみようと思います。
「京都町奉行」と「禁裏付」
御所役人の不正についての話の続きですが、銀百貫目(約千六百六十六両)も一度にネコババできるかどうかもさることながら(これが可能なら、末端の役人レベルでなく、もっと上の方の公家までひっくるめて機密費作りに走っているような気がしますし)京都町奉行にその不正をあばく資格があるのかも疑問に思ったので、少し調べてみました。(所司代ならわかるのですが・・)
HP「歴史館」の中の「幕府役職の辞書」というコーナーの「京都町奉行」には、「五畿内、近江、丹波、播磨の幕府直轄領の租税徴収、京都市中の訴訟処理、寺社管理を主な任務とし、遠国奉行の中では最も重い職。二〜三千石級の旗本から選ばれ、定員は東西両奉行の二名。役高千五百石」となっています。
一般の町奉行のイメージより、やや職域が広いようですが、御所の経理に口をはさめるものでしょうか?
同じコーナーに「禁裏付」という役職(以前「ぐら」様が本家掲示板でおたずねになった「禁裏御付」と同じでしょうか?)がのっていたので、これを調べてみると、「皇居を守護・警護し、朝廷の経費を掌るもので、定員は二名。千石級の旗本で目付、使番などから選ばれ、役高は一千石。役料千五百俵。この役に赴任する際は、御暇金五枚、時服三領、引越拝借金三百両が支給される。また、妻子を連れていき、五〜六年に一度は、江戸へ参勤した。」とあります。
どうも、御所の経理に関する責任を負っていたのは、京都町奉行でなく、禁裏付のように思えるのですが。
一方、別冊歴史読本「徳川幕府のしくみがわかる本」では、京都町奉行の職務に「禁裏御所の警衛、堂上方の行跡監察」が加わっています。
これについて、疑問を感じたので、図書館にあった「日本歴史大事典」「日本歴史大辞典」などを調べてみました。文献によって微妙な違いが見られるのですが、まず、関が原の直後、京都に所司代と京都郡代が設置され当初は広範囲な職務をこなしていたようです。その後、1643年に禁裏付が設置されています。
更に1664年京都代官が設置され、郡代の職務から分離して上方の幕領支配に当たるようになります。禁裏や仙洞の御料の年貢収納も京都代官が引き継ぎます。
そして1665年(一説には1668年)京都郡代を京都町奉行に改称します。おそらく禁裏付設置により、御所の警備・公家の監視・禁裏の諸費用にかんする仕事は禁裏付に移ったと思われます。京都代官は京都町奉行の支配下にあったようですが、幕領の租税徴収は享保以降勘定奉行支配下に移ったようです。
「広辞苑」には確かに禁裏守護、禁裏賄方・物入増減の監督が京都町奉行の職務に入っていますが、それでは何のために禁裏付があるのかわかりませんし・・・
平岩先生は、「広辞苑」を参考にされたのでしょうか?
幕府職制表には、禁裏付の配下に「禁裏賄頭」「進物取次上番格 御所勘使買物使兼」という役職名が記載されているのですが、いわゆる御所役人というのはこの二種の役職をいうのでしょうか? 京都在住で御所関係の仕事を専門にやっているようですが、名目上は幕臣になるのでしょうか?
「御所役人」について
実は、「御所役人」という言葉は、「広辞苑」にも、「日本歴史大辞典」にも「日本歴史大事典」にも載っていないのです。おそらく「御所役人」というのは正式な役職ではないあいまいな呼び名なのではないでしょうか?
幕府職制表に載っている「禁裏賄頭」「進物取次上番格 御所勘使買物使兼」というのは名称からして、いかにも禁裏御用商人と結託して私服を肥やしうる役職にも思えます。
しかし、禁裏の御料地はたったの三万石、もともとそんなにお金を持ってないはずですし、御用商人にしても禁裏相手の商売で甘い汁を吸うより、「禁裏御用」の看板で箔をつけて、他の顧客相手の商売の宣伝にする方が効率が良いのでは?
御料地の租税の徴収も「京都代官」が行い、直接、御所の方から取り立てていたわけではないですし。(幕府に財布の紐を握られていたように思えます)
兄上様が「その係りの役人が上下とも一つ穴のむじなだろう」と仰ってましたが、まさか歴代の「禁裏付」が一緒に不正を働いていたとも思えませんし・・・「禁裏賄頭」「御所勘使買物使兼」が世襲なのか、どういう職務内容なのかも書かれてあるものが見つかりません。前者は「お目見得」以上、後者は、「お目見得」以下のようです。この二つの役職が事実上世襲になっていて、江戸から派遣されてくるいわば「キャリア官僚」の「禁裏付」が容易に手を下せないで「見て見ぬふり」をせざるを得ない状態なのでしょうか?
例えば、町奉行と町方与力・同心にもそのような関係が往々にしてあったそうです。
それにしても、禁裏の不正に町奉行がメスを入れられるのでしょうか?
同居人に意見を求めたところ「もしかして、裏付け捜査などで、連携して禁裏付に協力する形なのかもしれない」と言っています。「そもそもどんな不正を働くというんだ。朝廷にはそんなにお金は無いはずだけど」私もそう思うのですが・・・
ところが、「日本歴史大辞典」で「京都・・」を調べていて新たに役職名を見つけました。
「京都御入用取調役」という役職です。「1774年(安永三年)八月、勘定奉行の支配のもとにはじめて設置され、京都に駐在して進物の取次ぎから京都御所の費用を検査することをその任務とした。この職はお目見得以下から任命され三十俵三人扶持、役金二十五両を給された。関係職に禁裏御賄頭、御所勘使買物使兼」とあります。
安永三年は、山村信濃守が京都町奉行に在職(安永二年七月十八日〜安永七年閏七月二十日)していたまさにその時期です。そんな時期にいわば会計監査役が新たに設けられるということは、経理に疑惑があったということでしょうか?
吉川弘文館の「国史大辞典」の「禁裏付」を調べてみると「・・・たとえば禁中の経費について長橋局から指令されたことは、先規のように粗略に扱ってはならない。その経費は五畿内奉行(京都代官)から禁裏付の証券で受け取る。決算は両伝奏と所司代が年末に行い、帳簿を所司代に呈出する。・・・部下に与力・同心および禁裏御賄頭・庖所頭・御勘使・買物使がある。安永三年(1774)疑獄事件ののち賄頭などに幕府から一名を増員し、禁裏入用取調役を設けた。・・・」とあります。まさか本当に経理の不正があったとは・・・疑獄事件がどんなものだったのか、機会をみて調べてみようと思います。
禁中吏人私局取締
前回の投稿の後、たまこ様よりのレスで、「花房一平」シリーズの「釣女」が御所役人の不正についての話だと教えていただいたので、早速「釣女」を読んでみました。更にメールで詳しい情報を戴きましたので「かわせみ」の方の話とつきあわせてみます。
「かわせみ」では兄上様が東吾さんに「禁裏よりさる寺へ寄進された御戸帳の代金を銀百五十貫匁のところ二百五十貫匁と偽り差額百貫匁を懐に入れる」というものでした。
「釣女」では「禁裏から因幡薬師に御寄進の御戸帳の代銀一貫二百匁(原価)を業者が必要経費コミで二貫二百匁と請求し、その請求書(領収書?)に十の字を書き加えて十二貫二百匁として、差額十貫匁ネコババする」というものでした。
いくらなんでも銀百貫匁もネコババしたら額が多すぎて絶対ばれると思ってましたが、噂が京から江戸に伝わる間にネコババした金額が十倍になっていたということでしょうか? 堀部安兵衛が高田馬場で三十六人斬りしたことになってしまったように・・・(実際は三人でしたっけ?)
御戸帳の代銀も一貫二百匁なら一両=銀六十匁として二十両ですから現実的ですし・・・それにしても請求書の五倍もふっかけてネコババするとは・・・(十貫匁=約百六十六両)
疑獄事件について何か書かれてあるかと思って「徳川実記」を図書館から借りて調べてみました。以下は安永三年八月の項から今回のタイトルが見出しになった部分を引用します。
「此月禁中取次以下の賎吏罪ありて刑せらる。よて京町奉行山村信濃守良旺。禁裏附天野近江守正景等に令せられしは。禁中吏人等風儀宜しからず。私曲を元よりの仕来りと心得。不法のこと共多きよし聞ゆ。この後は両人相はかりて。これ等の旧弊をあらため。吏人等仕ふるさま正しからんやうにはからひ。禁中費用の事は。所司代より出るしなじな。良旺。正景に達し査検して。思ひよる事あらば申達すべし。こたび府より禁中賄頭壱人。勘使。買物使を兼る者二人をつかはさる。良旺の属吏三人をして費用を検せしめ。勘定奉行所属京都取調役二人つかはさるれば。良旺。正景手に属し。指揮して。万事収束せんやうはからうべしとなり。」
「。」がやたら多い見慣れない文章で意味が解り難いですが、実際に経理に不正があって、京都町奉行山村信濃守が経理の監査に係わっていたのも事実でした。
「釣女」「卯の花匂う」はこの記事が元になっているのでしょうか? ただ、具体的にどのような不正があって、どういう経過を辿り発覚したのか「徳川実記」では書かれてませんので、他にも詳しい事情の書いてある文献も参考にされてるかもしれませんので、引き続き探してみることにします。
なぜ、禁裏付でなく町奉行に協力させたのか? 同居人に意見を聞いてみると「相互監視ではないか」とのことでした。「禁裏付も腐敗しているの?」ときいてみると、「その可能性も考えていたかもしれない。そうでなくても、同役でなく外部の監査がなければ、綱紀粛正をしようとしないし、しがらみがあってできないだろう」
「幕府職制表」で禁裏付の配下になっている「禁裏賄頭」「勘使買物使兼」はこの事件がきっかけで設置された幕府からの出向者だったらしく、それ以外の雑多な御所役人(プロパー)が不正に係わっていたということでしょうか・・・
金さんのお父上と「初春の客」
御所役人の不正の話で初めて「花房一平」シリーズを読んでみたので、今回はその関連の話をしてみようと思います。
このシリーズの主役・花房一平は目付・遠山景晋(あの「遠山の金さん」のお父上ですね)の配下で「釣女」では三枝源次郎(源さんの伯父さん?【注】)と共に京都へ(山村信濃守に協力して)不正経理の捜査に出かけることになっています。
江戸の町方同心は京都の捜査に回せるほど暇ではないんじゃないか?というのはおいといて・・・(伯父三枝源次郎【注】と「卯の花匂う」での源さんが同世代になってしまいますし)
この疑獄事件が発覚したのは安永三年ですが、そもそも山村信濃守が京都町奉行だった安永年間(1772年〜1781年)遠山景晋さんはまだ目付になっていないはずです。
彼が目付として活躍したのは、「初春の客」での時代背景として描かれている「ロシア船が頻繁にやってくるようになった」時期の対応でのことでした。(文化年間)
つい最近同居人(ミリタリーオタク)がレザノフの書いた「日本滞在記」(岩波文庫版)を借りて読んでいたのですが(つい最近までロシアでは発禁処分だったそうです。失敗に終わった為に国の恥とされたらしくて)比較のため中央公論社の日本史年表をめくっていて、「なあ、この遠山っていうのあの金さんの父親だよな?すごいよ〜」といってそのころの記事を見せてくれました。(イメージ小林捻持さんで「夢暦長崎奉行」から入っているので)
文化元年(1804年)九月 |
ロシア使節レザノフ、長崎に入港して通商を求める。(「初春の客」で「三年前、キャプテンイワノフが云々」とあるのはレザノフのことと思われます) |
文化二年(1805年)三月 |
目付遠山景晋を長崎にやり、レザノフの通商要求を拒絶させる。 |
八月 |
遠山景晋・勘定吟味役村垣定行らに西蝦夷地を視察させる。 |
文化三年(1806年)八月 |
遠山景晋ら西蝦夷地より帰る。 |
半年の間に九州長崎と北は北海道までの出張が入った上、一年も家に帰れないとは・・・「初春の客」で「若年寄堀田正厚敦を蝦夷地へ派遣し」とあるのはそのまた翌年の文化四年(1807年)のことですが、あいにくこちらは年表に載ってないのです。
若年寄のような大物が蝦夷地に派遣されてるのに、載っていないのも不思議ですが、目付にすぎない景晋さんの蝦夷地派遣がのっているのは? 実は景晋さん達の派遣がそれだけ大変な下調べで若年寄りの派遣はその後のセレモニーのようなものだったのでしょうか?
「釣女」の禁中の経理不正はこれより二十年も前の話で景晋さんはまだ家督も継いでいません。景晋さんの家庭の事情は少し複雑で天明六年(1786年)三十六歳でやっと家督を継いでいて、その後の寛政六年(1794年)学問吟味で最優秀賞をとって目付に抜擢されます。
遅咲きの人というのも捻持さんとイメージ重なりますね〜。
今回、調べてみて「金さん」や「鬼平さん」のお父上の話が出てくるのも以外でした。
二人とも息子さんの方が有名になってますが、お父上もそれに劣らずむしろ息子以上に有能かも?という印象を受けます。どちらも養子で養家の家名を上げたのも共通しています。こういうケースは結構多かったかもしれません。
【注】「花房一平」シリーズに登場する定廻り「三枝源次郎」が「かわせみ」の源さんの伯父(母の兄)というのは、このHP作者たまこの勝手な推論です。詳しくは「源さんX-Files⇒源さんの謎」をどうぞ・・・
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