屋 号 と 業 種
以前、山崎について書いた時に燈油を扱う店の屋号に「山崎屋」というのが多かったのでは?と書いた事がありましたが、それについての資料を見つけたので書いてみようと思います。
前回「京都町奉行 山村信濃守」を調べていて利用した「日本史総覧 近世T」を見ていて偶然見つけたのですが、「主要問屋一覧」という項目がありました。これは江戸・大坂・京都にある主な問屋を業種ごとにその数と屋号(例**屋**兵衛というふうに)をリストにしてあるものです。江戸の一覧は文化十年の「江戸十組仲間名前」と「十組株帳」をもとに作成されたものです。
この中で燈油関係の業者を調べてみました。
まず「水油問屋」は全部で二十一軒ありますが、多い順に森田屋四軒、伊勢屋三軒、山崎屋二軒で残りはバラバラでした。
次に「水油仲買」は全部で八十五軒ですが、多い順に伊勢屋十七軒、山崎屋六軒、駿河屋四軒、後は三軒あったのが植村屋、大坂屋、升屋、二軒あったのが島屋、富田屋、丸屋、森田屋、大和屋、万屋でした。問屋の方はそれ程にも感じませんが、仲買の方では伊勢屋は別格としても他の屋号に較べ多く感じます。
他の業種ではどうでしょうか?
「山崎屋」という屋号は繰綿問屋七十軒中二軒、醤油酢問屋八十五軒中三軒くらいしか見つかりません。やはり、「山崎屋」という屋号は水油を扱う業種に多い特異な屋号のように思えます。平岩先生は水油を扱う店にふさわしい屋号として「山崎屋」を使われたような気がします。
一方、「水油仲買 山崎屋」と同じく「鬼ごっこ」に出てくる「紙問屋 遠州屋」の方はどうでしょう?
実は私の中で紙問屋という業種と「遠州屋」という屋号が結びつかなかったのです。
吉川弘文館の「日本史年表・地図」の中に「近世の産業」という項目があるのですが、遠州の特産物として紙は記載されていないのです。そして、紙問屋は伊勢商人に多いのです。何故、紙問屋なのに「遠州屋」なのでしょうか?
もっとも、伊勢松坂の出身なのに「越後屋」というケースがあります。(三井家の先祖は戦国時代に武士で越後守を名乗っていたため)遠州屋もそうなのでしょうか?
再び「主要問屋一覧」の紙問屋のリストを見てみました。遠州屋は一軒も見つかりません。
紙問屋四十七軒のうち屋号の多い順に伊勢屋十軒、万屋三軒、あとは二軒あるのが大橋屋、小津屋、紙屋、相模屋、村田屋、森田屋、大和屋でした。
遠州屋という屋号は全五十三業種千三百八十一軒のうち、鰹節塩干肴問屋三十四軒中三軒、下り素麺問屋十四軒中一軒、水油仲買八十五軒中一軒、下り蝋燭問屋二十五軒中二軒、畳表問屋三十七軒中一軒、草履問屋十軒中二軒、雪駄問屋三十七軒中二軒、煙草問屋四十一軒中一軒でした。特に大店に多い屋号とも思えません。
なぜ、飯倉二丁目にある紙問屋を遠州屋に設定したのか、それについて少し考えてみようと思います。
「かわせみ」 と
「江戸買物独案内」
以前、「江戸の訴訟」(岩波新書)という本を読んでいて「江戸買物独案内」という本があるのを知りました。文政七年に大坂の中川芳山堂が出版した江戸全域にわたる買物案内書で、業種ごとにその屋号と所在地を記載したガイドブックです。(但し、広告料を払わない店はどんな有名店でも載せないという、わかりやすい編集方針に貫かれた本です)
これは、池波先生が「鬼平」を書くときに「切絵図」と共に参考にされた本なのです。(あともう一つ何かあったかも)
切絵図はご存知のように武家地や寺社地は個別に記載されますが、町人地は町名が載っているだけで店の所在地までのっていないので町名・業種・屋号の載った資料が必要になるわけです。
幸い近所の図書館で予約をかけておいたら市内の図書館にあったので借りることができました。この中から飯倉界隈にある店の業種と屋号を抜書きしてみました。
飯倉町二丁目 |
紙問屋 萬屋小兵衛
下り傘問屋 萬屋永助
水油仲買 遠州屋吉左衛門 萬屋亀三郎 |
飯倉町三丁目 |
文房諸具
服養堂市郎兵衛
小間物袋物 田毎屋弥右衛門 |
飯倉町四丁目 |
蝋問屋 駿河屋専右衛門
御乗物師 岡田屋弥兵衛
扇問屋 駿河屋新兵衛 |
飯倉町五丁目 |
塗物問屋 紀伊国屋楠太郎 |
飯倉狸穴町 |
草履問屋 越後屋藤右衛門 |
飯倉町二丁目には確かに紙問屋があり、屋号は萬屋(よろずやと読むのでしょうか)、他に水油仲買もあって屋号は遠州屋と萬屋です。この二つの水油仲買は同じ見開きに載っているのですが、その左右の見開きに載った水油仲買二十四軒中山崎屋が六軒載っています。
平岩先生はこの頁を見て飯倉二丁目の紙問屋を「遠州屋」に、水油仲買をこの業種に多い「山崎屋」にされたのではないでしょうか?
実在した
「今戸の金波楼」
「鬼ごっこ」以外に飯倉界隈を舞台にした作品として「丑の刻まいり」があります。(先日やっと「初春弁才船」を借りられたのです)この中に出てくる屋号と所在地を拾い上げてみます。
「飯倉六丁目の御乗物師、岡田屋重兵衛宅で・・」「飯倉土器町の小間物屋・・田毎屋・・御亭主の弥右衛門さん」「飯倉三丁目に扇問屋で駿河屋・・そこの主人新兵衛」
それぞれ、「飯倉町四丁目・御乗物師 岡田屋弥兵衛」「飯倉町三丁目・小間物袋物田毎屋弥右衛門」「飯倉町四丁目・扇問屋 駿河屋新兵衛」と酷似しているようです。
(角川の「日本地名大辞典」によると飯倉町三・四丁目は通称土器町とも言ったそうです)
やはり、平岩先生は「かわせみ」を書くにあたって屋号を設定するのに「江戸買物独案内」を使われていたのではないかと思うのです。確か、平岩先生の師事されていた長谷川伸先生の門下に池波先生もおられたとのことです。お互いに影響を受けていたようにも思えます。
「江戸買物独案内」は「渡辺書店」から1972年に復刻版が出ています。他には吉川弘文館の「江戸町人の研究」第三巻の巻末にも縮刷版が載っていました。ちなみに「独案内」は「ひとりあんない」と読みます。大坂版もあるようで、江戸版には宿屋は載ってないですが、大坂版には宿屋の項目があるそうです。
「江戸買物独案内」には「今戸の金波楼」や「二軒茶屋」など「かわせみ」に出てくる料理屋が載っていて、見ていて発見があります。繰り返し眺めてみるとそのうち、江戸の町人町の姿が浮び上がってくるのではないか?そう思える本です。
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