「かわせみ」全作品リストを読んでいて、「ほととぎすなく」のところであれっと思ったので、あわてて読み直してみました。
以前、読んでいたはずなのに、すっかり忘れていたのですね。「かわせみが油を売ってもらっている山崎屋・・・」というところです。
以前、「ほととぎすなく」を読んだ時は読み飛ばして忘れていたのですが・・・実は「鬼ごっこ」を読んでいて「水油仲買の山崎屋・・」という記述には、前から気になっていたのです。「ほととぎす」の方の「山崎屋」は油問屋でしたが(問屋と仲買の違いについては?なのですが)
灯油を扱う店の屋号には「山崎屋」という名前が多かったのでしょうか? ひょっとしてという心あたりがあるので・・・
7月21日の「利家とまつ」で、本能寺の変の後、光秀と秀吉が天王山で戦った「山崎の合戦」をやっていたと思いますが、この山崎は、中世のころ油を独占的に販売する油座のあった町なんですね。「山崎屋」という屋号はこの山崎の町からきたのでは?
インターネットで検索をかけて、わかる範囲で調べてみました。(横着者には便利なものですね)
HP:天王山と大山崎町「天王山物語」 HP:池田屋事件 HP:油の話 HP:油祖 離宮八幡宮 などから、わかった話ですが・・・
山崎という土地には、もともと宇佐八幡を勧請し、後にその八幡神が石清水八幡に動座されたといういわれのある土地らしく、今でも「離宮八幡宮」(大山崎八幡宮)という八幡宮があります。
この八幡宮は、中世には荏胡麻油を独占的に販売する権利を認められ、勝手に油を売るものがいると、八幡宮の神人達が成敗しにやってきたそうです。「誰の許しを得て商売しているんだあ?」というところでしょうか?
斎藤道三も最初は油の行商人から身を起こしていますが【注】、やはり山崎の八幡宮と繋がっていたようです。平岩先生のお宅も八幡様でしたが、何かかかわりがあるのでしょうか?
しかし、信長の「楽市楽座」で油の独占販売の特権もなくなり、またその後、灯油の主流は「水油」(菜種油)にとってかわられ、町は衰退に向かいます。
江戸期を通して山崎の町は、京大坂を結ぶ街道沿いの小さな宿場町でした。ということは、「山崎屋」という屋号は、直接「山崎」という地名には、関係ないけれど、蕎麦屋で「長寿庵」「大村庵」など、お寺とは関係ないけれど、「・・・庵」とつけるような、そんな屋号なのでしょうか?
その後、HP:油の話の続きを読んでいて、新たに油の流通の中心になった大坂に山崎の油商人が移っていったという記述がありました。その油商人達は、「山崎屋」と名乗ったのかもしれないし・・・
結局、江戸に「山崎屋」という屋号の油問屋又は、「水油仲買」が多かったかどうかもわからず、山崎という土地が江戸期に油の流通にある種の意味を持っていたのかもわからないという結果に終わってしまいましたが・・・
それでも、平岩先生のお宅が八幡様なら、油の流通に山崎の離宮八幡宮が力を持っていたことをふまえて「山崎屋」という屋号をつけられたのでは?という考えが捨て難いのです。確証は得られませんでしたが・・・
「山崎の合戦」以後歴史の表舞台から姿を消した「山崎」は、幕末になって一瞬、動乱の舞台に出てきます。
「山崎」という土地について調べていてわかったことですが、私の子供の頃の思い出がよみがえってきて、感慨深いものがありました。
元治元年(1864年)七月に萩藩兵が京都に入り、禁門の変を起こします。結局、長州は敗走する羽目になりますが、この時京都は、大火となり二万八千戸が焼ける騒ぎとなりました。(中央公論・日本の歴史 別巻五 年表より)
敗走した長州兵の一部は天王山に立て籠もり結局、集団自決してしまいます。(「横浜慕情」の「三婆」のころの話でしょうか?)
HP:池田屋事件によるとこの時の真木和泉以下十七名の墓は山崎の「宝積寺」にあって贈正五位とありました。(多分、明治新政府になってから五位の位を贈られたのでしょう。死んでからもらっても空しいような・・・)
今ひとつ、この前後の関係に疎いので同居人(ミリタリーオタク)に解説を求めてみると・・
麻生 「前月の六月の池田屋事件というのは?」
同居人 「新撰組が倒幕派を一網打尽にしたんだ」
麻 「それで、長州が焦って押し寄せてきたわけ?」
同 「焦ってというより怒ってだろうね」
麻 「敗走して天王山に籠もっているけど」
同 「京大坂を繋ぐ道筋だから通過することになるんだ」
麻 「京大坂を繋ぐというと伏見街道がメインルートでしょ。鳥羽伏見の戦いもそっちで起きているし」
同 「あれは、幕府軍が大坂から進軍するから、そっちの道を通ったんだ。逆に、(中国大返しをした)秀吉は、姫路方面から京へ進軍するから、淀川の右岸、天王山の側を通ることになるんだ」
麻 「敗走した長州兵は、国許に逃げるつもりだから、山陽道につながる天王山の側を通ったのね」
同 「大坂方面に逃げても一網打尽になってしまう」
麻 「結局、天王山に籠もっているけど、とっとと逃げればいいのに、逃げられなくなったの?」
同 「街道を封鎖されて、山越えしようとして、進退窮まってしまったんだろう」
麻 「死んでから正五位もらっても空しくない?」
同 「遺族は彼らの死が無駄でなかったと思いたいんだ」
そういうものでしょうか?
ホームページで「宝積寺」の三重塔の写真を見ていて、以前、見たことがあるような気がしてきました。小学五〜六年の頃、大阪府吹田市の千里丘というところに住んでいたことがあって、そのころ学校行事で「スケッチ遠足」で訪れたお寺ではないか?という気がしてきました。東海道線で京都方面に行き、(多分)山崎で降り、(多分)天王山のお寺で三重塔を写生したような気が・・・
あのお寺にそんな修羅場な歴史があったとは・・
もっともあの写生をした寺が「宝積寺」という確証ももはやないのですが・・この「宝積寺」も結構由緒あるお寺のようですが・・
ちなみに、この集団自決にまつわる騒ぎで「離宮八幡宮」をはじめ、山崎の名所・旧跡はかなり焼けてしまいます。
同時期の京都の事件に比べ、江戸は随分平和だったのでしょうか?
翌年になっても、「三日月紋の印籠」で大騒ぎになっているのですから・・・
【注】斉藤道三が油の行商から見を起こしたというのは、今までは一般にいわれていた通説だったのですが、最近は否定されてきているようです。
「六角承禎条書写」という古文書には、道三の前半生のこととされていた妙覚寺の僧から還俗し、美濃に行き小守護代長井氏と同格になるまでになったのは彼の父親の代であったと書いてあるそうです。これは、書かれた年代が道三の死後四年でその他の文献より早く書かれているため信頼性が高いとのことです。油行商をしたとしても、それは彼の父親の代ということになります。一代の梟雄というイメージの強い人物でしたが、「国盗り」は二代がかりだったわけです。
私が出入させていただいている「戸越雑話」というHPで江戸時代の天麩羅油についての話が盛り上がったことがあるのですが、その時に油関係のHPを検索していて「油歴史資料館」というHPを見つけました。その中に「衰退した油問屋の大店」という項目があったのでその内容を要約します。関東大震災の時に大きな被害を受けて店じまいすることになった「山崎屋 松田勘兵衛商店」という店の話です。
「歴史からいえばもっとも古い油問屋で、大山崎離宮八幡宮の神人にまで遡ることができ、300年以上の歴史を持っていた。・・・」と紹介されています。山崎にゆかりのある油問屋が「山崎屋」という屋号を名乗っていたことが確かめられました。「水油仲買」のうちで「山崎屋」を名乗っていた店のいくつかはこの「油問屋 山崎屋」から暖簾わけしてもらったものかもしれない、と想像しています。
同じHPに「大山崎の神人(じにん)」という項目があるのですが、その中には大山崎にはかつて「判紙の会合」と呼ばれる、秘密の神事が存在し、それは文化年間(1804〜1818年)頃まで続いていたそうです。その流れを汲むのが、大阪、東京をはじめ、各地に残る「山崎講」であるとのことです。
このHPで始めて「山崎講」という講の存在を知りました。実は、私は講というものがどのような存在で具体的にどのような活動を行っていたのか、知っているわけではありませんが、近世になって「離宮八幡宮」が油の独占販売をする権利を失ったものの、なお「油の神様」として油屋さん達の信仰を集めていたことはいえるのではないかと思っています。
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