梅若六郎の「隅田川」

それほど狂っているふうでもない母は、静かに子を奪われた悲しみに呆然としたまま、旅を続けてきたように見えた。
京から東国・隅田川のほとりへ。梅若六郎の母は、疲れ果て悲しみ呆けて、渡し守の求めに舞い狂うさまも、まさに夢のうちに漂うように茫洋としていた。
かの業平が都をしのんで詠んだ「都鳥」の浮かぶ隅田川もまた、母の行く手を拒んでいるかのように流れている。そう、母はやがて現実に立ち戻らねばならなくなる。子は既に死んでしまっていたのだ。それも去年の今日、隅田川のほとりで病んで捨てられ、死んだのだと。
渡し舟から降りることも忘れ、悲しむ母は、渡し守のすすめるままに、供養の念仏を唱え始める。
やがて死んだはずの我が子の声が念仏に混じっているのに気づき、遺骸を埋めたという塚に近づき子の幻影を抱きしめようとするが果たせず、そのまま幕切れとなる。
梅若六郎の母は、子が見えているようだった。抱こうとして抱けず空を切る手が哀れであった。そのまましおしおと橋掛かりへ去っていく姿が、狂うことも出来なくなった母の悲しみそのものだったように思える。
子と別れた親が、子に逢えずに終わる能は「隅田川」ただひとつ。哀れさは子方の甲高い念仏の声に集約される。声は聞こえるのに姿は見えない。子方は作り物から出てくるけれども、シテ方の抱こうとして抱けない型に添って身を躍らせてすぐに作り物へ戻ってしまう。いわゆる幽霊であればそれも当然なのだが、哀れさ・悲しみが迫ってくる。
母が揚げ幕の向こうに消えたあとも、舞台にも橋掛かりにも涙があふれているように見えたのは、おそらく私自身が子方の念仏に落涙したせいだけではないと、思う。

⇒はなはなの梅若塚訪問記

「隅田川」あらすじ

隅田川の対岸では大念仏が行なわれる日。
こちらの岸で隅田川の渡し守が客を待っていると、騒がしげな人垣が近づいてくる。狂女が面白く舞い狂っているのだと教えられ、舟を止めて狂女を待つ。
人買いにさらわれた独り息子を捜し求めているのだという狂女と、渡し守は「伊勢物語」の隅田川のくだりを問答し、女の求めに応じて渡し舟に乗せてやる。
対岸の柳の木の下では人が集まって大念仏が始まろうとしている。去年の今日、3月
15日、この地で病んで死んだ少年の弔いのための大念仏なのだと渡し守は語りだす。
その少年は、京・北白川に住む吉田某の独り息子だが、父に死なれて母と暮らしていたところを人買いに買われて隅田川まで辿り着いたが、病んだために捨てられてしまったのだと少年はいまわの際に言い残したのだと言う。哀れんだ土地の人々が介抱するが甲斐もなく事切れた少年を塚に埋めたのだ。
渡し守の言葉に狂女は涙に咽んで動けない。渡し守がたずねると「私こそその少年・梅若の母なのです」と答えてなおも泣き続ける。渡し守は奇縁に驚き「あなたも大念仏に加わって供養してあげなさい」と塚まで案内する。
母が加わって念仏を唱えると大人たちの声にまぎれて懐かしい子供の声が聴こえてくる。母は塚を掘り返して子を返してほしいと願うがそれもままならず、またも聴こえた子供の声に姿を求めても、ただ塚はしずもっているばかりであった。

※ 最後のシーンでは子方が作り物の塚から白装束に黒頭の幽霊の姿で現れる演出と念仏の声だけでの登場する演出の二通りがあります。世阿弥は姿を見せない方がよいといい、作者で世阿弥の息子・元雅は姿を見せる演出を主張したといいます。今も演者の解釈によりどちらでもよいとされているそうです。

※ 観世流シテ方の梅若家はこの梅若とは直接縁はないが、奈良時代の橘諸兄までさかのぼるとされ、丹波地方で勢力を誇った梅津氏が後土御門天皇より「若」の字を賜り「梅若」を名乗ったのだそうです。丹波地方は芸能の祖といわれる秦氏の本拠地でもあるとのこと。

※ 梅若家については梅若六郎公式ページを参考にさせていただきました。

※ 今回私が見た「隅田川」は六郎師が母、孫の美和音ちゃんが梅若の霊という配役。美和音ちゃんの澄んだ念仏声に、さしもの私も涙がこぼれて慌てたのは本文の通り。その昔、六郎師がまだ幼い頃に子方として、やはり祖父の梅若実師のシテとともに演じたものを絶賛されたといいます。かの白洲正子も梅若家でお稽古しており、「梅若実聞書」の著書もあります。最晩年、最後に公式の場に現れたのは六郎師の新作能「空海」だとのこと。

 

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