味方團の「海士」 |
女は待っている。我が子が帰って来るのを。
子の父たる夫は計算ずくで女を抱いた。女は母になり、女としての恨みは、母の愛へと姿を変えた。女は夫を待ってはいない。ただ我が子が帰って来ることだけを待っている。
そして、我が子が帰って来る。女が望んだとおり、夫の後を継いだ大臣として。
女は子の弔いによって成仏する。龍女となって、成仏するという法華経の徳をたたえながら。
母の愛、女の恨み、成仏の望み。
女の恨みは「海士」では触れられていない。ただただ母の愛と成仏への望み、そして二つながらに叶えられた悦びを舞う。だが尋常では考えられない、掻き切った乳の下に宝珠を隠して海上へ浮かび出るという行為の源には、宝珠を取り返すために海女である自分を抱いた男への深い思いが横たわっているのではないか、味方團の「海士」にはそう思わせる色気があった。
再会した我が子へほとばしる情愛がほんのりと艶をひそめて舞台にたゆたう。決して恨みはどろどろと地を這うようなどす黒さを持ってはいない。ただ、男が抱いた「海女」はただの道具などではない、血がかよった女なのだと訴えかけるつよさがある。
そして、女は成仏する。法華経では、女は女のままでは成仏できないとされ、龍女と変成してはじめて、悟りを得るという。後シテはその悦びの表現に終始するが、果たして女は、本当に成仏したか? 望みはそれだけなのか?
味方團の「海士」には色気と同時に思い切りのよさとも言える切れのよさがあった。
美しく上品に、そしてつよく。それは、まことに心地よく私の胸に落ちてきた。母の愛と成仏という法悦を美しく現前させてあまりある。これで良いのかもしれない。
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