味方團の「天鼓」

天鼓は鼓が好きだ。鼓の申し子として生まれた彼は、彼しか鳴らせない鼓を愛するがゆえに命を落とした。それでも鼓を召し上げようとし、天鼓を大河へ沈めた皇帝を憎もうとはせず、ただ一筋に鼓を打つことを愛してやまない。その父もまた、皇帝を憎みはしない。

皇帝への庶民の抵抗の話と読むか、芸術賛美の物語と読むか、味方團は、この日、音楽を愛するがゆえに死んだ天鼓の純粋さを全面に押し出して舞った。それもうれしげに楽しげに。
「舞うことが楽しくて仕方がない」味方團の真骨頂はそこにあるとかねがね思っているが、まさにそんな舞台。味方團は自身が天鼓となって舞台を勤めたのだ。
面にもこだわり、通常使う少年の面「童子」「慈童」は使わず、「小喝食」という修行中の若い僧の面を使って、世俗とはなれた天才を表現しようとしていた。また、この面が美しい表情を湛えている。若い女とも見まがうような端麗さが哀れを誘い、奏する喜びを表現した。

前シテの父・王伯もさらりと演じた。さすがに鼓を鳴らすときには息子への思いが極まるさまをしっとりと見せたが、皇帝への恨みはそれほどには伝わらない。
思いが勝ってどっぷりと役に浸ってしまうのが味方團の舞台の特徴だが、今回は自身のアイデンティティにも迫る内容で、天鼓の喜びように「もういちど鼓が打ててよかったね」と思わず語りかけたくなるような幸せな舞台であった。

 
「天鼓」 あらすじ

天鼓は天から授かった子。天から降ってきた鼓が胎内に入る夢を見て母は天鼓を身ごもり、のちに現実に天から本物の鼓が降ってきて、天鼓が打つと妙なる音を発した。天鼓はことのほか鼓を好み、その音色に人々は酔った。
やがて評判は皇帝にも達し、宮殿に召そうとするが、天鼓は拒んで呂水に沈められ、鼓だけが宮殿にもたらされる。しかし、鼓は誰が打っても鳴らない。
そこで皇帝は天鼓の父・王伯を召し出して鼓を打つように命ずる。王伯は愛児を亡くしていまさら自分の命が惜しいことはないが、息子を殺した皇帝こそ息子の形見と思いなおして、宮殿に赴く。
鼓は王伯の手によって音を発するが、それに感じ入った皇帝は、天鼓の菩提を管絃講(音楽葬)で弔うことを約束し、王伯を帰らせたのだった。
呂水のほとりで管絃講を営むうちに、天鼓の霊が現れて喜びの舞を舞い、鼓を打ち鳴らし、弔いへの礼と音楽の徳を讃えて消えていく。

 

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