源氏物語の六条御息所は、そのプライドゆえに生霊になるほど愛した光源氏のもとを自ら去ってゆくかなしい女である。 その日、鏡座は和蝋燭のみの明かりで「葵上」を上演した。 江戸期、武家の儀式芸能であったり、貴人の遊興であったりした能楽は、今ほどの明るい屋内で演じられたものではなかった。昨今人気の薪能がまだ草創の頃の形式に近い。 非常灯さえ消された真っ暗な舞台に一本一本蝋燭が灯されて、舞台はぼんやりと明るくなっていく。特徴のある揺らめきが、舞台に置かれた小袖(病臥する葵上をあらわす)の鈍いきらめきを映し出す。大臣・巫女が登場し梓弓によって葵上に取り憑いている霊を呼び出す。 静かにためらいながら姿を現した六条御息所の生霊は、やがて怒りのあまりに葵上を連れ去ろうとする。 本来舞台上で面だけ「般若」に変える演出だが、この日シテを勤めた味方團は、中入りをして装束を改めた。緋の長袴である。それに白一色の小袖を被く。俗に「白練般若(しろねりはんにゃ)」と称される身分の高い鬼の表現だが、さらに御息所(元東宮妃)としての気位を表現した緋の長袴と着附の鱗模様銀摺箔は、ゆらめく和蝋燭の光に映えて幻想的で、鮮やかであった。 |
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急遽召し出だされた横川の小聖に調伏されるまいと闘う般若は、やはり凄絶に美しく気高かった。立ち回る身のこなし、調伏の苦しみにのたうつ姿は端整な色気を振りこぼした。 そして「あらあらおそろしの般若声や」とついに調伏されてばったりと安座する段になって、見る私の胸もつぶされるかと思った。涙が湧きあがったのである。 |
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「葵上」 あらすじ 大臣の娘、光源氏の妻・葵は物の怪に苦しめられて病臥している。 |
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