大槻文蔵の
        「安宅・延年之舞」舞囃子

息もつかせぬ舞台であった。
所は安宅関、東北へ逃れる途中の義経一行と暴かれないかどうかの瀬戸際なのに、詮議のあとに一献勧められた宴席で、弁慶は「延年之舞」を舞って見せる。
面・装束も舞台立てもなく、謡と舞と囃子だけで見せる「舞囃子」という上演方式で、大槻文蔵は見事な緊張感で見所を安宅関に連れて行き、弁慶の切迫した心情を追体験させたのだった。
謡も力のこもったものだったが、数珠をまさぐって時折発する「エイ」という掛け声は裂帛ともいえる迫力で、若い囃子方の掛け声を圧して重厚であった。
「延年之舞」は平安期に流行した芸能で、寺で説教の際に僧によって演じられる余興であったが、鎌倉・室町期にはじょじょに廃れて現在には伝わっていない。一般に弁慶は武骨一辺倒の荒僧と見られているが、実は芸能にもすぐれ、おそらくは少年期に稚児として寺に入ったのだろうともいわれ、美貌であったとも伝わる。
その端正さをも大槻文蔵は鮮やかに、シンプルな舞囃子の形式を生かして演じた。
装束や舞台立てのきらびやかさに目を奪われがちなお能だけではなく、私は役者の力量をまざまざと見せてくれる舞囃子・仕舞に感動することがある。
今回もその感動を味わい、大槻文蔵が切戸に消えてから息を吐いて、めったにしない拍手を送ったのだった。

●舞囃子・仕舞について
一曲の能の見どころを取り出して、面や装束、作り物などの舞台装置やワキ・ツレなどの共演者なしに演じる上演形式。
シテ・地謡3〜4人、笛・小鼓・大鼓・太鼓(曲によっては太鼓がない場合もある)によって伴奏し、謡い出しはシテが謡う。
通常は鎮扇(能の場合は閉じきらない「中啓」といわれる扇を使用。鎮扇は一般に扇と言われるものとほぼ同じ形状。
流派によって骨の数や細工が異なる)を使用し、曲によっては長刀、数珠、羯鼓など道具を持つこともある。まれに装束を付ける場合、シテ・ツレ二人(相舞など)の場合もある。
仕舞は、謡とシテのみが演じるもので、舞囃子よりは短い場面になる。

●切戸など
能舞台は三間四方(5.4メートル×5.4メートル)に橋掛りがつく。「鏡板」といわれる松が描かれた板が背面にはめられている。舞台には4本の柱があり、それぞれ「目付け柱」「脇柱」「笛柱」「シテ柱」と名づけられている。
観客席は「見所(けんしょ)」と呼び、舞台正面を「正面」橋掛かり前は「脇正面」それらに挟まれた三角形のスペースは「中正面」といい、価格が安くなる。(目付け柱のかげになるため観にくい)
幕は橋掛かりにあり、「揚幕(あげまく)」という。
地謡・後見などは舞台向かって右奥の「切戸(きりど)」から出入りする。また舞囃子・仕舞のときは全員が切戸から出入りする。
また、橋掛かりの見所側には松が3本あり、右から「一の松」「二の松」「三の松」。
また松が植えてあるのは「白洲」、また舞台前面には「階(きざはし)」がある。








出典:
とんぼの本「お能の見方」
白洲正子・吉越立雄著
(新潮社)

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