現場検証 「青山骨董通りと高徳寺」「向島多聞寺」「本所石原」

― 月と狸 ―


「ところで、若先生は青山の刀屋、と申しましても古道具屋が表看板でございましたが、備前屋という店を御存じで・・・」


今でこそ、東京でも最もお洒落な街として賑わう青山界隈ですが、「江戸東京散歩」地図の「東都青山絵図」を見ると、田畑の中に、だだっ広い大名家の下屋敷(中でも一番だだっ広い「青山大膳亮」の下屋敷が、現在の青山霊園です)、それと対照的にちまちまと並んでいる小身の御家人の家々があって、今昔の差に驚きます。
渋谷駅前から、ジャンケンのチョキの形で2本の大通りが東に伸びており、北側が地下鉄銀座線の上を通る青山通り、南側が首都高速3号の下を通る六本木通りで、この2つの通りの間を埋めているのが、青山学院大学と各付属校の敷地です。
そして青学の先で、この2つの大通りをつなぐように走っている通りが「骨董通り」と呼ばれる道で、古美術店やギャラリーの多い通りとして知られています。(それ以上に多いのが、高級ブティックと高級レストランという話もあり、後で聞いた話では、駐車しているのもみんな高そうなクルマばっかりなのだとか・・・「バスとトラックとフツーのクルマ」の区別しかつかないたまこは、この通りで車に注目するのを全く忘れておりました)


しかし、東都青山絵図には六本木通りや骨董通りにあたる道は見つからないので(青山通りのほうは、「百人町」の通りがほぼそれにあたるようですが)、当時の刀屋や古道具屋があったのは、赤坂に近い町屋のあたりだったのかもしれません。
ともかくも骨董通りを歩きながら、つい「備前屋」さんを探してしまいましたが、「備前屋」は無かったのですが「備前焼」の看板がありました(笑)

「新兵衛は位牌を寺にあずけていました」
青山の高徳寺で、藤兵衛夫婦とお加世の遺体もそこに埋葬されて白木の墓標が建っている。

時代小説に出てくる青山の寺というとよく見る名前が「梅窓院」でしょうか。これは今も、渋谷から地下鉄で2駅目の「外苑前」の駅前にありますが、梅窓院と青山通りをはさんで向かい合う、明治神宮外苑の西側の区域も、熊野権現ほか、寺社の多い所で(ついでに原宿教会も)、高徳寺もここにあります。

入り口はとくにどうってことのないお寺さんですが、中に入ってみると、本堂の前の多数の石仏群に目をひかれます。また、天保六花撰の一人、河内山宗俊の墓があるので、渋谷・青山散歩地図やサイトでも名を見かけるお寺です。

とりあえず青山はこれでいいかと駅に向かう途中、「青山能」というポスターを見かけました。
南青山4丁目の「銕仙会能楽研修所」というところで、昨年6月に死去、大河ドラマなどでもおなじみだった観世栄夫氏の、甥にあたる九世銕之亟観世暁夫氏を中心とする演能団体だそうです(はなはなさん情報♪)。
関係ないけど、この「銕」は、鬼平が若い時に呼ばれていた「本所の銕」の銕ですよね(^^♪


・・・新兵衛の住み家は向島のどのあたりだと東吾が訊き、
多聞寺という寺の裏側だと聞いて居ります」
と仙五郎がいささか心もとなさそうに答えた。
「向島なら、長助がくわしいな」

     ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 

大川から綾瀬川へ入り、堀切橋のところで長助は船頭に声をかけ、舟を岸辺へ着けさせた。
あたりは見渡す限り田と畑で、ところどころに百姓家が見える。
「あそこにちょっとした森が見えて居りますが・・・」
杉木立に囲まれた中に本堂の屋根がのぞいている。
隅田山多聞寺といい、本尊が毘沙門天なので、正月の七福神まいりには、けっこう賑うと長助はいった。


向島七福神とも呼ばれる隅田川七福神は、今の東京でも最も人気のある七福神コースの一つで、とくに正月三が日は、各寺社に、参拝と印を貰うための長い行列が並びます。
この七福神巡りコースは、隅田川に沿ってほぼまっすぐ伸びる3キロ半ほどの行程で、一番南が、「美男の医者」で訪れた三囲神社(恵比寿・大黒天)。そこから隅田川をさかのぼって、弘福寺(布袋尊)・長命寺(弁財天)・向島百花園内福禄寿・白鬚神社(寿老人)と来て、一番上流にあるのが、このお話に出てくる隅田山多聞寺(毘沙門天)です。
東武線の浅草から5つ目が橋の名にもなっている堀切駅で、「歳時記画集・花菖蒲」の時にご紹介した、堀切の菖蒲園が有名です。一つ手前の鐘淵駅の近くには、七福神の中には入っていませんが、梅若伝説の木母寺もあります。
多聞寺は、堀切駅と鐘淵駅のちょうど中間あたりにあります。三が日を過ぎ、もう夕方に近かったせいか、お参りの人はちらほらという程度でした。


山門を入った左手に崖があり、ほら穴がみえた。その周辺は木立が鬱蒼としていて、穴の前に小さな石の塚が築かれている。
狸塚と申しますんで・・・なんでも、その昔、狸が悪さを致しますんで、毘沙門様が封じ込めたとか、いろいろいわれがあるらしゅうございます」

昨年の大河ドラマに登場した、ヴィジュアル系謙信のおかげで、すっかりおなじみになった「毘沙門天」ですが、こんな所でも活躍していたのですね。

「木立が鬱蒼」というには程遠いですが、境内の中で、昔の面影をちょっぴり感じさせるコーナーになっています。


「昨夜、本所石原の内藤山城守様の中屋敷から出火しました」

両国駅(JRまたは都営地下鉄大江戸線)から、清澄通りを隅田川上流へ向かって2ブロックほど行くと、蔵前橋通りと交差する交差点に出ます。ここが石原町1丁目、当時の「本所石原」で、「江戸東京散歩」地図の「18-1本所絵図」でもちょうど「石原町」の文字のある所です。
本所の「割下水」は、南も北も今はすっかり埋め立てられてしまっていますが、右左の地図を見比べてみると、ほぼ碁盤の目になっている通りの様子は、今もあまり変化していないようです。

写真の正面のビル群の一画が、当時の「内藤山城守中屋敷」にあたると思われます。本所絵図を見ると、大川沿い(現在の蔵前橋の近く)に下屋敷もあったようですね。
中屋敷が占めていたのはかなり広い区域ですが、現在では単に道路が交差し雑居ビルが並んでいるだけの、何の変哲もない東京の市街で、すぐ近くに国技館やら江戸東京博物館・安田庭園など、超メジャーなランドマーク(これらの敷地は当時の「御竹蔵」)が多々あるのに、こんな交差点にカメラを向けている姿はかなりのオバカです(^^ゞ
その上、地図など見ていると、下町ならではの親切なおじさまおばさま方が近寄ってきて、「どこ行くの。どこ探してるの。わかる?」なんておっしゃって下さるのですが、「内藤山城守の中屋敷が火事に・・・」とか言ってもドン引きされるだろうし、モゴモゴと誤魔化して退散(笑)

平岩先生が、この「内藤山城守」を登場させたのは、火事が史実だったのか、単に地図の中でもかなり広くて目立っていたからか、それとも他に何か理由があるのでしょうか?
検索してみると、上野安中城主に内藤山城守政里という人がいますが、時代的にはもう少し前のようです。

同じ石原町でも、向かいに屋敷のあった旗本徳山五兵衛さん(鬼平よりももっと前の時代の火付盗賊改で、池波正太郎「おとこの秘図」の主人公。嘉永の本所絵図にある「徳山五兵ヱ」は当然本人ではなく子孫と思われる)の屋敷跡には、徳之山稲荷という小さなお社があり、五兵衛さんの業績がしのばれています。本所の開発に尽くした人で、また、火盗時代には、盗賊日本左衛門―歌舞伎では白波五人男の一人日本駄衛門―を逮捕したそうです。

このあたりは、相撲関連いろいろを始め、吉良邸・葛飾北斎・小林一茶・勝海舟・芥川龍之介などなどの所縁の場所、それに、かわせみの「初春夢づくし」にも出てきた津軽屋敷跡など、散歩のネタには事欠かない所なのですが、今年一番といわれる寒風の中、早々に切り上げて地下鉄の駅へともぐったところ、以前に掲示板でご紹介した→を見つけたというわけでした。

※引用は、文春文庫「御宿かわせみ(22)清姫おりょう」1999年11月10日第1刷からです

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