蛍の旅日記
|
|
―
鎌倉散策日記 ー
長谷観音に行く
|
昨日は日本中が雪に覆われ、一面の銀世界であった。今日は打って変わっての快晴、風もなくとっておきの行楽日和になる。去年の大晦日から熱を出し、文字通りの寝正月を過ごしてしまった為に、初詣にも出かけていない。どうせなら鎌倉辺りへ行きたいと思い立った。が、同行者が色よい返事をしてくれない。
「俺、寒いのは嫌だよ。何で鎌倉なんだよ〜。」
「だから〜、車で行くから運転も私がするから〜。」
「高速の運転出来ないだろ〜」などなど言い合いつつも、気持ちは既に鎌倉である。
雪日和 古都へ誘う 旅の空
厚木のインターを降り、国道134号線に合流するとまもなく、相模川の河口付近に架かる湘南大橋が見えてきた。
広々とした相模川を颯爽と渡るドライブは、実に気持ちがいいものだ。海沿いを走るこの道路は「湘南街道」とか「湘南ハイウェイ」などと呼ばれ、抜群のドライブコースである。
次第にトロピカルムードが漂い始めてくる。このあたりは、立ち並ぶレストランの灯りと砂浜に寄せる波音に、夜になるとムード満点のデートスポットらしい。
湘南と言って思い浮かぶのが、サザンとチューブと若大将だ。さわやかな夏のイメージに
ふさわしい。もちろん若大将世代である。
「若大将」シリーズは大好きだった。面白くて、格好良かったな〜。
どんなに頑張っても若大将にはいつも敵わない青大将の田中邦衛さん、懐かしい〜。
よく言われている言葉のとおり「時は残酷」と感慨に耽っている間に、江ノ島が近づいて来た。
江ノ島には、子供の頃父に連れてきてもらった事がある。その時に、初めて食べた「サザエのつぼ焼き」がもの凄く美味しかった事を覚えている。
その味自体は忘れてしまったが、美味しいと言って食べているのを見ている父の顔は本当に優しかった。
父を思い出したせいでもないが、突然♪「真〜白〜き、富士の根〜、み〜ど〜りの〜、江の〜島…」の歌が口をついで出てきた。「ツナミ」でもなく「プロポーズ」でもなく、まして「君といつまでも」でもないこの古い歌が浮かんでしまうとは、少しばかりショックだ。
詳しいことは知りはしないのだが、「七里ヶ浜哀歌」と言うこの歌には哀しい出来事が込められているようだ。明治の頃、当時の中学生たちがボートで沖へ漕ぎ出したのである。そのボートが転覆し、乗っていた若い命を絶ってしまったという。その、若くして亡くなった若者たちの死を悼んで作られた歌なのだそうだ。
ところで、この江ノ島はNHKさんのテレビ番組「ひょっこりひょうたん島」という人形劇の、
舞台となった島のモデルという噂があるが、真相は判らない。
江の島を過ぎると、ますます南国ムードが漂ってくる。カラフルでお洒落な建物が立ち並んでいる。南仏風あり、地中海風あり、イタリア風あり、アジアン風ありとまるでディズニーの世界に迷い込んでしまったようだ。
それにしても何と明るいことであろう。リゾート地として屈指なのもよくわかる。夏ならば海水浴を楽しむ人たちで砂浜も埋まってしまうのであろう。冬だと言うのに、冬の海のどことなくもの哀しい雰囲気などまるで感じられないほどに明るいのも、湘南の海の特徴なのだろうか。
今日は風が無く、おだやかな波が気持ちを和ませてくれる。そのわずかな波に、挑戦しているサーファーがいる。この波では初心者でも大丈夫そうだ。
この辺りは「七里ガ浜」と呼ぶのだが、実際の距離はおよそ三キロほどなのだそうだ。
一里にも満たないが、緩やかな海岸線が遮るものもなく続いている様子が、いかにも七里もあるように長いという意味で付けられたらしい。
やがて、「稲村ガ崎」と言う小さな岬が近づいて来た。ここを過ぎると「由比ガ浜」と
呼ばれる海岸に続く。この岬は二つの浜を分ける岬でもある。
由比ガ浜も哀しい海岸だ。一説によると、静御前は義経との忘れ形見を頼朝によって奪われ、この由比ガ浜に沈められたと伝わっている。
愛する義経の生まれ変わりのような我が子を奪われた静御前の嘆き、時代は違えども悲しみ辛さは同じであろう。
冬凪の はかなき水泡(みなわ) 由比ガ浜
「稲村ガ崎」と言うこの岬は、今は公園として整備されているが、鎌倉幕府滅亡の突破口となった古戦場だ。
元弘三年(1333)五月十八日、新田義貞は鎌倉攻めを開始したのである。しかし、北条軍の反撃も激しくなかなか攻め落とすことが出来ずにいた。そこで、二十一日夜半、干潮時に稲村ガ崎から海を伝い、鎌倉に突入したのである。
翌二十二日、激戦ののち時の執権「北条高時」とその一族は、東勝寺にこもり「最早これまで」とこの寺に火を放したのちに、一族八百人あまりは自害し最後を遂げる。
ここに、頼朝以来百五十年続いた鎌倉幕府も、ついに滅亡したのである。
新田義貞と言う武将は、鎌倉幕府を滅亡に追いやった功労者のわりには、尊氏の陰に隠れてあまりパットしない人物だ。尊氏にばかり人気が集まり、やがては尊氏軍によって越前藤島にて討ち死にという、無残な結末に終わってしまうのである。
鎌倉を攻めていたこの数日だけが、脚光を浴びる場というのも何か虚しいものだ。
それでも、自分の名前が石碑となって後世にまで残るのだから、本望だろう。
もう一つ、この稲村ガ崎には痛ましい碑が建っている。突然メロディーが浮かんで来た例のボート遭難の慰霊碑である。
大小二体の少年が肩を寄せ合い立つブロンズ像は、事故後抱き合ったまま発見された兄弟をモチーフに建てられたそうだ。自分の娘たちと同じ歳頃の少年たちが、その若い命を失ってしまったことは痛ましく、胸につかえるものがある。
風もなく、冬には穏やかな陽の中、ブロンズの少年たちにも柔らかな日差しがそそいでいる。少年たちも未来を夢に見、その夢に向かって羽ばたいて行くはずであったろうに・・・。
静かにじっと遠くを見つめるその眼を見ながら、冥福を祈った。
そろそろ鎌倉の市街地に近づいて来たようだ。大仏様は以前に拝顔させていただいた事があるので、今日は「長谷寺」の観音様を参拝することにした。
「長谷寺」の創建は、天平八年(736)とされているが、詳細は不明だそうだ。
現存する古資料から知る限りでは、鎌倉時代にはすでに此処にあったようだ。
ちなみに、長谷寺のある地域を「長谷」と呼ぶのだが、この地名も長谷寺に由来するそうだ。鎌倉時代の実録書である『吾妻鏡』には、この地名は登場していないので、「長谷」という地名が生まれたのは、鎌倉時代も末期のことらしい。いずれにしても、寺名が由来となった事は確かだそうだ。
正式には「海光山慈照院長谷寺」と言い、ご本尊の観音様は十一面観世音菩薩である。
9.18メートルという身の丈は木造の仏像としては、日本最大と言う。と、予備知識は仕入れてあったのだが、観音堂の薄暗い奥に安置されている金色に輝く巨大な観音様を、実際に間近で見上げ、目の当たりにするとしばらくは絶句状態であった。
多分、間抜けな顔つきでもしていたのではなかろうか。我に返り「わァ、でかい!」とやっと言葉になった。想像以上のものに出会うと人間は、しばらくの間、脳の機能が停止するらしい。
金箔は足利尊氏が施し、光背は足利義満が納めたと伝えられている。きらびやかなその姿にも度肝を
抜かれてしまった。
仏像と言うものは、当初は大抵金箔が施され、光輝いているものだが、年月とともに金箔もはがれ、代わりに黒光りのお姿に次第になっていくものなのではないだろうか。それが却って重厚な雰囲気を漂わせ、年月の重みとでも言うのだろうか、胸に迫って来るのだろう。金ぴかが悪いとは言わないが、華やか過ぎてどうにもしっくりこないのは自分の了見の狭さゆえか、「罰当たりでごめんなさい」と合掌する。
ともかくも、ふっくらとした優しいお顔立ちをじっと見つめていると、現実のしがらみを一刻の間、忘れていることが出来た。
この「長谷観音」は、普通の十一面観音と違い、右手に錫杖を持っている独特なお姿をしている。地蔵菩薩と同じ錫杖を持つ故に、地蔵菩薩に拠る冥土の地獄救済と観音菩薩の現世利益との両面を持ち合わせていると言われている。「長谷寺系」と呼ばれるそうだ。
まったく人間と言う物は、欲張りなものだ。観音様(正しくは、観世音菩薩)と言うのは、サンスクリット語で「救いを求める人々をよく観察して意のままに救う」という意味を持ち、現世を救って下さるのである。一方、お地蔵様(地蔵菩薩)は、この世と冥府(死語の世界)の境にいて、死者を地獄の苦しみから救って下さると考えられている。その上に、十一面観音であるので、あらゆる方向に眼を凝らし人々を救って下さるという菩薩様であるので、一体の観音様で全てを済ましてしまおうと、なんとも横着な話である。
観音様にしてもいい迷惑と思うのであるが、迷惑を迷惑とも思わないのも観音さまの凄さであろうか。
ところで、大観音で思い浮かぶのが、すぐ近くのJR大船駅からもそのお顔を拝顔することが出来る、大船の観音様だ。高さが25.3メートル、幅が18.7メートルという途方もない大きな観音様である。
珍しい事に、この観音様は胸から上だけの胸像である。当初の予定では、全身像として計画していたのであるが、地盤の関係から現在のお姿になったのだそうだ。全身像であったとしたら、いったいどのくらいの高さになったものだろう。もの凄い計画だ。
鎌倉の大仏様が約12メートル、奈良の大仏様でさえ15メートルなのだから、この二体の
大仏様が立ち上がったとしても、全身像になった観音様には敵わないだろうな…などと思ってしまった。大きさはともかくも、優美に微笑む白亜のお顔は穏やかで、実に温かい。笑いは人の心を癒すと聞いたことがあるが、本当のことだろう。
そうそう、長い事観音様は「女性」の仏様と思い込んでいたのである。実は「男性」なのだと知った。お地蔵様にしても大仏様にしても、一目で男性とわかるのだが、観音様のその
やさしいお姿に騙されてしまった。騙されたというよりも、無知なだけか。
観音様を食べ物にしてしまってはもったいないことであるが、大船の観音様を形どった「観音最中」は誠に美味しい。尤も自分が最中、特に皮が好きなので美味しいと思うのかも知れない。白餡と黒餡入りの観音様の胸像そのままの形である。これはこれで多少異様でもある。観音様に限らず、鎌倉名物の鳩サブレもそうなのだが、形のあるものはどこから食べればよいのか困るときがある。頭からというのも気が引けるので、半分に割ることにしている。
随分と横道にそれてしまったようだ。
観音堂の右手に阿弥陀堂が並んで建っている。高さ2.8メートルの阿弥陀如来坐像が安置され、この像は源頼朝が四十二歳の厄年のとき、厄除けに建立したものと伝えられて
いる。ほの暗いお堂の中、悠然としたお姿にしばし瞑目する。
頼朝の建立と言うと、およそ800年の間季節の移り変わりとともに、頼朝その人の生き様はもちろんの事、世のうつろいを眺めて来たのであろう。そう思うと、感慨深いものがある。
頼朝は阿弥陀様に何を託したのだろうか。
武士の最高位である征夷大将軍となり、政治力に優れ武士政権を確立したと言われている反面、そのためには肉親さえも非情に切り捨てる冷酷な人間と伝わっている。果たして、そうなのだろうか。
公暁、実朝、頼家の死と義経そして頼朝その人の死と順に遡って行くと、そこには頼朝の陰に隠れて見えない実行犯の臭いがするのである。後の支配者が全てを頼朝の行為と捏造したものと思うのは考えすぎか。
「勝てば官軍」「死人に口なし」生き残った権力者は何とでも言えるものだ。
サラブレッドではあるもののどこか人の良さも持ち合わせていた頼朝、それを北条という乗り手に手綱を握られていたとしか思えないのである。
中央への進出を狙う地方豪族の北条氏には、老獪な時政やその時政をバックに気の強い娘の政子、政子の弟の義時は父親以上の戦略家である。伊豆の蛭ヶ小島にひとり流された少年が北条氏と関わり、政子と出会い結婚する。そのままその地で生涯を送りたいと考えたかも知れない。
だが、それを許さなかったのは時代であり、北条氏であっただろう。
頼朝と言うサラブレッドを手中にしながら、指を咥えて眺めているほどお人よしではあるまい。
頼朝の子供たちの中、大姫の悲恋物語も鎌倉時代を語るには欠かせないものだ。木曾(源)義仲の嫡男である義高は、大姫の許婚として鎌倉に迎えられることになる。それは、建前であり実際には、父である義仲が頼朝に反旗を翻さないための人質であった。
だが、頼朝と義仲の亀裂は決定的になり、義仲は頼朝軍により討ち死にをする事となる。この時、大姫六歳、義高十一歳であった。大人たちの勝手な都合ではあっても、幼いふたりはままごとのように仲むつまじく過ごしていたのである。人質としてやってきた少年にとって他国での生活は毎日が緊張を強いられるものであったろう。無邪気な大姫と過ごしている時だけが心安らぎ、大姫もまた幼心に思慕の情を感じていたと思う。
だが、義仲の死により、幼いふたりに永遠の別れがやって来たのである。
頼朝はかつてその命を清盛の慈悲によって救われている。にもかかわらず、その清盛を打ったのは誰でもない頼朝その人なのだ。今、義高を打たなければ、いずれ父の仇と頼朝も打たれる可能性もある。そこで、幼いとはいえ義高を打つことを決断したという。それを察した政子は大姫のため、また幼い義高が打たれるのを見るには忍びず、女装をさせ逃げ延びるように計らったのだが、ついに追手に追いつかれ、無残にも十一歳の短い生涯を閉じてしまったのである。
ここにも作為が感じられてならない。
政子は心を砕いたというが、心を砕いていたのは頼朝の方ではなかろうか。
当時の女性は、嫁ぎ先よりも実家を重んじたものである。その政子が、将来に禍根を残す恐れのあることを許すだろうか。
武士の棟梁として祭り上げられても、実際の権力は北条が握っていたとしたら、頼朝独りがどう抗おうと、その流れを変えることは不可能であろう。
頼朝の築いた幕府を守る為と言う名目の上で、政子は義高を打つことにも目をつぶったのではないだろうか。大姫に情けをかけ、義高を逃がす手助けをしたとは思えないのである。情に流されそうになる夫を苦々しく思いつつも、夫の手綱を引き締め、父や弟の意のままに操ることこそ、ひいては己の身のためになる事はよくわかっているはずだ。
義高を失った大姫は、生きる気力を失ってしまう。ただただ幽界に住む義高だけを慕い、心を無くした抜け殻であった。早く早く逢いたい。命の蝋燭をその熱い想いで溶かし続けたかのように、わずか二十歳の生涯を閉じてしまう。
常しえに 前世の契り 忘れまじ 面影はるか 花の散るらむ
世間からも両親からも心を閉じてしまった大姫、そこまで大姫を追い詰めてしまったものは何であったろうか。
義高を失った悲しみもさることながら、それを画策したのが誰あろう母親だとしたら、その衝撃は父親の比ではあるまい。
頼朝にも匹敵するほどに毛並みの良い義高である。
政子にとってサラブレッドは頼朝ひとりで充分である。大姫の夫として成人し、頼朝にとって有力なブレーンに成長する可能性は充分に有り得るのだ。それは、我が北条の立場を危うくするに等しいことであり、禍は小さなうちに摘み取るのが一番手っ取り早いのである。
鎌倉を逃げたした義高であったが、武蔵国入間河原で、堀藤次親家の郎従に追いつかれ、その十一歳という短い生涯も、ついに閉じる時がやって来たのである。
その後、この郎従は頼朝に斬首されてしまうのだが、いい面の皮である。命令に従っただけなのに。一説には、大姫の心を慰めようと仇であるこの者を打ったと云われているが、その命令が頼朝からではなく、北条からいや政子からだとしたら、そこには頼朝の怒りが込められているのではないだろうか。
「頼朝の命令」を隠れ蓑に、着々と権力を握る北条氏の次の標的は義経であった。頼朝と違い、扱いにくい義経は目の上のタンコブ、いずれは打たなければならないのである。
義経という人物は、世間知らずではあっても北条ほど腹黒くは無いであろう。
関東武士に人気のある頼朝と、実力と人気を兼ね備えた義経が手を結んでしまったならば、勢いはどちらに流れて行くか、最早明白である。地方豪族上がりの北条では太刀打ち出来なかろう。頼朝の正妻の実家、それだけである。外祖父だなどと、うかうかしてはいられないのである。その立場をより堅固なものにしておかなければならないのは、当然の処置であろう。
静御前と義経の御子を由比ガ浜に埋めた非道な頼朝、かたや必死で庇い立てをした政子。と伝わっている。
だが、女性というものは時に拠っては男性よりも惨いことをするものである。政子にとって義経はあかの他人、肉親としての情も感じられなかろうし、たかが白拍子の子供のため、それほど親身になって命乞いなどするものだろうか。頼朝の縁者の血を引く者の存在は、北条にとって無用なのである。嫉妬に狂い、頼朝の愛人を片っ端から握りつぶす政子、それは嫉妬というよりも其処に生まれた頼朝の子供との権力争いを未然に防ぐための方便であろう。
焼き餅ちのなせる業などと謂われているが、それほど可愛げのある女性でもなかろう。
だが、この政子という女性の生き方は大好きである。男に媚びず、情に流されず、己の才覚で生き残るのである。この政子の力があればこそ、百五十年もの間、鎌倉幕府が存在し続けたのであろう。自立する女性はいつの時代も輝いているものである。
己は傀儡と次第に分かりつつある頼朝が、自分の肉親のために阿弥陀如来にすがったとしても、そこには頼朝の優しさ、辛さが感じられるのである。そこが頼朝の弱点なのであろう。
政治的手腕よりも、非道さばかりが語り伝えられている頼朝に、人間らしい親近感を持つのは私だけであろうか。
長谷寺にて 2004年 1月
|