現場検証 亀有・中川と葛飾・墨田の水路

― 月夜の雁 ―

「丑之助といいましてね。中川の岸辺の亀有という所の百姓の倅です」

「いつも夜明けに亀有を発って来るそうですから。我が家へ着いたのは、わたしが薬草畑を見廻っていた時で、辰の刻前後ですかね」


この春、「菜の花月夜」で荒川の探索をしたときに、区分地図だと川の流れなどがわかりにくいなぁと思っていたんですよね。
あの時の平井や木下川薬師・白髭明神などは、ぎりぎりで「江戸東京散歩」地図にも載っていたのですが、今回の亀有は、ついにはみ出した模様です。

これを機会に、大きな地図も一つ欲しいなと思って、「江戸東京散歩」と同じ人文社から出ている、明治12年の「実測東京全図」をGETしました! 「東京」の「京」に横棒が入っているのがちょっと嬉しいタイトルです。
これを広げてみると、右上端っこに亀有村もあります(嬉)。上流までは出ていませんが、S字型に曲がっている中川の流れもよくわかりますね。

ところで、このお話を読むたびに、亀有から(それも鯉だの薬草だのかついで、)小名木川沿いの麻生家までやって来るってすごいな〜、そんなに度々やって来れるのかなと思っていたのです。
宗太郎さんの話によれば、夜明けに亀有を発って、朝の8時ころに着くということですから、3時間ほど・・・まぁそれくらいはかかるだろうなぁ。

ちなみにネットの乗り換え案内で調べてみると、一番速いコースが33分。亀有駅から常磐線乗り入れの千代田線で、北千住経由で大手町へ、そこから半蔵門線に乗り換え清澄白河駅まで。
大手町経由というのは、隅田川を渡って江戸城まで来てしまうということで、亀有から本所深川方面に行くなら隅田川を渡る必要はないのだから、ちょっと無駄なコースに思えますが、現在としてはそれが一番速いようです。
でも電車なら30分ちょっとなんだ。思ったより速いですね。亀有ってもっと遠いイメージでしたが・・・
狸穴へのルートが、地下鉄で八丁堀から六本木までが乗り換えなしで15分なので、東吾さんの狸穴コースの約2倍という感じですね。
東吾さんは、丑之助くんの半分のコースで狸穴に行き、しばらく泊ってくるのに、丑之助くんは、3時間のコースを再びその日のうちに亀有まで帰っていくんだからすごいです。

ともかく、亀有からというと、やっぱり水戸街道で来ることになるんだろうなぁ等と考えつつ、もう一度全図をよく見ると、なんと、亀有から本所まで、ちゃ〜んとまっすぐのルートがあるじゃありませんか!!
亀有から千住のほうへ行くのでなく、ほぼまっすぐに南下して、荒川を渡って南西へ進み横川へ出るルート、水路らしきそのルートをよく見ると、小さな文字で「引船通」とあります。あ〜そういえば曳舟という駅もあったはず、あそこか〜〜
急いで現代の地図を出して見れば、まさにそのルートが「曳舟川通り」として、水戸街道の南側で葛飾区・墨田区を斜め横断し、スカイツリーのお膝元押上から、大横川親水公園となって本所深川・木場まで続いているじゃありませんか(ワクワク)。


現在、このルートを電車で行こうとすると、亀有から北千住までの常磐線は先のコースと同じですが、北千住から東武伊勢崎線で「曳舟」「押上」を通り、東武伊勢崎線が乗り入れている半蔵門線で清澄白河まで。
大手町経由に比べると、時間もかかる上に運賃も高くなりますが、これが最も「曳舟川」ルートに近い行き方ですね。

この曳舟川、広重の江戸百景にも描かれております。
曳舟というのは、用水路として掘られたこの水路が、水の流れが緩く、また深さもあまりなかったので、舟は引き綱で岸から引いたためだそうで、いかにものんびりとしたその光景が、生き生きと描かれていますね。
背景に描かれているのは筑波山です。

ともかく、こうなったらやっぱり、このルートを実際にたどってみるっきゃない!!


広重名所江戸百景 「四ツ木通用水引ふね」


亀有と中川

というわけで、まずは亀有駅に降り立ってみます。
だいぶ前に、ストファ図書館で「こち亀」連載30周年記念の小説集を取り上げた時に、亀有の「両さん像」もご紹介しましたが、その後SMAPの香取くん主演でTVドラマにもなったりして、ますます、亀有といえば「こち亀の両さん」で盛り上がっているようです。

両さん銅像の数も、最近では駅前以外にもやたらに増えているようで、銅像マップまで出来ており、あんまり増えるとかえって有難味がないんではとちょっと心配(^^ゞ

東京都葛飾区亀有は、JR常磐線で北千住と松戸の間にあり、千葉県との境に近い町です。
駅前はガード下に居酒屋や食堂が並んでおり、気取らない庶民の町と言う感じ。

鎌倉・室町時代には、この地域は「亀無」という名で義経記その他の文書に記されているそうですが、江戸時代に亀有と変更されたといいます。


駅前から右手にある環七通りを北上して、中川のほとりの中川公園に向かいます。
交差点で町名が亀有からその名も「中川」へ。中川は葛飾区でなく、足立区になります。

環七と中川に挟まれて、中川公園と都下水道局の水再生センターがあります。

中川公園の広い敷地の中は、芝生が続いているだけで何にもなく人影もありません。子供たちの農園や遊び場になっている一画に、放課後の小学生たちらしいのがチラホラ見えるだけ。

中川公園に隣接して「土づくりの里」というのがあって、何やら大がかりな工事をしています。
後ろに見える煙突は、中川対岸の葛飾清掃工場の煙突です。


葛西用水と曳舟川親水公園

中川公園の前で、環七から枝分かれして西側を南下(亀有駅方面へ戻る)道がありますが、これこそが昔の曳舟川の流れていた、本所と亀有をつなぐルートの始まりです。
丑之助くんの家がどのへんにあったのかわかりませんが、とりあえず中川公園の前を起点として歩数計をゼロにセット。


曳舟川は、もともと本所用水・白堀用水などと呼ばれ、江戸初期に徳川幕府が本所開拓のための用水として、現在の越谷のあたりから開削した用水路でした。
今の亀有駅以北の水路は葛西用水と呼ばれ、街中の道路の中央に水路が残されています。
亀のいる所や、大きな水車もあったりして、飽きない散歩道です。

昔の写真が載っている説明板もあり、だいぶ古びてほとんど読めませんが、かすかに当時の面影を知ることができます。

亀有駅前に戻って常磐線のガードをくぐり、467号線を越えると、曳舟川親水公園と名を変え、もう少し広い通りになりますが、さらに水路が続いていきます。

葛西用水と曳舟川には、綾瀬川に至るまでに28個の橋があったようで、橋と橋の間が大体ワンブロックになっており、通りの真中に水路と並木が設けられ、門も作られていて左に「曳舟川」右に橋の名を記してあります。

お休み処もあちこちにあって、コンビニで飲み物を買って一休みしながら歩くのにちょうどよい。
¥100のかき氷のお店も・・・この店は窓口しか無いのですが、通りを渡ったところのお休み処で、あたりを眺めながら食べようっと♪

ミニ水田に稲が実っているところもあります。かかしの姿も・・・
昔の川を親水公園や緑道にした所は、最近、都内のあちこちに見られますが、これだけ大規模なものは珍しいのではないでしょうか。

町名が亀有から白鳥に変わっています。

白鳥というのは昭和になってからつけられた新しい町名で、昔の亀有・青戸の一部ですが、昔この一帯に白鳥沼という広大な池沼があり、鴨・雁・白鳥などが多数群居していたのが由来とか。
将軍家御鷹狩り、とくに朝廷に献上する「鶴御成」の場所だったそうです。


「曳舟十二橋」の所に「郷土と天文の博物館」というプラネタリウムを併設した施設があり、入場料¥100で入ってみると、なかなかの充実ぶりです。

とくに、昭和22年のキャスリーン台風で大きな被害を受けたこの地域の様子を、当時のニュース映画で地図と共に示している展示は圧巻で、利根川・江戸川・中川・綾瀬川・荒川・隅田川などが、複雑に寄ったり離れたり、さらにこれらの川を複雑に細い水路が結んでいた様子が見てとれます。

川や水路は、この地域の大きな資源であったと同時に、深刻な水害ももたらしました。
この博物館では、郷土史に関する多くの冊子も編集しています。


博物館を出ると、間もなく京成のお花茶屋駅前に出ます。
八代将軍吉宗が、鷹狩りの途中で腹痛を起こした時に、茶屋の娘お花の手厚い看護で快復したため、お花茶屋の名を賜ったといわれていますが、町名となったのは昭和になってからです。


水路と親水公園はさらに続き、四つ木へ入ります。ようやくこの辺から、「江戸東京散歩」の地図にも入ってきました。
広重が描いているのはこのあたりのようです。

四つ木の名の起こりには、地域に大木が四本あったという説、源頼朝が地域を通過したのが四ツ過ぎだったという説、西光寺の聖徳太子像が四本の木を組み合わせて作られていることに由来するという説、貴人の子がここに住んでいて「世継ぎ」が「四つ木」に変わったという説など、いろいろあるようです。
大正元年に京成電気軌道が開通し、四ツ木駅が出来ました。
町名は「四つ木」と、平仮名の「つ」ですが、駅名は片仮名の「ツ」なんですね。
そういえば、隣の「青戸」も、町名が「青戸」で、駅名は「青砥」です。

この先で綾瀬川と荒川にかかる新四ツ木橋を渡って、墨田区に入ることになりますが、その手前で水戸街道と合流します。
ここで長かった親水公園も終わりです。

四ツ木小学校前の歩道橋を上がると、行く手にスカイツリーが姿をあらわしました。

ここからは水路はなくなりますが、曳舟川の名を残した曳舟川通りが、スカイツリーのお膝元業平橋へ向ってまっすぐに続いています。
水路との別れを惜しむかのように、「四つ木めだかの小道」という小さな流れが橋のたもとまで作られています。

昔は隅田川の上流で、中川と結んでいた綾瀬川ですが、荒川放水路が出来てからは、荒川の東側にぴったり寄り添う形で、親子罫線状態の二つの流れとなっています。

四ツ木橋と新四ツ木橋が並んで架けられており、水戸街道は四ツ木橋、曳舟川の通りは新四ツ木橋につながっています。

橋の上は風は強いけれど、スカイツリー撮影スポットとしては穴場かもしれません。
長〜〜〜い橋を渡り切ると墨田区に。ようやく本所も近くなってきました。

水路のなくなった曳舟川通り、道の左は八広(やひろ)、右は向島です。
日本武尊が、我が身を海に投げうって嵐を鎮めた妃の弟橘媛を祀ったといわれる、吾妻神社にちなむ吾妻町を始め、八か所の地域が合併したため、「末広がりの八」という意味でつけられた町名だそうです。

前方にスカイツリーが見え隠れしながら、通りが続いていきます。
すぐ近くにあるようにも見えるし、なかなか近づけないようでもあるし。スカイツリー取ってくれろと泣く子かな。

見覚えのある「区民健康づくりラジオ体操広場」という柱のある公園が。そういえば菜の花月夜で訪れた白髭神社、荒川放水路が出来たために木下川薬師と対岸に別れてしまったあの神社は、ここからほんのちょっと荒川の下流の所なんですね。
あの時はかなり人里離れた感じだったけど、同じ墨田区内で、すぐ近くです。

反対の上流のほうは、荒川と隅田川が三角地帯を作っている鐘ヶ淵で、多聞寺や梅若塚のある木母寺など、おなじみの場所がいろいろあります。
だんだんスカイツリーが間近に迫ってきました。

環状五号線にあたる明治通りと交差する曳舟川交差点の次の信号の所に、曳舟文化センターがあり、「すみだと北斎」というパンフをGET♪
生涯で93回も転居したと伝えられる葛飾北斎ですが、そのほとんどを本所・向島、つまり現在の墨田区で過ごしたということで、生家に近い亀沢町の緑町公園に、「すみだ北斎美術館」の建設計画が進んでいます(平成25年度開館予定)。

ここの右手に東武伊勢崎線の曳舟駅、左手に京成曳舟駅があります。

曳舟の次の駅は、東武伊勢崎線は業平橋、京成は押上。
押上村は、麻太郎誕生のきっかけとなったあの「雪の夜ばなし」の舞台で、清水琴江の乳母の兄の持ち家のあった所でしたね。
後述するように、この時は麻生家がなぜか小名木川沿いでなく、竪川沿いだったことになっていて、もしこれが小名木川からだと、東吾さんが琴江さんをおぶって雪の中を歩いて押上まで行くのは、相当な遠さになってしまいますが・・・

押上村は、源さんが食べていた紫蘇餅の紫蘇の産地、寺島村や、大名家・豪商の「向島の別宅」が多かった小梅村などと共に、江戸の郊外としておなじみの所でしたが、今は何といってもスカイツリーです。
隅田川と中川を結ぶ東西の水路として、向島・押上を流れる北十間川に架かる橋は、どこもカメラを持った人でいっぱい。

北十間川と横川の交差する所で横川に架かっているのが業平橋。業平橋を入れてスカイツリーを撮ろうと思うと、天辺まで撮れない・・・
「かわせみ」の頃は、北十間川が隅田川に流れ込む河口部分は源森川と呼ばれており、「残月」でご紹介しましたね。

この時は、まだスカイツリーがうんと背の低い状態で、比べてご覧になると興味深いと思います。

もっと前には、「ぼてふり安」の時もこのあたりでしたが、その頃は影も形も無かったスカイツリー。


業平橋駅前のカフェには、「スカイツリーパフェ」というメニューがありますが、¥1800という値段に驚いて写真だけですませ、普通のパフェ(¥450)に(^^ゞ


押上から小名木川へ

さてここで長かった曳舟川も終わりを告げ、業平橋からスカイツリーを背にして、現在大横川親水公園となっている遊歩道を、次々と橋の下をくぐりながら、小名木川へと向かって進みます。
「ぼてふり安」で渡った懐かしい法恩寺橋もあります。


総武線のガードをくぐると、左手に両国高校。
現在は附属中学が出来て、都立の中高一貫校になっています。
芥川龍之介や堀辰雄の母校として有名な城東一の進学校で、「池袋ウェストゲートパーク」の石田衣良さんもここのOBですね。

両国高校の先で堅川と交差する所から、横川の水の流れが復活します。
時代小説にもよく登場する堅川ですが、今はすっかり高速道路の下に隠れてしまいました。
右の写真は、菊柳橋から北方(横川上流)を見たもので、向こうに堅川の上の高速ガードがちらっと見えます。

「煙草屋小町」でご紹介した、新大橋から続く新大橋通りの菊川橋を越えると、次は猿江橋。

この先で小名木川と交差します。麻生家まではもう一息です!

菊川橋               猿江橋から横川・小名木川交差点を望む         猿江橋


横川の猿江橋・扇橋と、小名木川の新高橋・新扇橋の四つの橋に囲まれた、二つの川の交差点の眺め、東京の隠れた名所の一つじゃないかと思っているんですけどね〜
元禄から享保の頃には、ここにも船番所があったそうです。中川の番所のような関所的なものではなく、川船改役の出先機関として川船の年貢や極印などの行政を行っていたということです。

右折して小名木川に沿って、隅田川のほうに向かって行きます。(⇒小名木川散歩

東深川橋と西深川橋の間に、「森下文化センターのらくろ館」があります。「のらくろ」の作者田河水泡は本所の生まれで、遺族の寄贈した遺品が展示されています。

高橋の船着き場が見えてきました! ついに亀有から完歩です!! 26703歩。
途中で資料館などに寄って見て廻ったり、橋があると橋の上から写真を撮ったりで、かなりオーバーしていると思いますが・・・
時間も3時間なんてもんじゃないですね〜〜しょっちゅう休憩してたし(^^ゞ
それでも、歩いて歩けない距離ではないことがわかっただけでも収穫でした!

高橋のたもとからすぐに地下鉄清澄白河駅。清澄庭園や深川江戸資料館、霊厳寺など、お江戸散歩の拠点の一つですが、今日はひたすら帰途につきます。 


麻生家の場所はどこ?

今回のゴールは、小名木川の高橋としましたが、ご本家「かわせみの謎」の中の「麻生家は何回か引越しをしている?」でも指摘されているように、「本所の麻生家」が本所のどこにあったのかというのは、一定していません。

麻生家が初登場するのは「江戸の子守唄」だと思いますが、この頃はまだ、幕末よりもうちょっと前の時代のような雰囲気で、本所は新開地のようなイメージです。
「久しぶりに行ってみると、あの辺りにも町家が増えた」「以前、空地だったところに新しい家が建っている。うっかりすると道に迷うほどだ」などと東吾さんが言っていますが、本所のどのあたりかは記載がありません。
もっとも「かわせみ」の場所でさえ、一番最初は大川端じゃなくて柳橋だったりしてたんですから、麻生家の場所が定まってなくても当然だったかも。

「幽霊殺し」で、麻生家は「小名木川沿い」となっていますが、高橋ではなく「新高橋をすぎて舟堀川と名を変えるあたり」・・・かなり東側にあったことになっていますね。この場合は、猿江橋の先で右折でなく、左折しなければなりませんね。
しかしこの辺は深川十万坪などのあたりで、大川端や八丁堀からは遠くなってしまうので、もう少し隅田川寄りに直されたのでしょうか?

しかしその後、「雪の夜ばなし」のように、割下水や本所一ツ目と小名木川よりもっと北に移動してしまいます。
一般にはむしろ、本所というとこちらのほうがイメージが強く、小名木川はどちらかというと深川の縄張りで、本所といってすぐに小名木川が出てくるのは珍しいと思います。

しかし、花世や子供たちが出てくるようになってからは、高橋近辺で定着したようですね。

明治編での麻生家の運命は、かわせみファンには耐えがたい辛いものとなりましたが、丑之助たち亀有ファミリーは、明治になっても、中川のほとりで元気に暮らしていることを願います。


※引用は、文春文庫「源太郎の初恋」2000年5月10日第1刷からです

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