コース
京成佐倉駅
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松林寺(しょうりんじ)
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妙経寺
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旧堀田邸
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歴史生活
資料館
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延覚寺
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甚大寺
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宗円寺
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嶺南寺
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旧市街の
町並み
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山口家住宅
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塚本美術館
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医学所(療養所)跡
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麻賀多神社
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房州屋本店
(昼食)
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大聖院
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修静居跡
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武家屋敷
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藩校成徳書院跡
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連隊碑
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姥ヶ池
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京成佐倉駅
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コースは、左欄のとおり: とっても、オタク的なところで申し訳ありませんが、地図をupしようにもできないので、地図のページはここです。
http://www.sakurashi-kankou.or.jp/annai/sakura/index.html
観光協会はここです。
http://www.sakurashi-kankou.or.jp/
このコースでゆっくり歩いて1日です。このほかにも、順天堂・国立歴史民族博物館をまわるともう少し時間が必要です。
詳しい説明は、観光協会の方が間違いがないのでそちらを参考にしてください。
ここでは、ワタシ的、佐倉巡りを…
佐倉城は 西・南・北と崖になり東に寺町を配したタコの頭のような地形で、鹿島川と支流の高崎川を天然の要塞として築城され、坂とかぎての小さな城下町である。
東の寺町は、当然ながら城の守りのためにつくれらた町。
土井利勝から堀田氏まで様々にいわれがある寺が点在する。それだけ寺があるのに、そうした末裔たちは全国に散らばり(最も今で言えば、転勤していったので当然だけれども)縁も薄れ、その時代飛ぶ鳥をも落とす勢いだった大名たちや先人の偉人達さえも 忘れられ、墓や供養塔が残るだけのみで、墓参に訪れる人はほとんどいない状態だというのが現状ではないだろうか?
墓の下で、こんな時代になるとは?と思っておられるのだろうか。
町中へ行くとかぎてや路地が縦横に走り、車社会とはまったく違う時間が流れ、足や馬が唯一の交通手段であった頃をしのばせている。
町家は立派なものは防火のために壁を土蔵造りにしていて、軒先を出桁造り(だしけたつくり)にしている。江戸時代の町家は火事などの事情によりないが、今も残る町家は明治時代2度の大火のあとのものであるという。それも今は「三谷」家(たしか今はふとんや)と数件しかない。
税金も間口で決められたため、京都と同様にウナギの寝床が多いのには驚いた。
麻賀多神社近くの裏道を行くと、「玉家」という、古めかしい割烹料理屋が崖に張り付くように建っている。ここは、陸軍兵士たちが戦地へと出兵していく際に壮行会?送別会?をやったところだそうだ…ただし、上の階級の人らしいが、下の階級の人々はもう一軒の割烹料理やと言っていたが、今はもう営業はしていない。
そこで、思い出した。先ほどの寺町付近には、色町があったようで遊女たちもこの出兵には涙で送ったのだろうか?と思ったりもしたけど。
ここから幾人が外地へおもむいたまま、再びこの地にさえも帰らなかったこと思うと、
合掌。
佐倉城は、今は当時を忍ぶ建物や門など何も残ってはいない。明治維新後、陸軍省が連隊を置いたため城の建物は取り壊されたという。
城内は、本丸、二の丸、三の丸などと、家臣の屋敷割がなされた曲輪からなっていたようで、大手門、三の門、二の門、一の門を経て本丸にいったとされている。本丸には天守閣、二層の銅櫓、角櫓などがあったという。今はだだっ広い空き地になっていて、多目的広場になっている。
また、城内には国立歴史民族博物館があり、今回は見て回らなかったけれど、以前桜の時期に子供たちとお弁当を持ってきて、1日のんびり見学をした。
今も、城の再建とか門の再建とか言ってはいるが、バブルもはじけてどこまでするつもりだろう?
京成佐倉駅から寺町へ向かう途中に県立佐倉高校がある。佐倉の最後の藩主の寄付によって建てられたこの学校の前身があり、今は記念館となった洋館が残っている。
今も事務室や職員室として使われていて、中の見学はできない。
また、敷地内に地域交流館という施設があり、蘭学などに力を注いだ印として藩校時代の資料が鹿山文庫として、多数の資料のほか日本最初の蘭和書のハルマ和解(波留麻和解)の原本が保管されている。展示館もあるので時間があったらのぞかれたい。ハルマ和解はレプリカだけれど展示されている。こちらは地域交流館と言うくらいで開放されている、無料。(月火水は休館)
現在の高校になる前の佐倉一高はかの長嶋茂雄氏の母校である。その時代のユニフォームも展示してある。
余談になるが、入学式の祝電の中に長嶋茂雄氏の名前を聞くと保護者席から何とも言えないため息がもれるという。式典終了後祝電が張り出されると親子して列を作って写真を撮るために並ぶそうだ。長嶋氏が持つ魅力なんだろうなぁ。
昼食は、麻賀多神社の隣の房州屋本店でいただいた。おそばが美味しいところだった。でもそば会席と聞いていたが、コロッケとポテトサラダと煮物とおそば…ついでにいうなら、そば湯もでなかった。団体だから仕方ないのか?ちょっと残念。
でも!!おそば・おいしいよ!
旧堀田邸から見えた富士山はきれいだった。ここの家は堀田氏が廃藩置県後に建てて住んだ家なのだけど、水戸の偕楽園の中にあるあの家をおもわせる。規模はもっと小さいけれどね。
ガラス戸は明治初期の板ガラスで、ちょっとゆがんだりしているが、当時としてはかなり貴重で高価な物であったようで、失礼ながら、お宝探偵団ならいくらとみるのか?と・・はい失礼しました。
さすがお武家様の屋敷というような、質素だけれど趣を持った静かなところだった。
御宿かわせみが東吾様とるい様が晴れて結婚をしてかわせみを武家風にしたというくだりがあるけれど、刀掛けはないしましてやガラスなんてものはないけれど、こんな雰囲気だったのか?と思わせてくれて宿と邸宅が同じはずであるはずがないのに、ひとりにやにやしていた。
今回の旅日記は、旅とよぶには近すぎるけれど、都心から小一時間のところで、のんびりと、いなかの城下町巡りをするのも楽しめる。
郷土史に詳しい人の案内だったので、時間はあっという間に過ぎてしまいました。
こんな、ちいさな旅もすてがたい。
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