現場検証 番外編

薩摩江戸藩邸跡を歩く


徳川家と薩摩藩

「ここから先は、東吾さん、聞かなかったことにして下さい」
前の将軍の御台所は京都の公卿の姫という名目で嫁いで来たが、もともとは西国の藩主の養女であり、その一門の娘であった。
前将軍他界の後も大奥にあって、現在の将軍の養母として重きをなしているが、その人の傍に仕える奥女中で美代路という者が、やはり、前御台所と同じ藩の重臣の娘であった。
「要するに、その奥女中と丸に十字の藩の武士とが、手紙のやりとりをしていましてね。それが時候見舞かなにかならよかったのですが、御政治向きの秘事を知らせるものとなると厄介なことになります」 (『かくれんぼ』より)

春日野の報告が天璋院に届いて、大奥は蜂の巣を突ついたようなさわぎになった。
同じ大奥に暮しているが、本寿院付の女中と天璋院付の女中は犬猿の仲であった。
本寿院付の女中が、われらの御主人は前将軍の御生母様、天璋院には義母に当ると尊大ぶれば、天璋院付の女中は自分達の主人は前将軍の御台所で、左大臣近衛家の御養女様ぞと一歩も退かない。
たしかに天璋院は薩摩の太守、島津斉彬の一門、島津忠剛の娘で、十三代将軍の御台所に迎えられるに際して、まず斉彬の養女となり、更に近衛家の養女となって千代田城へ入った。しかも、この縁組に奔走したのは、老中、阿部伊勢守正弘であり、紀州家から十四代将軍として入った家茂は天璋院を養母としていた。
そうした意味で、大奥の勢力は天璋院のほうが圧倒的に強い。本寿院付の女中にとっては当然のことながら面白くはなかった。 (『春の雪』より)

大河ドラマ「天璋院篤姫」のおかげで、今年は薩摩ブームになりそうですね。早くも、いろいろな展示やツアーの広告が目をひきます。
今のところ、篤姫はまだ故郷の薩摩にいて、ようやく斉彬の養女となった段階ですが、今後、京都の近衛家を経て、はるばる江戸へ、そして幕末の動乱に遭遇するのですね。
というわけで、久々の「番外編」では、江戸の薩摩屋敷跡及び薩摩ゆかりの場所を訪ねてみることにしました。

「御宿かわせみ」は江戸の庶民と幕臣の物語ですから、当然、薩摩に対しては敵対モードにあるわけで、冒頭に引用した「かくれんぼ」の東吾さんと源さんの会話でも、その雰囲気はよくあらわれていますね。藩名こそ出してないけど(といっても、「丸に十字」だとか、引用した所の前では「薩摩なまり」なんてハッキリ書いてあって、今更って感じですけど:笑)
薩摩藩士の不祥事は「さかい屋万助の犬」にも描かれています。

江戸幕府vs薩摩の敵対関係は、幕末に始まったものではなく、はるかに歴史をさかのぼるものです。もっとも、由緒正しきお家柄という点では、成り上がり(秀吉ほどではないにしても)の元名古屋人徳川一族なんかより、地元密着元守護大名の家系である島津家のほうが、ず〜っと格上なんですよね。

中国の大内や東海の今川、甲斐の武田のような多くの名家は、織田信長天下統一の前に滅んでしまいましたし、家康が天下を取ってからは、上杉も伊達も所領を減らされたり、国替えを余儀なくされたりしたのですが、この島津家だけは、縮小されたとはいうものの、戦国以来いや鎌倉以来の伝統と団結をもってこの薩摩の地に君臨しており、徳川家にとっては非常に不気味な存在だったわけです。
なんたって江戸から遠い遠い土地ですし、もし無理やり国替えさせたとしても、その後を誰に任せるか?という問題もあったんでしょうが、表だって薩摩をいじることはしないでおく代わりに、江戸幕府はたびたび隠密を送って薩摩の動静を探り、薩摩側も全力をあげてこれを抹殺していたといわれます。大仏次郎の小説にもなった「薩摩飛脚」〜〜生きては戻れぬ薩摩飛脚〜〜なんかオドロオドロしい世界だったんですね。

こうした緊張関係の歴史を持つ徳川家と島津家ですが、それにも関わらず、というか、それゆえに、かもしれませんが、両家の縁組というのは、実は篤姫よりももっと前から、けっこうあったのです。

JR品川駅前の歩道橋から。このパシフィック東京のある所が当時の薩摩下屋敷だった。
写真を撮っているこの場所は、当時はまだ海で袖ヶ浦と呼ばれていた。

よく知られているのは、五代将軍綱吉の養女竹姫、もっともこの人は徳川の血筋ではなく京の公家清閑寺家の姫(実父の清閑寺さんって忠臣蔵松の廊下の時の「勅使」だったんだって〜びっくり)ですが、この人が薩摩藩主島津継豊さんにお嫁にいきました。この竹姫さんは、男運が悪いというか、婚約者が次々と亡くなってしまったあげく島津家へ後妻に入ったという事だったらしいですが・・・ドラマなんかでは、よく八代将軍吉宗との悲恋のヒロインとして描かれていて、今年の正月ドラマでは、田中美里さんがやってましたね。
竹姫のお相手の島津継豊さんの孫が島津重豪、この人は、今テレビで高橋英樹さんがやっている開明派藩主、斉彬の曽祖父になります。このひいおじいちゃんも大変な新し物好きの開明派で、医学や天文学を奨励しましたが、そのかわり藩は財政危機に陥ってしまいました。この重豪さんも徳川家(一橋家)から奥さんを貰っています。さらに重豪の娘が、十一代将軍家斉の正室となっており、天璋院と同様、いったん京の近衛家の養女となってから嫁ぎました。こうしてみると、徳川・薩摩の縁は相当に濃いといえますね。
天璋院自身、政治向きのことはともかくも、両家の縁は明治以降も大切にしたいと思っていたらしく、徳川宗家十七代の家正と、久光の孫にあたる島津正子は、天璋院の遺言により、誕生前から(!)婚約の間柄で結ばれたそうです。

今後の大河ドラマでは、いつ頃篤姫が江戸城大奥入りするのか注目されますが、大奥に登場する人々の中に「美代路」や「春日野」が出て来ないか、つい期待してしまいますね♪
そういえば夏目漱石の「吾輩は猫である」にも、主人公の名無し猫「吾輩」のガールフレンド(?)の三毛猫が、自分の飼い主は「天璋院様のご祐筆の妹がお嫁に行った先のおっかさんの甥の娘」だといって自慢するくだりがあったと思いますが(つまり、ご祐筆の義弟の従兄弟の娘だよね)、このご祐筆が春日野さんあたりだったりして?
出身は敵方であったとしても、遠い国から親兄弟の絆を断ち切って単身江戸城に入り、徳川家の女性としての生き方を全うした天璋院は、江戸⇒明治の庶民にも慕われていたようですね。新聞の漫画などにも取り上げられたことがあると聞きます。


薩摩藩江戸屋敷

■中屋敷

「江戸東京散歩」麹町永田町外桜田絵図(嘉永三年)を見ると、江戸町奉行で名高い大岡越前守をはじめ、井伊掃部頭(この屋敷から桜田門の外に出た所で暗殺された)、六連銭の真田信濃守、上杉弾正大弼など、諸大名の上屋敷がずらりと並んでおり、それぞれ紋所がついていますが、「薩州殿」だけは中屋敷の■印になっています。
篤姫の原作で「桜田のお屋敷」とあるものだと思いますが、藩主が登城の支度をする場所として、また、琉球使節が江戸城に入る際に、薩摩藩が琉球との交流を担当していた関係で、この屋敷を利用したので、「装束屋敷」とも呼ばれたとのことです。

明治16年、この中屋敷跡地に鹿鳴館が落成、欧化主義政策による華やかな外交の場となりました。
正月ドラマで、三島由紀夫原作「鹿鳴館」をテレビドラマ化してましたが、黒木瞳さんは綺麗だったしキャストは結構ツボを得ていたと思いますが、下手に社会派ふうな味付けにしたのが、やや興をそいでいた感もあったかなぁ。舞台を映像化するほうが、その逆よりも自由がきくような感じがしますが、案外難しいものかも・・・
現在、地下鉄「内幸町」駅の出口を出たところの、みずほ銀行本店のビルのあるところで、向いは日比谷公園、帝国ホテルや霞ヶ関の官庁街もすぐそばです。江戸時代と同様、日本の政治経済の中心となっている地域ですが、どうも写真にするとぱっとしません。

上屋敷と蔵屋敷

江戸中心部の藩邸が地味だったのに対して、薩摩藩邸として名高い大規模な江戸屋敷があったのが、三田の上屋敷藩邸です。篤姫も江戸入りしてから輿入れまでの期間をここで過ごしました。
地下鉄都営三田線の三田駅と芝公園駅の中間、このへんは慶応義塾大学ゾーンでもありますが、「芝・さつまの道」というパネルが作られており、当時の地図などが貼られています。
「江戸東京散歩」芝三田二本榎高輪辺絵図では、増上寺の南側の広大な区画に、しっかり「丸に十字」の紋が描かれていますが、「薩摩」の文字はなく、「松平修理大夫」というオフィシャルネーム(?)が入っています。上屋敷だから?
西側のお隣さんは松平阿波守の下屋敷ですが、そのまた隣、どこかで見た名前と思ったら、「月と狸」で本所の中屋敷が火事になった「内藤山城守」じゃありませんか。内藤さんもここが上屋敷だったんですね、下り藤の紋が描かれています。
この薩摩藩邸は、慶応三年暮、幕府方によって焼き討ちをかけられ、それが戊辰戦争の引き金となったことで有名です。

上屋敷のすぐそば、海側には、蔵屋敷がありました。国許から船で運ばれる物資を荷上げし、蔵に保管していたところです。
この蔵屋敷跡に、勝海舟と西郷隆盛との膝詰めの話し合いによって江戸無血開城が実現したことを記念する、絵入りの記念碑が立っています。大河ドラマでも、この談判と、それに天璋院がどう関わったのかというところが最大の見せ場の一つになるでしょう。

 

●下屋敷

金杉橋から品川までは海沿いの道であった。
何故、ここから東吾が馬に乗ったかを、二人の子供はすぐに気づいた。
「海が見えるだろう。むこうに停っている船は大きいな」 (『かくれんぼ』より)

残るもう一つは、芝高輪の下屋敷、一駅ぶん南に行ったJR品川駅前の、現在、ホテルパシフィックメリディアン東京および高輪プリンスの各ホテル群のある、これも広大な下屋敷でした。
かわせみにたびたび出てくる御殿山も近くです。
JR品川駅も含め、現在の第一京浜国道の外側は、当時は全部海だったのですね。

薩摩ゾーンであった当時を偲ぶためか、品川駅構内には「薩摩屋敷」という居酒屋兼定食屋があります。
この経営元である株式会社常盤軒というのは、大正12年の創業以来「手作りの味」をモットーに頑張っている食品会社だそうで、今年は大河ドラマもあってかとくに気合が入っているようです。「本格芋焼酎・小松帯刀フェア」も開催中らしい。社長さんが小松さんというそうですが、ひょっとして子孫?


東禅寺

下屋敷跡のすぐ近くに、東禅寺というお寺があります。幕末にイギリス公使館が置かれたところで、文久元年と二年に、浪士たちによる外国人襲撃事件がありました。
門の前に公使館跡の石碑がありますが、事件に関する説明などは見当たりませんでした。

   


生麦事件跡

文久二年(1862)、江戸から京都に向かう薩摩藩の大名行列にぶつかった4人のイギリス人を供の藩士たちが殺傷、薩英戦争の原因となった生麦事件。
この時の行列の殿様は、斉彬没後、藩政を握るようになった弟の島津久光(藩主は久光の息子)でした。テレビでは山口祐一郎さんですが、今のところまだ本当の性格を表に出していないような謎キャラになっており、今後が楽しみです。
生麦というのは、川崎と横浜の間で、横浜市鶴見区(あの「鶴見のよねまんじゅう」の鶴見です)、京急線に生麦という駅があります。
現場には事件の碑と祠があり、隣はキリンビールの工場(麦つながり?)です。

   


西郷山公園

「目黒川の蛍」に出てきた目黒不動から、目黒川をずっと渋谷のほうにさかのぼった小高い場所に、西郷山公園があります。

西郷隆盛の弟従道が、隆盛のためにここに土地を購入しましたが、結局隆盛は帰京することなく西南戦争で自刃したため、従道が別邸として使用しました。
現在旧邸宅の建物は、愛知県犬山市の明治村に移転しましたが、東京で富士山の見える場所の一つとして、また桜や新緑を手軽に楽しめる場所として、近隣の人々の憩いの場となっています。訪れた時は目をこらすと冬晴れの空にかすかに富士が見えたのですが、残念ながら写真には写りませんでした・・・
園内の木々は、鹿児島から運ばれて植えられたものが多く、桜島が噴火した時?の溶岩もあります。

   

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