現場検証 番外編
薩摩江戸藩邸跡を歩く
大河ドラマ「天璋院篤姫」のおかげで、今年は薩摩ブームになりそうですね。早くも、いろいろな展示やツアーの広告が目をひきます。 「御宿かわせみ」は江戸の庶民と幕臣の物語ですから、当然、薩摩に対しては敵対モードにあるわけで、冒頭に引用した「かくれんぼ」の東吾さんと源さんの会話でも、その雰囲気はよくあらわれていますね。藩名こそ出してないけど(といっても、「丸に十字」だとか、引用した所の前では「薩摩なまり」なんてハッキリ書いてあって、今更って感じですけど:笑) 江戸幕府vs薩摩の敵対関係は、幕末に始まったものではなく、はるかに歴史をさかのぼるものです。もっとも、由緒正しきお家柄という点では、成り上がり(秀吉ほどではないにしても)の元名古屋人徳川一族なんかより、地元密着元守護大名の家系である島津家のほうが、ず〜っと格上なんですよね。 |
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中国の大内や東海の今川、甲斐の武田のような多くの名家は、織田信長天下統一の前に滅んでしまいましたし、家康が天下を取ってからは、上杉も伊達も所領を減らされたり、国替えを余儀なくされたりしたのですが、この島津家だけは、縮小されたとはいうものの、戦国以来いや鎌倉以来の伝統と団結をもってこの薩摩の地に君臨しており、徳川家にとっては非常に不気味な存在だったわけです。 なんたって江戸から遠い遠い土地ですし、もし無理やり国替えさせたとしても、その後を誰に任せるか?という問題もあったんでしょうが、表だって薩摩をいじることはしないでおく代わりに、江戸幕府はたびたび隠密を送って薩摩の動静を探り、薩摩側も全力をあげてこれを抹殺していたといわれます。大仏次郎の小説にもなった「薩摩飛脚」〜〜生きては戻れぬ薩摩飛脚〜〜なんかオドロオドロしい世界だったんですね。 こうした緊張関係の歴史を持つ徳川家と島津家ですが、それにも関わらず、というか、それゆえに、かもしれませんが、両家の縁組というのは、実は篤姫よりももっと前から、けっこうあったのです。 |
JR品川駅前の歩道橋から。このパシフィック東京のある所が当時の薩摩下屋敷だった。 |
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よく知られているのは、五代将軍綱吉の養女竹姫、もっともこの人は徳川の血筋ではなく京の公家清閑寺家の姫(実父の清閑寺さんって忠臣蔵松の廊下の時の「勅使」だったんだって〜びっくり)ですが、この人が薩摩藩主島津継豊さんにお嫁にいきました。この竹姫さんは、男運が悪いというか、婚約者が次々と亡くなってしまったあげく島津家へ後妻に入ったという事だったらしいですが・・・ドラマなんかでは、よく八代将軍吉宗との悲恋のヒロインとして描かれていて、今年の正月ドラマでは、田中美里さんがやってましたね。 今後の大河ドラマでは、いつ頃篤姫が江戸城大奥入りするのか注目されますが、大奥に登場する人々の中に「美代路」や「春日野」が出て来ないか、つい期待してしまいますね♪ |
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■中屋敷 「江戸東京散歩」麹町永田町外桜田絵図(嘉永三年)を見ると、江戸町奉行で名高い大岡越前守をはじめ、井伊掃部頭(この屋敷から桜田門の外に出た所で暗殺された)、六連銭の真田信濃守、上杉弾正大弼など、諸大名の上屋敷がずらりと並んでおり、それぞれ紋所がついていますが、「薩州殿」だけは中屋敷の■印になっています。 明治16年、この中屋敷跡地に鹿鳴館が落成、欧化主義政策による華やかな外交の場となりました。 |
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上屋敷と蔵屋敷 江戸中心部の藩邸が地味だったのに対して、薩摩藩邸として名高い大規模な江戸屋敷があったのが、三田の上屋敷藩邸です。篤姫も江戸入りしてから輿入れまでの期間をここで過ごしました。 上屋敷のすぐそば、海側には、蔵屋敷がありました。国許から船で運ばれる物資を荷上げし、蔵に保管していたところです。 ●下屋敷
残るもう一つは、芝高輪の下屋敷、一駅ぶん南に行ったJR品川駅前の、現在、ホテルパシフィックメリディアン東京および高輪プリンスの各ホテル群のある、これも広大な下屋敷でした。 薩摩ゾーンであった当時を偲ぶためか、品川駅構内には「薩摩屋敷」という居酒屋兼定食屋があります。 |
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下屋敷跡のすぐ近くに、東禅寺というお寺があります。幕末にイギリス公使館が置かれたところで、文久元年と二年に、浪士たちによる外国人襲撃事件がありました。 |
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文久二年(1862)、江戸から京都に向かう薩摩藩の大名行列にぶつかった4人のイギリス人を供の藩士たちが殺傷、薩英戦争の原因となった生麦事件。 |
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「目黒川の蛍」に出てきた目黒不動から、目黒川をずっと渋谷のほうにさかのぼった小高い場所に、西郷山公園があります。 西郷隆盛の弟従道が、隆盛のためにここに土地を購入しましたが、結局隆盛は帰京することなく西南戦争で自刃したため、従道が別邸として使用しました。 |