現場検証  隅田公園(元・水戸家小梅屋敷)・常泉寺・金杉橋

 ―  残 月  ―

深川佐賀町永代橋の橋ぎわから大川沿いに仙台掘まで横に長く広がっている。
「おきたの生れた家はこの辺りでして」
長助が教えたのは、
南部美濃守の下屋敷に隣接するところで、今は吉野屋という酒問屋の蔵が建っている。


深川佐賀町と永代橋・仙台堀などは、「福の湯」の時にちょこっとご紹介したとおりですが、今の佐賀町には、江戸を偲ばせるものはあまりなく、隅田川の川べりということを除けば、雑居ビルが立ち並ぶごく普通の東京の下町です。

南部家の下屋敷というのも、今の地図でいうと、佐賀一丁目のこのあたりなんだろうなぁと思うばかりで、当時の様子は全くわかりません。
筋向いには、あの「真田太平記」の真田家(信州松代藩)の下屋敷もあったようで、幕末にはここで佐久間象山が砲術の塾を開いていた(江戸東京散歩:人文社)とか、またその隣は、伊東甲子太郎(北辰一刀流伊東道場主、新選組に参加するが後に内紛により油小路の決闘で落命・・・NHK大河ドラマでは、
谷原章介の颯爽ぶりが記憶に新しいですね)の道場があった(江戸散歩東京散歩:成美堂)とかの情報はありますが、南部家については何とも・・・

Wikipediaでちょっと調べてみると、「かわせみ」当時の南部美濃守は、南部利剛(なんぶとしひさ)という文政年間生まれの殿様であろうと思われます。この人は南部盛岡藩の第十四代藩主で、明治29年まで存命しており、正室は水戸徳川斉昭の娘ということなので、徳川慶喜の義理の兄弟にもあたるわけですね。
美濃守利剛は、奥羽越列藩同盟側について官軍と戦って敗れ、藩主の座を退きますが、その後新政府より、長男南部利恭(としゆき)が陸奥白石十三万石に減転封が許され、この人が最後の藩主となります。
版籍奉還後は、南部家当主は代々伯爵の爵位を持ち、日露戦争で戦死した人とか、研究所を作って南部鉄の改良につとめた人とかがいますが、昭和初期に男系が絶え、京都の公家一条家より婿を迎えて、現在はその系統です。
今年の初めに亡くなられた南部利昭さんという方は、電通に勤務後、靖国神社の宮司を務め、李登輝元台湾総統の来日・靖国参拝の仕掛け人でもあったそうです。

ちょうど今、朝日新聞の夕刊で「お殿様はいま」という、全国の大名家の現在の子孫たちを取材した面白い連載をやっているのですが、たぶん南部家も出てくるのではないでしょうか、楽しみです。

 

ところで、おるいさんの従姉が津軽家藩士に嫁いでいて、その娘が本所の津軽藩江戸屋敷にやって来るという話もありましたが、ご存じの方も多いでしょうが、津軽と南部って、同じ現在の青森県でありながら、非常に仲が悪いんだそうですね〜(^^ゞ
津軽弘前藩は維新の戦争では、東北の藩としては珍しく官軍側についたんですよね。
数年前に、浅虫温泉に泊った時、地元のボランティアガイドが案内してくれる早朝散歩というのがあって、とても好かったんですが、その時にも津軽vs南部という話が出て、案内のオバ様に
「やっぱり大きな原因は、維新の戦争で敵味方になった事なんですか?」
と聞いたら
「ううん、敵味方になったから仲悪いんじゃなくて、仲悪いから敵味方になったの。もっとず〜っと前から仲悪いの」
「へぇ〜もともとの原因って、何だったんでしょう」
「う〜ん何だったんだろう? とにかく原因もわかんないくらい、ず〜っと昔から仲悪いの。きゃははは〜」
ということでした(汗)

内田康夫さんの浅見光彦シリーズに、青森県を舞台にした「十三の冥府」という作品がありますが、それによると、津軽人の特徴としては、派手・社交的・積極性・ジョッパリなどがあげられ、文化芸能分野に多くの人材を輩出しているのに対して、南部人の特徴は、地味・無口・非社交的・消極性であり、実務や商業活動に長けているが、あまり世間には目立たないということです。
確かに、津軽というと、ねぶた・ねぷたの祭りを始め、太宰治や
棟方志功(早朝散歩で、志功の画が浴衣になっている彼の定宿だった「椿旅館」も見ました!)、石坂洋次郎、吉幾三の「津軽ゥ〜」な演歌メロディなど、次々とイメージが浮かんできますが、南部というと、鉄器に煎餅、牛追い唄くらいで、ちょっと(かなり?)地味ですね。

そんな南部ですが、もともとの自分たちの拠点から動くことなく、戦国時代や徳川幕府の国替え政策も乗り越えて、明治まで国を持ちこたえた大名というのは、薩摩の島津氏とこの南部氏の両家のみといってよいそうです。これってすごくないですか?
島津はこっそり密貿易をやっていたとか、薩摩飛脚との抗争とか結構知られていますが、南部家って世間にあまり知られることなく(っていうか私が知らないだけかもしれませんが)、牛のごとくに静かに持ちこたえていた・・・というのが素晴らしいです。南部に詳しい方からのご当地情報、南部・南部氏を扱った小説など、ぜひよろしくお願いいたします。

だいぶ話が「残月」とはかけ離れてしまいました・・・南部については、改めて情報を待つとして、次の「現場」へ。

   

本所深川は水路の町で、なまじ陸を行くより猪牙が便利である。
仙台堀から横川へ出て
業平橋の下をくぐってから小梅村で舟を下りた。
見渡す限り田と畑の続くむこうに
常泉寺の屋根がみえる。

・・・・・・・・・・・・・

猪牙は源森川へ入った。
左手は
水戸家下屋敷、その塀が尽きると常泉寺で、川からはみえないが、この前、東吾が長助と訪ねた、五郎三の隠居所は常泉寺のかげになる。
源森川は短い水路で小梅村に突き当ると右折して横川となる。

 


業平橋・横川のあたりは、だいぶ前ですが、「ぼてふり安」の時に訪れた所ですね。

ところで今、墨田区業平といえば、地デジ用電波の新・東京タワーといわれる「東京スカイツリー」が建設中ということで話題になっております。完成予定は平成23年12月、約610メートルの東京新名所になるのだそうで、工事中の様子にカメラを向ける人々も多数見られます。

団子にちなんで名づけられた?言問橋は、「美男の医者」のときにご紹介しましたが、隅田川のこの橋のあたり、台東区側(西側)・墨田区側(東側)共に、隅田公園として緑地帯になっています。これも震災復興の一環として、昭和初年に作られたものだそうです。

この墨田区側の、北十間川と言問橋に挟まれた地域が、もと水戸藩の下屋敷だったところです。

浅草から隅田川を渡った向こう側は、その名も向島と呼ばれ、昔から墨堤、桜の名所として親しまれてきました。
現在も町の名に残る押上村・梅飯が名物の小梅村・紫蘇餅の寺島村などの地名も、かわせみのお話に出てきましたよね。

水戸家の屋敷といえば、上屋敷であった現在の小石川後楽園も有名ですが、小梅の別邸・小梅御殿などと呼ばれたこの下屋敷も、約二万坪という広大なものであったそうです。
西側の一角には、船蔵が置かれ、水戸家所有の船や材木などが保管されていました。
明治維新後、一時新政府の管理下に置かれましたが、その後、改めて水戸家の屋敷となり、明治天皇や昭憲皇太后の訪問もありました。(その時の明治天皇の御製「花くはし櫻もあれと此やとの世々のこゝろを我はとひけり<注>の碑が入口に建っています)。

<注>「花くはし 桜もあれど この宿の 世々の心を 我は問いけり」
「くはし」は、細やかで美しいという意味の古語。「美しい桜のあるこの庭園を楽しんだ私ですが、花よりもなお、この家の人々が昔から変わらず持ち続けて下さった心こそが、私の訪問の目的です」というような意味らしく、「世々の心」とは水戸家の勤皇思想をさすと思われるそうです。

しかし関東大震災によって屋敷の建物はすべて焼失、その後、帝都復興計画によって隅田公園として復旧し、現在は墨田区の管理下にあって、区民はじめ人々の憩いの場となっています。

園内にある牛島神社は、本所地域の総鎮守で、自分の体の悪い部分と同じ場所をなでると病気が治るといわれている「撫牛」で知られています。


久遠山常泉寺は日蓮宗のお寺で、見たところ別にどうってことない普通のお寺に見えますが、調べてびっくり、いろいろと重要なお寺のようです。信徒を対象に「常の泉」という寺報も発行されているとか。
創建は慶長元年で、開基の日是という坊さんは、もともと天台宗の僧だったのが、日蓮宗に改宗した人だそうです。

江戸時代最盛期には、関東各地に36個も講中を持つ大寺院だったとのこと。境内も広かったのが、昭和3年、関東大震災後の首都復旧計画の一環として建設計画された言問通りがちょうどこの場所を通ることになり、政府は代替地を用意して移転を勧めたが、寺側は歴史ある創建の地を離れたくないとして、大幅に土地が縮小されたにもかかわらず、この地にとどまったと言います。

後に日蓮正宗を外護する宗教法人として、創価学会が設立されたことはよく知られていると思いますが、この時、戸田城聖氏の会長就任式が行われた(昭和26年5月3日)会場が、この常泉寺だそうで、これはへぇぇ×10でした。

境内には「日蓮上人お手植の欅」も(写真右)

   

おきたを乗せた舟が金杉橋の袂を出たのは、夜あけ前であった。


お待たせしましたお茶漬けカード(笑)今回は、やや大きさもアップで(^^ゞ
広重の名所江戸百景から、「金杉橋芝浦」です。

金杉橋は、渋谷から麻布を通って流れてくる古川(かわせみの狸穴ものに、時々登場していたと思いますが)の、河口近くにある橋です。
現在は、金杉橋の海側をJRの新幹線・東海道線・山手線などが走り、さらにその外側にも竹芝埠頭が広がって、ゆりかもめが走ったりしていますが、江戸の頃は、金杉橋をくぐれば、すぐに江戸湾の海でした。

金杉橋については、初期の名作「江戸は雪」の中で、芝金杉通りの蕎麦屋、伊勢屋仙八の言葉を覚えていらっしゃる方も多いと思います。
「下をみれば、きりがない、と手前は申しました。永代橋から舟に乗る罪人には、さぞ、金杉橋から乗る者が羨ましかろう。遠島になる人のことを思えば、江戸払いですんだのはまだ運がよかったと思わねばならない。・・・」

「金杉橋から乗る者が羨ましかろう」というのは、永代橋際から遠島舟に乗る者は、一生島から帰って来られない罪人であるのに対し、金杉橋からの者は、いつかは江戸へ帰って来られる者だったからという説明もありましたね。

港区のホームページを見ると、昨年の区報で、「港区橋物語」という連載をやっており、新橋・赤羽橋と並んで、金杉橋も取り上げられていました。
http://www.city.minato.tokyo.jp/koho/2008/km080601/1692hot.html

もっとも、これには流人舟のことは書かれておらず、忠臣蔵の討ち入り後、泉岳寺に向かう途中に赤穂浪士たちが渡ったこと、鬼平が下手人を追って通った(であろう)こと、および「東京で初めてガス灯がともされた場所」(明治7年、京橋との間に設置)であること等が記されています。

写真でもわかるように、高速道路の下になってしまった古川ですが、金杉橋の周辺には、釣り舟らしき小型の屋形舟がずらりと並んでいます。
船着き場はどこだろう?と周囲を探してみても、それらしきものは見当たらず・・・小名木川には、高橋のところに、小さいけれど船着き場がありますけどね〜
コンクリートの護岸によじのぼるような、細いパイプのようなものが定間隔でついているようですが、船頭さんたちは、これで直接舟に乗り降りしているのでしょうか。ここには舟を係留だけしておいて、お客さんは、竹芝埠頭のあたりで乗り降りするのかもしれませんね。

   


八丈島の記録本

さて、この「残月」が今回のお題と聞いた時には、てっきり宗匠、八丈島まで現場検証に行けってか・・・?と思いましたね(笑)

というか、私も是非とも行きたかったんですけど(^O^)、というのは、ストファ図書館で逢坂剛の「重蔵始末」をご紹介したときにちらっと書きましたが、「北方探検の英傑・近藤重蔵とその息子」(久保田暁一・PHP文庫)という本に詳しく書いてあるように、近藤重蔵の息子の冨蔵という人は、隣家との土地争いにからんで殺傷事件を起こし、なんと八丈島へ流刑になってしまうのです。

時代的にも、おきたさんと同じ頃ではないかと思うんですが(島で出会っている可能性も?)、おきたさんと同様、近藤冨蔵も島暮らしにかなりハマってしまったようで、八丈島の文化や風物を詳しく調査し、許されて島から帰ったのちも再び島へ渡るなどして、「日本の民俗学の草分け」と評価されるような大変な詳細な記録をまとめあげたというのですから、さすがに重蔵の息子です。

さらにこの「八丈実記」は、昭和60年代から70年代にかけて、緑地社という東京の出版社が、全7巻の刊行物として出版し、出版社の社長はこの業績により菊池寛賞を受賞しています。
両国の江戸東京博物館の友の会の中にも、古文書購読のテキストとして、この八丈島実記を読んでいるグループがあるようです。

 

※引用は、文春文庫「かくれんぼ 」1997年10月10日第1刷からです

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