現場検証 代々木八幡の金魚祭り/神田日本橋布団の旅

― 代々木野の金魚まつり ―

代々木八幡宮は小高い山一つが社地になっていて、別当寺もその中にある。
宇陀川に架る土橋を渡ると正面に石段と鳥居が見えた。

「明日が金魚まつりってことでして・・・」
この近在で金魚を飼育している者が、明日は境内で金魚市を開くという。


代々木八幡の金魚祭り

5月22日の日曜日、いつもは静かな代々木八幡宮の入り口に、チャイルドシートを取り付けた自転車の群・群・・・
この地域の居住者って高齢者中心だと思っていたけど、小さい子供のいるうちもこんなにいたんだ。

中に入ってみるとさらに、子供も結婚もまだまだと思われる、もっと若い層がうじゃうじゃといて、それぞれ青いビニールシートの上に山と積んだガラクタ?(失礼)の中に座っています。よく見れば、若い人ばかりでなく、オジサン年代の人もちらほら。
これらフリーマーケットの売り手だけでも境内がほぼ占領されているのに、さらにそれを縫って子連れで歩く人の波。渋滞で歩けません。
この八幡宮の中がこんなに混雑しているのを初めて見ました。

代々木の八幡様といえば子供の頃からおなじみですが、例大祭は秋の御彼岸ころだったはず…金魚祭りをやっていたなんて知らなかったなぁと思っていたのですが、平岩先生のエッセイ集第三弾「老いること暮らすこと」の中の「代々木八幡宮の金魚まつり」の文を拝見すると、江戸時代にはなかなか人気のあるお祭りだったのが、その後しばらく開催されなくなり、2003年に社務所の若い方々や氏子の皆さんの尽力によって復活したものだそうです。

かわせみの「金魚まつり」のお話が書かれたのがちょうどその頃ですから、これは、お石ちゃんと小源さんのなれそめ話であると共に、伝統ある金魚祭り復活の記念の作品でもあったんですね。

平岩先生の書かれていることによれば、金魚祭りの由来はよくわからないけれども、もともと代々木野は豊かな湧水に恵まれており、多くの湧水地を利用して鯉や金魚の養殖が行われていたこと、また、これから本格的な暑さの季節を迎える初夏にあたって、疫病の流行などがなく無事に夏を乗り越えるために、魔よけの色と信じられていた赤い色の金魚をテーマとしたお祭りは、人々の気持ちによくなじんだのであろう、ということです。

渋滞の中を、少しずつ奥に進んでいくと、焼きそばやクレープなどの屋台が目白押しに並んで、好い匂いをさせています。
秋の例大祭には、三百軒からの露天商が店開きするそうですが、金魚祭りの屋台は、すべて氏子の皆さんの手作りだとかで、素人っぽいというか、文化祭とか幼稚園バザーのような感じです。
フリーマーケットといい、屋台メニューといい、あんまり江戸情緒が残っているという感じはしませんが、それがむしろ、現代に定着したという証拠かもしれません。
地元の人々の協力で伝統あるお祭りが復活し、若い人々や子供たちで賑わっているのを見るのは、嬉しいことですね。

肝腎の金魚がどこにあるのか、なかなか見つかりませんでしたが、ようやく本堂にたどりつきお参りをすませると、その周囲に、名物の紙細工の金魚提灯を売っているのが見つかりました。
大\1000、小\1500と、小さいほうが高くなっているのは、小さいほうは2個でワンセットになっているからのようです。

紙細工の他に、近頃はやりの蛍光色で暗闇に光るものだとか、いろいろな金魚のおもちゃを売っています。
ボーイスカウトたちは、画用紙で作った金魚釣り遊びコーナーで小さな子供たちを呼び込み。
こじんまりとしていますが、本物の金魚釣りのコーナーも、もちろんありました。

 

宇陀川(宇田川)は、複数の水源と多くの支流を持ち、当時は一面の田畑であったこの地帯を潤しながら、渋谷川に注いでいました。
(渋谷川は、古川とも呼ばれていて、かわせみの狸穴ストーリーにはよく登場、「浅妻船さわぎ」で麻布・広尾あたりの所をご紹介しましたね。)

宇田川は東京オリンピックの時に暗渠化されて、現在は下水道として用いられていますが、渋谷区宇田川町として名前が残っています。
渋谷駅前から公園通りと文化村通りにはさまれた、西武デパートやパルコ、渋谷センター街などのある、若者文化の街です。


童謡「春の小川」のモデルとして知られる河骨(こうほね)川も、
宇田川の支流の一つで、小田急線の代々木八幡駅の近くに、春の小川の歌碑が建てられており、「はるのおがわプレーパーク」という遊び場が作られています。


東吾にとって、剣の師である斎藤弥九郎は三番町に居住しているが、この代々木野にも隠居所と称して別邸をかまえている。

小源がここ数日、泊り込みで仕事に来ている福泉寺はの別当寺で、・・・・・・

別当寺は横のなだらかな坂を上ったあたりにあり、本堂の背後が墓地になっている。
高台だけに見晴らしはよかった。

福泉寺


福泉寺は、以前にご本家「御宿かわせみの世界」7周年企画の「わたしがみつけた『かわせみ』」でもご紹介しましたが、東吾さんの剣の師である斎藤弥九郎先生の墓所が今もある所です。
三角形の石碑に特徴があります。


八幡宮の入り口を入って右手に、福泉寺への入り口があります。

昔はもっと、八幡宮の境内も、福泉寺の敷地も、広々としたものだったのでしょうが、今も墓地から見渡す都庁のタワーを始めとする風景、ビルと電線ばかりになってしまったとはいえ、当時の高台の見晴らしを多少なりとも思い起こさせるものがあります。

代々木八幡のおまけをもう一つ、こちらは八幡宮内の平岩先生のご自宅・・・ではなくて(笑)、石器時代のどなたかさんのご自宅です。

四千五百年ほど前の遺跡だということですが、昭和25年に渋谷区史を作るための発掘調査の折に発見された竪穴式住居跡を復刻したもの。
他にも八幡宮の土地から、いろいろな遺跡が発掘されているそうです。

大川端町から神田の馬喰町までは女の足ではけっこう距離があるが、健脚のお石にはなんということもなく、・・・・・・

通りがかりの人に訊いてみると左へ行けば浜町河岸へ出るという。
日本橋川とは反対の方角だとは思ったものの、なにしろ堀江町を敬遠したい一心でそちらへ歩いた。

正面が中州で、大川のこのあたりは三ツ股といい、月の名所だがお石はそんなことは知らない。

その道は片側が大川から分れて日本橋川へ流れ込む水路で、そのまま行くと行徳河岸へ出て、そこで箱崎橋、湊橋と渡れば南新堀町で大川端町は目の前、少くとも、お石の日頃の行動半径の中である。

お石ちゃんが布団を背負って歩いたコース、「江戸東京散歩・日本橋北内神田両国浜町明細絵図」の江戸と東京を見比べながらたどって見ましょう。

◇馬喰町の藤屋(ここではまだ、布団は背負ってない)⇒弥兵衛町の布団屋

馬喰町は、神田と日本橋の境にある町で、このお話では神田馬喰町となっていますが、現在は中央区日本橋馬喰町です。「女難剣難」に出てきた郡代屋敷の近くですよね。
弥兵衛町という町名は今はありませんが、東日本橋のこのあたり、衣料品を中心とした問屋街で、なんとなくお石ちゃんの訪ねた布団屋さんも、今も商売を続けているのでは?と思ってしまいました。

「ここまで足をのばして本当によかったと、足も軽く表の通りを歩き出してから気がついた。その道をまっすぐ行くと堀江町であった。堀江町には小源の家がある。」
と本編にありますが、たぶん、この「表の通り」というのは、弥兵衛町と富沢町の間の道路で、お石ちゃんはその道を、お城のほうに向かって歩いていたと思います。
すると間もなく水路に突き当たるはずで、この水路の向こう側が堀江町、ここで左折して、水路に沿って大川方面を目指せば、親父橋・思案橋を右手に見ながら日本橋川沿いに出て、まっすぐ大川端まで、とても簡単だった訳ですが、そこで、大荷物をかついでいるのを見られたくないという娘心。
(堀江町が気になるなら、布団屋で気がつけよと思いますが・・・笑)

◇弥兵衛町⇒竃河岸⇒浜町河岸

そこで、堀江町を敬遠するために、水路に出る大分前に左折してしまいます。まぁいずれは左折して、大川のほうに向かう訳ですから、これは別に遠回りではなく、いくつも考えられるルートの一つというだけですが・・・ところが、この道もまた、水路に突き当たります。細い水路で、堀江町の親父橋などのある水路とは直角になる水路ですが、この水路の河岸が竃(へっつい)河岸といわれていたようですね。
今でいうと、地下鉄の人形町駅と水天宮の間の、郵便局のあるあたりじゃないかと思いますが、水路があったなどという面影は全くありませんし、説明板なども見当たりません。
ちなみに現在の日本橋名所の一つである水天宮は、当時は三田の有馬家上屋敷にあり、ここにはまだありませんでした。

ともかくもお石ちゃん、本来よりも早く左折したのですから、竃河岸の所で今度は右折して、日本橋川のほうへ行くのが帰り道ですが、そうすると親父橋の近くに出ることになり、ここも棟梁がウロウロしている可能性があるわけで(笑)
結局、反対側に左折しちゃうんですね。
これで遠回りになってしまいましたが、左折しても、また水路に出ます。これが浜町河岸の水路で、本編にもあるように、これまでの町屋と違って、牧野家・水野家・細川家などの大名屋敷が並んでいます。

浜町河岸のあった水路も現在はありませんが、もう少し隅田川寄りの所に「浜町公園」という緑地帯が作られており、隣接の中央区立総合運動場と共に、校庭スペースに恵まれない近隣の学校の運動会などの場を提供しています。
我々の世代には、浜町河岸といえば、「浮いた浮いたと浜町河岸に浮かれ柳の恥ずかしさ」という「明治一代女」の歌詞が浮かんできますが・・・
◇浜町河岸⇒川口橋⇒中州・三ツ股⇒永久橋

浜町河岸の突き当たり、隅田川に水路が流れ込む所が川口橋ですが、現在はここから深川へ、隅田川を渡る清州橋(写真右)が架けられています。橋の名は、後述の日本橋中州と、対岸の清澄町から一文字ずつ取って名付けられました。
清州橋は関東大震災後の復興計画の一環で作られたもので、当時は新大橋から永代橋まで、橋は無かったのです。

川口橋のたもとにあったのが、堀田備中守の上屋敷です。「百千鳥の琴」をお買い上げになった老中と思われる下総佐倉藩主ですが、末期の幕閣を支えると共に、佐藤泰然を招いて順天堂を開かせるなどの功績のあった殿様ですね。

現在「中州」というと、九州博多の繁華街「中州」が全国的にイメージされると思いますが、お江戸日本橋にも「中州」があり、現在も「東京都中央区日本橋中州」という町名が残っています。
江戸のほうはもともとは「なかず」と呼ばれていたようですが、今はこちらも濁らない「なかす」になったようです。

そもそも中洲の意味は、「川の中に土砂が溜まって島のようになっている場所」で、川の蛇行により、三角形の島のようなものが出来たもの。
隅田川河口の近くに出来たこの中州の先端が箱崎と名付けられ、近くに幕府の御船蔵もあり江戸防備の必要があったため、一般の町屋を作らせず、田安・土井・久世など、徳川の姻戚・譜代の大名の中屋敷が置かれていました。

また、品川から入る潮水と隅田川の淡水の境界となるため、「わかれの淵」とも呼ばれ、川が三方に(隅田川・浜町河岸の水路・永久橋や箱崎橋の水路)分かれることになるため、「三ツ股」と呼ばれていました。
絵図の川口橋の所にも、「中州」「三ツマタ」の記載がみられます。

月見の名所として舟遊びで賑わい、安永の頃は料亭などが立ち並ぶ歓楽街が出来ていましたが、寛政の改革により歓楽街は取り壊され、葦の茂る三角洲へと戻りました。

◇永久橋⇒行徳河岸⇒箱崎橋⇒湊橋⇒豊海橋⇒大川端

永久橋の手前で思いがけない危難に合ったお石ちゃんですが、釣りマニアの越前屋のご隠居のおかげで被害もなく、布団も無事に「かわせみ」に帰ってくることが出来ました。

まぁ布団が危難に合った原因であったか(千春説)、危難を救った原因であったか(お石説)、というよりは、そもそも小源の存在がすべての元だったんじゃないかと思いますがね(^^ゞ

この最後のルートはたぶん、越前屋さんがお石ちゃんを舟に乗せて一緒に帰ってきたものと思われますが、歩いてもずっと水路に沿ったコースですね。いかに江戸が水路の街だったか、このお話でも改めてわかった気がします。

行徳塩田の塩を江戸に運んでいた「行徳船」の船着場であった行徳河岸、嘉助さんがよく下総方面からの客を迎えに行っていましたよね。
現在は首都高速となって、永久橋の所が箱崎JCT、箱崎橋の所が入り口・出口になっています。

今の東京都民は、箱崎といえば、高速への乗り降りしか思い浮かばないでしょうが・・・縦横の水路もすっかり埋め立てられ、月の名所の三角州の面影もありませんが、高速道路の下になってしまったとはいえ、日本橋川がまだ残っているのは嬉しいことです。

写真は湊橋(左)と、湊橋から見た豊海橋(右)です。

豊海橋まで来れば、もう「かわせみ」はすぐ目の前。


おまけ:スカイツリーを予測?!していた絵師

今回のお茶漬けカードはもちろん、広重の名所江戸百景より、「みつまたわかれの淵」です。
描かれたのは安政年間と考えられているそうで、先に述べたように、寛政の改革で葦の茂る中州に戻ってから久しい状態が写し出されています。

実は広重と同年の奇才、国芳も「東都三ツ股の図」を描いていました。
国芳は、いろいろな趣向を凝らした絵を描き、また大変な猫好きでもあったということを、「猫絵師勝太郎」でもご紹介しましたが、武者絵・滑稽絵などに比べると、国芳の風景画というのは、それほど有名ではないようです。
ところが、最近たいへんな話題になっているのが、この絵なのです。

国芳がこの絵を描いたのは、広重よりもかなり早く、天保初期と考えられているそうですが、同じ場所を描いても広重とはかなり違った画風ですね。
そして、大きな特徴というか、謎となっているのが、左手に見える2つの塔のようなものは何か?ということです。

歌川広重 「みつまたわかれの淵」  

歌川国芳 「東都三ツ股の図」  

国芳の三ツ股の絵では、右に見えるのが隅田川に架かる永代橋、謎の2つの塔の左に小さく見えるのが小名木川に架かる万年橋と考えられていますが、万年橋でなく、その南の仙台堀に架かる橋だという説もあるそうです。
いずれにしても、日本橋側から見て隅田川の対岸にそびえている、この背高のっぽのタワーは何だ? まさか国芳は21世紀のスカイツリー建設を予知していたのでは? と、おおいに話題を呼んでいるとか。

もっとも通説では、左が火の見櫓、右のさらに高いのは井戸掘り櫓、と言われているそうで、当時実際に作られていた櫓に比べると高すぎるということはありますが、印象の強いものが実際の大きさを無視して描かれるというのは国芳に限らず、この時代の作品によく見られることで、特に不思議なことではないのかもしれません。

でも、西洋画の手法を大胆に取り入れたり(というか、外国の画集に描かれているものを、そのままパクって自分の絵の一部に描いちゃったり)、さまざまな奇抜な趣向の作品を多数残した国芳のこと、百数十年後のこの土地にスカイツリーのある光景を思い描いていた?などと想像するのも、なんだか楽しいですね。
もしかしたら、国芳は一度タイムワープして、しばらく平成の東京で暮らしたことがあったのではないか・・・なんて、(ドラマ「JIN」の見過ぎか??)妄想してしまったり。

※引用は、文春文庫「十三歳の仲人」2007年4月10日第1刷からです

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