現場検証 「吉原」 ― 八朔の雪 ―


「吉原」はご存知のとおり、江戸時代の「幕府公認遊郭」のあった場所です。
もともとは江戸の中心部、日本橋に作られたのですが、「かわせみ」に出てくる吉原は、その後移転した「新吉原」にあたります。

たまたま今読みかけの「真田太平記」第4巻に、家康が江戸の都市づくりをする所があるのですが、もともと家康の拠点は、関東ではなく、三河を中心とする東海地方でした。
ところが天下を取った秀吉は、家康からその拠点を取り上げ、山内一豊ら古い自分の家来に分け与えて東海道の守りとし、家康には未開発の江戸を押し付けます。じっと我慢の子の家康は、ともかく一日も早く江戸の都市機能を整備するために粉骨砕身。男性人口と女性人口が著しいアンバランスをなす未開発地で、労働者たちをリフレッシュさせ、効率的に働かせるために、なくてはならなかったのが遊郭だったのです。
しかし17世紀初頭の江戸は、大田道灌の築いた江戸城はあったものの、荒れ寂れた状態で、遊郭の作られた場所も、ヨシやカヤの生い茂る土地だったことから、最初は「葭」原と呼ばれたのが、その後、縁起のよい「吉」に変えられたとのことです。

ようやく新興開発の大都市として機能し始めた江戸を襲った明暦の大火(1657)。
吉原もこれで大被害を受けたため、浅草寺裏手にあたる浅草千束村に移転しましたが、ここでさらに発展して、歓楽街・不夜城としての吉原の名を、全国に馳せるようになりました。
地方からお江戸にやってくる浅黄裏侍や商人たちが、「吉原」にいかほどの憧れを抱いていたかは、いろいろな時代小説に描かれていますね。

吉原に繰り出すにあたり、東吾さんたちは猪牙で大川を上り、今戸の手前で左折して山谷堀に入っていきます。
この山谷堀は、今はもう川はなく、桜並木の遊歩道となっていて、春の墨堤散歩のおまけコース的な存在のようです。

ただ、都民にとって「山谷」という名前は、あまりイメージの良いものではありません。
奥州街道から近く、木賃宿が集まっていたことから、明治以後も簡易宿泊所が多く、その結果、日雇い労働者が集まる いわゆる「ドヤ街」としての「山谷地区」が長く存在しました。日雇い労働者たちの労働条件は劣悪で、暴力団との関わりも多く、犯罪の温床でもありました。
1966年の住居表示変更によって、「山谷」の地名は消滅。この時「吉原」の地名も、地図から消えることになりました。


元山谷堀の遊歩道を700メートルほどたどっていくと、土手通りという、三ノ輪駅に通じる通りに出ます。
ここに、「吉原大門」という信号が(最初の写真です)。
そして、その向かいに、「見返り柳」とその碑があります。
遊郭で遊んだ客が帰る時に、未練を残しながら、この柳の所で振り返ったというのが、名の謂れとか・・・。
もっとも今では、ガソリンスタンドや電信柱に囲まれ、残念ながら風情も何もありません。

この吉原大門の所を左に折れると、いよいよ「なか」に入っていくわけです。新旧の地図を見てみると、四角く囲まれたような街の形は、ほぼそのまま残っているように思われます。
東吾さんたちが揚ったのは京町一丁目の春景楼。
「吉原」も「京町」も、町名はもうありませんが、京町一丁目・京町二丁目のあとがそれぞれ、「京一通り」「京二通り」と呼ばれているようです。

現在の住居表示は「台東区千束4丁目」。
昔の吉原がなくなった後も、歓楽街としての名残は今も続いている地域ですが、新宿歌舞伎町のように、いかにも〜なムードは感じられず、見た目はかなり地味といっていいでしょう。○○街というような看板やゲートのようなものもありません。もっとも、夜来てみれば違うのかもしれませんが・・・

ラーメン屋さんとか喫茶店など、普通の商店街っぽく始まっていた通りが、いつのまにか、ちょっとそれっぽいものになっています。前回の「らかん湯」とは明らかに違う種類のお風呂屋さんとか(笑)
なんとなく入り口にたむろっているおにいさんやおねえさんがいるので、写真もとりにくい・・・
コンビニやドトール・マクドナルドなど、普通の街中だったら、ちょっと行けばすぐに現れそうなものがあまり目につかないのも特徴です。

新宿や渋谷に比べると、ホテルは少なく、小さな和風旅館が多いです。上の写真では読めないと思いますが、(新)柳・日光荘などは、昔の色街時代の屋号のままだそうです。
そういえば、旅館には宿泊の他に「ご休憩」という機能もあることを知り、「休憩なら、わざわざ高い料金を払って旅館なんかに行かなくても、喫茶店とか、公園のベンチだって休憩できるのに?」と思っていた子供時代は、何十年前になるのか・・・


吉原大門から入って、ちょうど反対側の出口となる位置に、吉原弁財天があり、吉原の沿革を説明した碑もあります。

ここは、「花園通り」と「せんわ通り」という2つの通りに囲まれた一角で、せんわ通りをまっすぐ西に向かうと地下鉄の入谷駅ですが、北にいくと、一葉旧居跡・一葉記念館があります。
樋口一葉が吉原に近いこの地(竜泉町)に住んだのはごくわずかな間で、一葉関連の史跡は、生家のある本郷菊坂のほうが多いのですが、「
廻れば大門の見返り柳いと長けれど・・・」というあまりにも有名な一節で始まる「たけくらべ」や「にごりえ」などの名作が、今も一葉と吉原の絆を切っても切れないものにしているようです。


最後に訪れるのは、地下鉄入谷駅から一つ千住寄りになる三ノ輪駅そばの「浄閑寺」。
ここはもう、台東区でなく荒川区になります。
この浄閑寺は、死んだ花魁たちを葬った「投げ込み寺」として知られています。
江戸東京散歩切絵図で見ると、吉原から山谷堀をさらにさかのぼった、川岸の寺であったことがわかります。花魁たちの遺体も舟で運ばれていったのでしょうか・・・。

幕府瓦解後、明治政府は人身売買禁止令を出し、廃娼運動も行われましたが、吉原はずっと、実質的には江戸時代とあまり変わらない遊郭として栄え続けました。
吉原を廃止に追い込んだのは結局、文明開化ではなく、世界を相手に回しての大戦における日本の敗北でした。
GHQの指令により、350年に近い吉原の歴史に終止符が打たれることになりましたが、終戦直後のGHQの廃止令から、昭和33年の売春防止法施行までは、昔の遊郭ではないものの、やはり、「赤線地帯」と呼ばれる、特殊風俗地域であったことは、知られるとおりです。

男女平等・人権主義の視点からすれば、吉原は、日本史の中の恥ずべき部分なのかもしれません。
しかしながら、江戸時代、社会全体を拘束していた封建的身分制度の中で、遊郭においてのみ、侍も町人もなく、「粋」という価値観を貫くコミュニケーションが行われていたことは興味深いと思います。
吉原もまた、江戸文化の重要な一部分であることは確かではないでしょうか。

Back