現場検証 「浦島寺」「飯綱権現」

 ― 浦島の妙薬 ―


・・・ふと思いついて「実は今日、軍艦操練所にて子安村の近くに浦島寺と申すものがあるという話を致した所、それは観福寿寺のことではないかと申す者がいたのだが・・・」
と訊いてみた。太郎兵衛は満面に笑みを浮べた。
「おっしゃる通りでございます。
観福寿寺、私どもでは通称、浦島寺とか浦島観音堂と呼んで居りますが・・・」

・・・・・・・・・・・・・・・

「むこうのお寺が浦島寺でございます」
それは山と呼ぶには、たいした高さではないが、みるからに急峻であった。
田の間の小道の突き当りに石段があり、それを上るとまた石段になる。三つ目の石段は長くて百段近くもあった。
やや広い所に出ると右手に藁葺屋根の方丈がみえ、それが
観福寿寺であった。

浦島寺は二つある

東吾さんも解説しているように、浦島太郎ゆかりの土地というのは、日本全国いろいろな所にあるようですね。
「江戸名所図会」の中にも「水江浦島子」の話として、かなり長く紹介されていますが、「日本紀・雄略記に曰く・・・」というのですから、ものすごく古い伝説です。

もっとも、絵本でよく見る物語のように、浦島太郎が子供たちにいじめられている亀を助け、そのお礼に竜宮城に連れていってもらう、というのと違って、まず浦島太郎の父親というのが出てきて(!)、このお父さんが浦島太夫、その子供が太郎なんだそうです。
で、父親の浦島太夫は、もともと相州三浦の住人だったそうですが、転勤で丹波国に暮らすことになり、そこで太郎がある日、小舟で海に出て釣りをしていると、亀を釣り上げる。しかし心優しい太郎はその亀を海中に放してやる。
と、亀は美女の姿になって戻り、お礼に太郎を竜宮城に案内・・・(「『助けた亀』に連れられて・・・」という童謡は、合っているわけだ)、その後の話は、玉手箱なども含め、現在伝わる話とほぼ同じらしいですが、「浦島親子」というのと「亀イコール乙姫」というのがちょっと面白いですね。
また、淳和天皇(第53代、786−840)の第四の妃は、浦島太郎九世の子孫という話もあるそうです。観福寿寺は淳和天皇の勅願により開かれたそうなので、そういう言い伝えも出来たのかもしれません。

そして、浦島太郎が竜宮城から玉手箱と共に持ち帰ったとされる、浦島観世音が本尊として祀られていたのが、「浦島の妙薬」の舞台となっている「観福寿寺」なのですが、このお寺は、慶応四年、明治維新の直前に火事で焼けてしまいました。
幸い、ご本尊や浦島関係の資料は焼け残り、1キロほど西南に行ったところの、観福寿寺と所縁のあった慶運寺に、浦島親子の墓と共に移されたので、現在では、ここが「浦島寺」と言われています。
ご本家7周年企画「私が見つけたかわせみ」で紹介されているのもここです(「浦島寺」と書いてある板が新しくなっていました♪)。
ご本尊は公開されていないので、説明板に貼ってあった写真を写してきました→


成仏寺(外国宣教師宿舎跡)

ちなみに、この慶運寺、幕末には、フランス領事館としての役割も果たしていました。

このあたり、アメリカ領事館・イギリス領事館・ヘボンも居住していた宣教師宿舎跡などがずらりと並んでいます。

アメリカ領事館だった本覚寺は、「本覚寺が出している黒薬」と、最後のほうにチラっと登場していますが、黒薬というのはあらゆる病気に効くとされる万能薬で、本覚寺の住職が地蔵菩薩のお告げにより作ったといわれ、東海道を往来する人の多くが求める神奈川宿の名物であったそうです。(本覚寺寺史より)


浄滝寺(イギリス領事館跡)


本覚寺(アメリカ領事館跡)


オランダ領事館跡は公園

 
慶運寺の、浦島親子の墓などです(→)

しかし、「浦島の妙薬」で、東吾さんたちが訪れたのは、ここではなかったわけですね。

慶運寺は、京急神奈川駅と仲木戸駅の中間あたりの線路沿い、JRの線路もすぐ脇を走っており、本文の観福寿寺の説明に書かれているような「急峻」の様子は全くありません。まぁお寺に行くたびにそんな階段を上らなきゃならないとしたら、領事館などにも不向きでしょうが・・・
東吾さんたちが訪れたのがここだと思って来てみた人は、「変だなぁ、寺の様子はともかく、地形までそんなに変わっちゃったのかなぁ」と不思議に思ったでしょうね。

焼けた観福寿寺のほうは、その後どうなったのかというと、観福寿寺として再建されることはなかったようです(だから、浦島関係資料が慶運寺に来たまんまになったわけですが)。
大正末期になってようやく、宗旨も異なる(日蓮宗)、蓮法寺というお寺がここに建てられました。
本文にあるような「およそ二百段も・・・」というほどの数ではありませんが、お寺の入り口の石段は、多少、当時を偲ばせるものがあります。

この蓮法寺の裏手をさらに上ったところが町立公園(↓)になっており、なかなかの見晴らしなので、灯明台のあった所はたぶんここであったろうと思います。
「枝ぶりの立派な松」は、「江戸名所図会」にも「竜灯の松」として紹介されているものだと思いますが、残念ながら、大正時代に枯死してしまったとのこと。


蓮法寺裏手の七島町公園から


蓮法寺境内にも浦島ゆかりの石碑が

ちなみにこのあたり、JRと京急の線路をはさんで、海側は「浦島町」、反対側は「浦島丘」という町名になっており、浦島小学校・浦島丘中学・浦島公園・浦島公民館と、浦島てんこ盛りなのが楽しいです。

 

「昨日から子安村の近くの実家へ行っていたそうだが、今日の昼すぎ神奈川宿の飯綱権現で具合が悪くなり、あそこは御存じあるまいが山のてっぺんで、神官たちが板戸にのせて、苦労して石段を下までかつぎ下したそうじゃ。 ・・・・・・ 」

飯縄信仰と飯綱権現

江戸名所図会には、「飯綱権現社」の説明として、
「神奈川台町、海道の右の山上にあり。本覚寺より一町ばかり南なり。」
「飯綱権現、本地仏は不動明王、行基大士の作にして、座像一尺七、八寸、垂迹は大山祇命といふ。相伝ふ、右大将頼朝卿、この尊像を深く崇敬なしたまひ、治承四年(注1)八月、伊豆国石橋山敗軍の後、安房国へ渡海のとき、本尊の霊示によりて、風浪の難を逃れたまひ、その後、つひに天下一統なしたまひしかば、文治年間(注2)、この地に宮社造営ありて、神領等を寄せられたりしとなり。遥かの後、太田道灌この地にありて、もっとも尊信厚かりしといふ。」 (注1)1180   (注2)1185−90
とあります。
台町の名は今も、横浜市神奈川区台町として残っています。JR横浜駅すぐ近く、予備校や塾が軒を並べている区域です。

現在この神社は、大綱金刀比羅神社と名が変わっています。神奈川湊の船乗りたちが航海の安全を祈願するため、琴平社が合祀され、そちらのほうがメインになってしまったという感じです。
もともとの神社の位置は、現在の境内後方の山上にあったということなので、今残っている石段は、昔のごく一部のようですが、お堂の後ろに見える切り立った崖には、昔を偲ばせるものがあります。
崖の上も下も、すっかり宅地化されてしまっていますが、急な坂道や階段が多く、実際に歩いてみると、地図だけで平面的に見ているのとかなり印象が違います。

 

「飯綱(いづな)」は、検索してみると、「飯縄」と書かれるほうが多いように思われますが、もともとは信濃国の飯縄山に対する山岳信仰で、飯縄大権現というのは、不動明王・迦楼羅(カルラ)天・荼枳尼(ダキニ)天・歓喜天・弁財天神が合体した神仏習合の姿だそうです。
天狗を随身としており、「飯綱」の文字は見られなくなったこの神社でも、トーテムポールのような天狗の像が立っていました。

おまけ(高尾山の飯縄権現)

天狗・飯縄といえば、東京の西側の住民は「高尾山」を思い出しますね。
高尾山山頂にある薬王院には、カラフルで立派な飯綱大権現の社があり、天狗の像もおなじみです。
この飯綱大権現へ登るところが、男坂・女坂の二手に分かれていて、男坂が下に見られる百八段の石段になっています。

「かわせみ」とは全く関係ないのですが、すっかり都会になってしまった横浜の元飯綱権現よりも、高尾山の飯縄権現に、当時の面影が偲ばれるかもしれないと思って、ちょっとご紹介しておきます。

 

※引用は、文春文庫「横浜慕情」2003年4月10日第1刷からです

Back