現場検証 「浦島寺」「飯綱権現」
― 浦島の妙薬 ―
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浦島寺は二つある 東吾さんも解説しているように、浦島太郎ゆかりの土地というのは、日本全国いろいろな所にあるようですね。 もっとも、絵本でよく見る物語のように、浦島太郎が子供たちにいじめられている亀を助け、そのお礼に竜宮城に連れていってもらう、というのと違って、まず浦島太郎の父親というのが出てきて(!)、このお父さんが浦島太夫、その子供が太郎なんだそうです。 そして、浦島太郎が竜宮城から玉手箱と共に持ち帰ったとされる、浦島観世音が本尊として祀られていたのが、「浦島の妙薬」の舞台となっている「観福寿寺」なのですが、このお寺は、慶応四年、明治維新の直前に火事で焼けてしまいました。 |
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ちなみに、この慶運寺、幕末には、フランス領事館としての役割も果たしていました。 このあたり、アメリカ領事館・イギリス領事館・ヘボンも居住していた宣教師宿舎跡などがずらりと並んでいます。 アメリカ領事館だった本覚寺は、「本覚寺が出している黒薬」と、最後のほうにチラっと登場していますが、黒薬というのはあらゆる病気に効くとされる万能薬で、本覚寺の住職が地蔵菩薩のお告げにより作ったといわれ、東海道を往来する人の多くが求める神奈川宿の名物であったそうです。(本覚寺寺史より) |
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慶運寺の、浦島親子の墓などです(→) | |||
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しかし、「浦島の妙薬」で、東吾さんたちが訪れたのは、ここではなかったわけですね。 ![]() 慶運寺は、京急神奈川駅と仲木戸駅の中間あたりの線路沿い、JRの線路もすぐ脇を走っており、本文の観福寿寺の説明に書かれているような「急峻」の様子は全くありません。まぁお寺に行くたびにそんな階段を上らなきゃならないとしたら、領事館などにも不向きでしょうが・・・ 焼けた観福寿寺のほうは、その後どうなったのかというと、観福寿寺として再建されることはなかったようです(だから、浦島関係資料が慶運寺に来たまんまになったわけですが)。 |
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この蓮法寺の裏手をさらに上ったところが町立公園(↓)になっており、なかなかの見晴らしなので、灯明台のあった所はたぶんここであったろうと思います。 「枝ぶりの立派な松」は、「江戸名所図会」にも「竜灯の松」として紹介されているものだと思いますが、残念ながら、大正時代に枯死してしまったとのこと。 |
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ちなみにこのあたり、JRと京急の線路をはさんで、海側は「浦島町」、反対側は「浦島丘」という町名になっており、浦島小学校・浦島丘中学・浦島公園・浦島公民館と、浦島てんこ盛りなのが楽しいです。 | |||
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飯縄信仰と飯綱権現 江戸名所図会には、「飯綱権現社」の説明として、 現在この神社は、大綱金刀比羅神社と名が変わっています。神奈川湊の船乗りたちが航海の安全を祈願するため、琴平社が合祀され、そちらのほうがメインになってしまったという感じです。 |
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「飯綱(いづな)」は、検索してみると、「飯縄」と書かれるほうが多いように思われますが、もともとは信濃国の飯縄山に対する山岳信仰で、飯縄大権現というのは、不動明王・迦楼羅(カルラ)天・荼枳尼(ダキニ)天・歓喜天・弁財天神が合体した神仏習合の姿だそうです。 天狗を随身としており、「飯綱」の文字は見られなくなったこの神社でも、トーテムポールのような天狗の像が立っていました。 おまけ(高尾山の飯縄権現) 天狗・飯縄といえば、東京の西側の住民は「高尾山」を思い出しますね。 「かわせみ」とは全く関係ないのですが、すっかり都会になってしまった横浜の元飯綱権現よりも、高尾山の飯縄権現に、当時の面影が偲ばれるかもしれないと思って、ちょっとご紹介しておきます。 |
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※引用は、文春文庫「横浜慕情」2003年4月10日第1刷からです