現場検証 亀戸天神・梅屋敷跡

― 梅の咲く日 ―


もう何日かで天神祭りという日に、るいとお吉が
亀戸の天満宮へ出かけたのは、深川の長助の孫息子の書初めを見るためであった。

                     ・・・・・・・・・

・・・・・・ 天満宮の境内の梅は、まだ蕾が固そうにみえた。
普通、ここらの梅は立春から二十七、八日目ぐらいが見頃といわれている。
「怪訝しいですねえ、ぼつぼつ咲いてもよさそうなものだのに・・・」

                    ・・・・・・・・・

ここの境内は広くて、およそ二千八百坪、広重が江戸百景に描いた反橋の近くには茶店もあって参詣人が一服している。


亀戸天神と鷽替え

元々、鷽(うそ)という鳥は、害虫を駆除し幸運を招くとされていました。
本編では源太郎と長吉が取り換えっこをした「鷽替え神事」は、毎年1月24日と25日に亀戸天神で行われる、下町の名物行事のひとつです。
今の暦では、よほど早咲きの寒梅でないと無理ですが、江戸の当時は2月のなかば、本編にもあるように、ちょうど梅の蕾がほころび始め、境内にに集まる人々の目を楽しませていたことでしょう。

天満宮の総元締め、太宰府天満宮では、1月7日の夜に鷽替え神事が行われ、「替えましょ、替えましょ」の掛け声のもと、暗闇の中で手にした木彫の鷽をお互いに交換するのだそうです。

これによって、知らず知らずのうちについたすべての嘘を天神さまの誠心に替えると共に、これまでの悪いことを嘘にして、今年の吉に取り替えるという意味があるそうです。


天神前の通りは、車よけも木彫りの鷽の形をしています♪

広重名所江戸百景
「亀戸天神境内」

子供たちの書き初めが展示されたという絵馬堂は今はありませんが、本堂の脇には、たくさんの絵馬がかかっていました。

広重の絵にあるように、亀戸天神は藤も有名で、梅が終わると間もなく、境内にぎっしりと並ぶ藤棚が見事な房をつけ、朝早くからカメラを持った人々が集まります。



亀戸天神の西側を流れる横十間川に沿って、数百メートル北に行った所には、かわせみ物語にも何度か登場する「萩寺」龍眼寺もあり、この辺の土地は花が育つのに適しているようです。

 


名主の
勝田次郎助の家は、天神橋を渡ったところにあった。


亀戸の名主

亀戸と書いて「かめと」ではなく、「かめいど」と読みますが、元々は亀井戸と書いたそうです。
昔の地形が亀に似ていたこと、臥龍梅のあった庭の井戸が「亀ヶ井」と呼ばれていたことなどから地名となったといわれます。

実はこの亀戸地区、東京副都心の一つでもあるんですね。
現在、副都心は7か所あります。
昭和33年に「三大副都心」と指定された、池袋・新宿・渋谷に加えて、昭和57年には「上野浅草」「錦糸町亀戸」「大崎」が追加され、平成7年に臨海副都心がさらに追加されて、7か所となりました。
実は副都心ってこんなにたくさんあったとは初めて知りましたが、なぜ「品川大崎副都心」ではなく、大崎だけなのかっていうのが謎です。
もっとも江戸の人々が聞いたら、亀戸はともかく、上野・浅草が、「狐の出る」池袋村の後塵を拝しているなんて信じられなかったことでしょう。

天神橋のたもとに住む名主の勝田次郎助さんですが、同じ「雨月」収録の「春の鬼」にも出てきますね。
亀戸天神の隣にある普門院というお寺は勝田家の墓所で、「勝田」の名の墓石があっちこっちにあります。
また、歌人で「野菊の墓」の作者、伊藤左千夫の墓もあります。


「ひょっとすると
梅屋敷の梅が咲きはじめているかも知れませんね」

                  ・・・・・・・・・

天神橋のほうへは行かず、亀戸町を抜け、天満宮の裏塀沿いに行くと梅屋敷であった。
八代将軍吉宗が秘蔵の梅をここにあずけたというのが、名物の臥竜梅で、たしかに古木が庭に這うような形で、竜がうずくまっているのによく似ている。


梅屋敷

この素晴らしい構図の梅の絵は、広重の作品の中でも有名なもので、ゴッホがこの絵に刺激を受け、油絵で模写したことも知られています。

広重名所江戸百景「亀戸梅屋舗」

元々この土地は、本所の伊勢屋彦右衛門という商人の別荘で、庭に多くの梅が植えられていましたが、本編の説明に出てくる喜右衛門(彦右衛門の何代か後)が、本格的に梅栽培を始めたということです。

八代将軍吉宗が預けた秘蔵の梅と言われる臥竜梅は、木の丈はそれほど高くないが、枝が四方に張り出してあたかも竜が臥すに似た形として、水戸光圀が命名したそうです。

しかし残念ながら、明治43年の洪水により、梅屋敷の梅は大きな打撃を受けて、臥龍梅も枯れてしまいました。

往時の賑わいを偲んで、臥竜梅のあったとされる所に碑が建てられています。

文化年間に、仙台出身の骨董商人、佐原鞠塢(きくう)という人が、向島に梅園を開園し、亀戸の梅屋敷に対して「新梅屋敷」と呼ばれるようになりました。
絵師酒井抱一や狂歌師大田南畝など、文人墨客のサロンとして利用され、抱一により「百花園」と命名されました。これが現在の向島百花園で、こちらは今も四季折々の花で賑わい、向島七福神の一つ(福禄寿)としても知られています。
 


五ツ目通りというのは、ちょうど天満宮の裏手、南西の方角に当り、道の両側は小梅村、柳島村と百姓地であった。
地蔵堂は間口四尺五寸、奥行が四尺ばかりの小さなもので、その中に五尺ほどの高さの石の地蔵尊が鎮座している。

「この先に、もう一つ、地蔵堂がございますが・・・」
深川の
大島橋の傍だと長助にいわれて、東吾が思い出した。
「そういえば、いつか、一緒に歩いた
横十間川沿いの」
徳兵衛が昔、働いていた料理屋は深川
猿江町と聞いた。


地蔵堂ランニングコース

かわせみ当時の五ツ目通りは、亀戸天神前の通りと堅川とを結ぶ短い道ですが、現在では、首都環状5号線にあたる幅広い明治通りの一部になり、両側を探しながら歩いてみましたが、地蔵堂などのある余地は、残念ながらなさそうです。

JR・東武の亀戸駅があるのも、この五ツ目通りで、当時の小梅村と柳島村の境あたりになるのではないかと思いますが、駅の北側の通り沿いは、「亀戸十三間通り商店街」という江東区最大の商店街になっています。

商店街から亀戸駅を抜けて、南へ向っていくと、堅川にかかる五の橋(五ツ目橋)に出ます。

もっとも、江戸時代には五ツ目橋は無く、五ツ目の渡しで、舟で渡らなければなりませんでした。
横十間川と堅川の交差する所に橋がなかったのを、長助がうっかりしていたという場面がありますが、堅川は、四ツ目橋から東側については、中川に合流するまで橋がなかったようです。明治12年の東京全図にもないですね。

従って、五ツ目通りで「地蔵堂はここのじゃなくて、大島橋のほうだ!」という事になったとき、五ツ目橋があれば、それを渡ってまっすぐに小名木川に向って走っていき、小名木川に突き当たれば右折すればいいのですが、ここに橋がないとなると、夜だしのんびり舟を待ってるわけはないので、ご苦労さんなことに四ツ目橋まで走って橋を渡り、猿江の材木蔵、今の恩賜公園の脇をぐるっと回って来なけりゃならないんですね。えらい遠回りです。
「我先に走って走って走り続けて」とありますが、東吾さんや源さんはともかく、長助親分はかなり息切れしたと思います(ぜ〜ぜ〜)

大島橋(写真右)の位置は、今とちょっとずれており、現在、十文字のクローバー橋(写真左)のある、横十間川と小名木川のクロスする所が、当時の大島橋のあった所です。
今の大島橋は、クローバー橋よりちょっと北側に、釜屋堀通りという通りが横十間川を渡る所にあります。

そして、その大島橋のたもとには、今も地蔵堂が! 「釜屋堀子育て地蔵堂」と名付けられて、お地蔵さんだけでなく、ちゃんと地蔵堂もあります。御堂というよりはちょっと物置ふうに見える(笑)かもしれませんが、しっかりお地蔵さんを雨風から守ってくれているようです。
五ツ目通りの地蔵堂のほうは無くなってしまったようですが、こちらはありました。こういうのが見つかると嬉しいですね〜
五ツ目通りのほうも、御堂はなくなっても、お地蔵さんはひっそりと、どこかのお寺に移されていたりするのではないかと思うのですが・・・

このあたり、昔の鋳物工場があった所なんですね。
寛永期に近江から出てきた、釜屋六右衛門・釜屋七右衛門(通称釜六・釜七)が、鋳物業を手広く行い、明治大正期まで、鍋釜のような日用品から、梵鐘・仏像などまで製造していたということです。


※引用は、文春文庫「雨月」1995年10月10日第1刷からです


Back



<これまでの現場検証リンクに関するお願い>

サーバー移転により「はいくりんぐ」中にこれまで貼っていただいたリンクを
クリックすると、「サーバーに見当たりません」画面になってしまいます。

お手数ですが、「見当たりません」画面の上のURLの、ハイフンからjpまでの部分を、次のように打ち変えていただくか

http://sfurrow-hp.web.infoseek.co.jp/gensan/hring_genba/hring_tezuma/tezuma.html
          ↓
         .warabimochi.net      最初のドットをおわすれなく!
    (ドット・わらびもち・ドット・ネット)

または、ストファのトップページより「現場検証目次」でお探し下さい