現場検証 「所沢・八国山と徳蔵寺」

 ― 野老沢の胆っ玉おっ母あ ―


イラスト: by 紫陽花さん

「うちの田舎の名産は山芋で、むこうでは野老っていいます。少し山へ入るといくらでも採れるんで、それで地名も野老沢ってついたってお寺の坊さんが教えてくれました」
「山芋の他は何も出来ないのか」
「土を掘っても水が出ないので、井戸がないんです。川も少くて、
柳瀬川、上流は久米川っていいますけど、それくらいみたいです。だから、田んぼが出来なくて・・・」


まずは現在の所沢駅前をご覧下さい!(写真左)
お石ちゃんやおっ母さんが見たら、さぞ感涙にむせぶであろう大都会です(^O^)
もっとも駅から10分ほど歩くと、こんな情景もあちこちに見られるので、おっ母さんも安心すると思うけど(写真右)

埼玉県では、さいたま市・川口市に次ぐ第三の都市ですが、なぜかJR所沢駅というのは無く、かなりはずれのほうにJR武蔵野線の東所沢駅があるだけです。
JRに代りここを仕切っているのは西武線で、西武新宿線・西武池袋線のターミナルとして一日九万四千人の乗降客が利用するのがこの所沢駅。
言わずと知れた西武ライオンズ所沢球場を始め、買い物は西武デパートに西友ストア、遊ぶのは西武園遊園地、住宅は西武不動産、乗るのは西武線・西武バス・・・という訳です。

航空発祥の地

西武王国

所沢はまた、日本の航空発祥の地で、明治44年に所沢飛行試験場が開設されてより、国産飛行機の製作やパイロットの訓練が盛んに行われ、数々の飛行記録が作られました。ここで本邦初の公式飛行のパイロットを務めた徳川好敏大尉は水戸系の人で、斉昭の曾孫。彼の大叔父が徳川慶喜という関係になります。
西武新宿線で所沢の一つ先に航空公園という駅があり、さまざまの資料が見られる記念公園となっています。

後述するように、所沢周辺は「太平記」の舞台としても重要な土地です。

お石ちゃんの説明にある柳瀬川は、それほど大きな川ではありませんが、橋の名前が「勢揃橋」「陣場橋」など、いにしえの戦いの地であったことを思わせます。

この柳瀬川が昔は「くめくめ川」と呼ばれていたという説もあるそうで、これが「久米川」の地名の由来になったようですが、現在、柳瀬川の上流に久米川の名はなく、西武線の駅名と、東村山市内の町名に名を残すのみとなっています。

鎌倉時代には、鎌倉と上野国を結ぶ宿駅として、久米川宿は軍事的にも経済的にも重要な役割を果たしていました。

所沢市の公式HPによると、「所沢という地名は古く、実のところその由来はっきりしません」ということですが、やはり「山芋・野老」説が有力のようです。
所沢の名前が文字で見られる資料の中で、一番確実で時代が古いものは、京都の道興准后(どうこうじゅこう)という高僧の記した『廻国雑記』という紀行文だそうです。文明18年(1486)、彼は東国を巡り所沢に立ち寄り、観音寺という寺でもてなしを受けた際に
「野遊のさかなに山のいもそへて ほりもとめたる野老沢かな」
という歌を残した、これが「野老沢」⇒「所沢」となったと説明されることが多いようです。

「野老」の文字が、駐車場と料理屋さんに残っているのを見つけました(嬉)。
でも「野老膳」というのは何と3,800円で、高級料理です! ぜんぜん屋台とか「麦とろ」のイメージじゃありません。もうちょっと気軽な麦とろ定食とかあれば、ぜひ試食したのに・・・
また、残念ながら山芋ではありませんでしたが、地元名産の(?)さといも焼酎を売っている店も見かけました。

 

 


出発は翌日の夜明け前で
野老沢への道は、お石が「かわせみ」へ奉公に来る時、仲間と一緒に歩いて来た甲州街道を行くことになった。府中からいわゆる鎌倉街道を北上する道で、お石が知っているのはその道筋しかない。
なにがなんでも歩いて行くというお吉を、急ぐ旅だからと無理に駕籠に乗せ、東吾はもとより、お石は健脚なので、途中、二度ほど小休みしたものの、午すぎには
府中に着いた。
鎌倉街道はその昔、鎌倉に幕府があった時代に、諸国の武士集団が領地と幕府を往来した道で、諸豪族の抗争の戦もこの道の上でくり広げられている。
江戸になってからは、その軍事上の必要もなくなり、もともと枝道や間道の多かったこともあって主要な街道からはずされたりした結果、宿場や立場も整備されず、旅人も敬遠しがちであった。

府中高札場跡   

甲州街道は前回、青梅街道との分岐点「新宿追分」のあたりをご紹介しましたが、そのずっと西が府中です。
現在、甲州街道は、ほぼその道筋に沿って京王線が走っており、新宿⇒府中は特急で24分ほど。
東京都は東西に細長いので、府中からさらにもっと西の八王子や青梅に行ってもまだ東京ですが、新宿⇒府中の距離を縦に北上すれば、あっという間に埼玉県になっちゃいます。
お石ちゃん一行は、府中で甲州街道をはずれ、鎌倉街道を北上して野老沢に向かうのですよね。
府中の大國魂神社御旅所(祭のときに、本宮から出た神輿を一時的に奉安する場所)の柵内に、「高札場」の跡が残っています。
高札場とは、法度や犯罪人の罪状などを記した板札を交通の多い市場や辻などに掲げて庶民に知らせた場所で、江戸では、日本橋など六箇所の「大高札場」を始め、三十五箇所に高札場が設けられました。
甲州街道と鎌倉街道の交差する府中も、その一つだったわけです。

さて、私も府中で京王線から乗り換えて、お石ちゃんたちのルートをたどろうと思うのですが、府中⇒所沢のほうは、直接行ける路線が無いんですよね。
車ならば、現在の府中街道が、まっすぐ所沢に通じており、昔の鎌倉街道も、ほぼこの道と考えてよいということですが、東京の電車路線は、東西または環状が中心で、南北を結ぶものが少ないというのが前々から通勤族の不満で・・・

今、日本橋や八丁堀あたりから所沢へ行く人は皆、地下鉄で高田馬場まで行って、そこから西武新宿線でまっすぐ所沢へ行くのが普通でしょう(約1時間)。
このルートは当時はなかったんでしょうか? 本文には、甲州街道・青梅街道経由の他、川越街道経由もあったと書いてあり、これは今の東武東上線のようですが、これもまた遠回りって感じです。

ともかく電車で行こうと思うと、府中駅からだいぶ歩いて、北府中駅からまずJR武蔵野線に乗る。
ただし武蔵野線は環状線ですので、途中からぐっと東のほうに曲がってしまいます。なので西国分寺で武蔵野線を降りて、西武線の恋ヶ窪まで歩き、そこから西武国分寺線で東村山駅へ。
同じ西武の新宿線に一駅乗り継いで所沢(めんどくせぇ〜)。
もっとも、お石ちゃんの故郷、八国山や徳蔵寺は、所沢よりもむしろ、東村山駅のほうが近いです。

今回私は、府中〜恋ヶ窪間は歩いてみました。
後述するように、国分寺近辺には昔の鎌倉街道の趣きを残す道もあり、なかなか良かったですが、所沢まで歩き通す元気はもちろんなく、恋ヶ窪からは西武線を利用しました。

いずれにしても、五街道に比べると、鎌倉街道は、作者の説明にもあるように、かなりマイナーだったようです。
お吉さんの駕籠が府中までとあるのも、甲州街道なら街道筋のどこでも客をつかまえられるが、鎌倉街道に入ってしまうと、戻り駕籠に乗る客がなかなか見つからないというような理由もあったのかもしれないですね。

まぁ鎌倉街道を詳しくやり出すと、それだけで連載ものの現場検証になってしまうので、出来るだけ簡単に概要を見てみると・・・
作者の説明のとおり、鎌倉街道は「いざ鎌倉」の時に各地から鎌倉へ馳せ参じるルートで、「上の道・下の道・中の道・京の道・山の道」などのコースがあったようです。
所沢を通るのは「上の道」で、高崎⇒入間⇒所沢⇒東村山⇒小平⇒恋ヶ窪⇒府中を経て、関戸で多摩川を渡り、町田から鎌倉へというコース。
元弘3年(1333年)、新田義貞の鎌倉攻めが、この道筋を大軍を率いて南下したことで知られる道です。

八幡太郎源義家17代目の子孫新田義貞は、千早城での幕府対楠正成の攻防戦の時は、まだ幕府軍に属していましたが、鎌倉幕府の現状を見限り、密かに大塔宮護良親王の倒幕密命書を入手して、病といつわり領地の上野国新田郷へ帰っていました。
そして元弘3年、鎌倉の執権北条高時を攻めるため、生品明神で旗を挙げ、入間川北岸に布陣したのです。

いっぽう鎌倉幕府は、桜田貞国を将として、この鎌倉街道「上の道」を北進、両軍はまず小手指ヶ原で激しく衝突。
(「小手指(こてさし)」は、西武池袋線で、所沢から2つ目の駅です)
しかし勝敗は決せず新田勢は入間川に、幕府方は久米川に退きますが、翌朝の義貞の先制攻撃により、幕府軍は府中の分倍河原まで後退させられます。

この後、また幕府に援軍が来て、新田勢は狭山まで退いたりしますが、結局、旗揚げから半月ほどで、新田義貞は、鎌倉の東勝寺に北条一族を追い詰め、高時を自刃に追い込みました。
(この時伝わったのが、稲村ヶ崎で潮の引くことを念じて剣を投げ入れ、鎌倉に攻め込むことが出来たという伝説です)

旗挙げの時わずか百五十騎であった新田勢が、鎌倉に攻め入った時には、関東八ヶ国の軍勢六十万七千騎を従えていたといわれます。

http://208.fc2web.com/root.html より

府中街道にそって北へしばらく歩くと、右手は府中刑務所の高い壁になります。
東八道路を越えると国分寺市。名のとおり、武蔵国分寺・国分尼寺のあったところで、国指定の史跡公園があります。公園といっても、何もない緑地だけなのがむしろすがすがしい感じです。

史跡公園の近くに、鎌倉街道の昔の面影をとどめた遊歩道があります。

100mほどのごく短い距離ですが、両側に鬱蒼と樹木の茂る切通しの道にたたずむと、江戸時代よりも、もっと昔の時代を想像できるような気がします。

府中街道に沿って、さらに北上すると恋ヶ窪。
このロマンティックな地名は、
武蔵の国府に近い窪地⇒「国府ヶ窪」とか、池に鯉が多くいた⇒「鯉が窪」から転化した、などという説もありますが、やはり昔の悲恋話にちなんだ説が人気です。

 
主人公は源氏の勇将畠山重忠、鵯越えで愛馬をいたわり、かついで下りたという伝説の主ですが、彼の恋人であった宿場の遊女夙妻(あさづま)太夫が、重忠が西国で戦死したとの偽の知らせを重忠の恋敵から聞かされ、悲しみのあまり、近くの姿見の池に身を投げてしまったという言い伝えです。

先の『廻国雑記』の道興准后がここでもまた登場しまして、
「朽ち果てぬ名のみ残れる恋ヶ窪 今はた訪ふもちぎりならずや」という歌を詠んでいるそうです。

 
お石の生れた村はその昔、久米川宿と呼ばれた宿場の近くらしいのだが、そこから眺められる八国山の麓に徳蔵寺という臨済宗の寺がある。
八国山というのは、その山に登ると上野国の赤城山、下野国の日光山、常陸国の筑波山、安房国の鋸山、相模国の雨降山、駿河国の富士山、信濃国の浅間山、その他、甲斐の山々が見えるところから名付けられたそうだとお石は懸命に指を折って数えた。

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お吉を乗せて来た駕籠は府中までだったが、そこから先はお石の話によると、たいして遠くもないらしい。
もっとも、田舎の人のすぐそこというのは当にならないと東吾は用心していたが、やがてなだらかな稜線を曳く山がみえて来て、その山裾を流れる川のほとりに藁葺き屋根の山門を持つ寺があった。
徳蔵寺と刻んだ石碑を東吾が眺め、山門のむこうをのぞいたお吉が
「ここらあたりにしたら、立派なお寺じゃありませんか」


言っときますがお石ちゃん!府中から徳蔵寺は遠いよ!
府中市⇒国分寺市⇒小平市⇒東村山市、そして所沢市(埼玉県)との境まで来るんだから・・・
でも、新
緑と、遠くに見える山の美しさで、お吉さんも疲れをあまり感じなかったのかもしれませんけどね。

八国山緑地は、東京都東村山市と埼玉県所沢市の境にある広い緑地で、「となりのトトロ」の舞台とも言われています。
八国山と聞くとかなり高い山のように感じますが、アップダウンはほとんど無く、「尾根道」と呼ばれている部分も、せいぜい丘か土手くらいの感じです。
しかし鬱蒼と茂った緑は、すぐそばに住宅地や西武遊園地があるとは思えない静けさで、老鶯の声を聞きながら歩く遊歩道は、何度来ても好い所です。
武蔵野のお散歩コースとして有名所の一つで、毎年GWのスリーデーマーチその他のウォーキングイベントもよく行われます。

緑地の東側には、先の元弘の戦いの第二戦の舞台となった「久米川古戦場跡」や、その時に新田義貞が旗を立てた跡と伝えられる「将軍塚」などがあります。

また、緑地の南側に隣接する北山公園は、八国山からの湧き水と、狭山湖から流れる川の水を引き込んで、湿地を造り、花菖蒲や蓮を始めとする多種の湿性植物が観察できたり、米つくりを体験学習できる市民田のある公園です。
カワセミも観察できることがあるそうで、ぜひまた訪れてみたいと思っています。

久米川古戦場跡

北山公園の花菖蒲

 
徳蔵寺橋と名づけられた川っぷちまで、子供を抱いたお石の母親は八歳と十歳だというお石の妹二人を伴って住職と共に見送りに来た。
「お石のおっ母さんは
徳蔵寺の白衣観音の生れ変りかもしれないな」


徳蔵寺という名のお寺は非常に多く、都内にも全国各地にもあるのですが、お石ちゃんの故郷のこのお寺は、臨済宗大徳寺派、福寿山徳蔵寺で、本尊の白衣観音(祭壇が奥のほうにあって、のぞきこんでもよくわからなかったのですが)は、今も地元の人々に愛されています。

このお寺が出来たのは元和の頃で、開山は璧英宗超禅師という人だそうです。

このお寺はまた、重要文化財である「元弘の板碑」を保存する民俗資料館があることでも知られています。
板碑とは、供養塔の一種で、石造りの卒塔婆のようなものだそうですが、先に述べた元弘の戦いで亡くなった武将たちの板碑を始めとする、武蔵野一帯に残されていた板碑が保存されています。

資料館の入り口でウロウロしていると、中から出てきたオジサマ(住職さん?)が、「あ〜いつもは200円頂くんですが、今日は無料でいいですよ〜」と招じ入れてくださいました。わっ何てラッキーなんだ!

資料館には板碑のほか、軍用金として使用されたと思われる古銭なども展示されていました。

徳蔵寺橋もちゃんとありました。
ゴミ集積用の網がちょっと微妙ですが・・・

ということで、今回は、「武州所沢」としてかわせみファンに強くインプットされていたお石ちゃんの故郷、実は東京都東村山市であったらしいとわかったのが収穫かな?
もっとも、埼玉県ばかりじゃなく、今の東京都の大半は、考えてみれば当時の「武州」なんですよね。

お石ちゃんは、あの志村けん氏の、同郷の大先輩だったわけですね。

他にも東村山出身の有名人を探してみると、名子役美少女タレントの美山加恋ちゃん、「嫌われ松子の一生」などで活躍している女優の中谷美紀さん、現在大河ドラマで大久保利通の若き日を演じている原田泰造さんなど、意外とここの出身の芸能人の多いことがわかりました。

※引用は、文春文庫「御宿かわせみ(31)江戸の精霊流し」2006年4月10日第1刷からです

※新田義貞の鎌倉攻めに関する部分は、平岩弓枝「太平記」(講談社少年少女古典文学館14)を参考にしました

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