現場検証 「所沢・八国山と徳蔵寺」
― 野老沢の胆っ玉おっ母あ ―
イラスト: by 紫陽花さん
「うちの田舎の名産は山芋で、むこうでは野老っていいます。少し山へ入るといくらでも採れるんで、それで地名も野老沢ってついたってお寺の坊さんが教えてくれました」 |
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まずは現在の所沢駅前をご覧下さい!(写真左) お石ちゃんやおっ母さんが見たら、さぞ感涙にむせぶであろう大都会です(^O^) もっとも駅から10分ほど歩くと、こんな情景もあちこちに見られるので、おっ母さんも安心すると思うけど(写真右) 埼玉県では、さいたま市・川口市に次ぐ第三の都市ですが、なぜかJR所沢駅というのは無く、かなりはずれのほうにJR武蔵野線の東所沢駅があるだけです。 |
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航空発祥の地 |
西武王国 |
所沢はまた、日本の航空発祥の地で、明治44年に所沢飛行試験場が開設されてより、国産飛行機の製作やパイロットの訓練が盛んに行われ、数々の飛行記録が作られました。ここで本邦初の公式飛行のパイロットを務めた徳川好敏大尉は水戸系の人で、斉昭の曾孫。彼の大叔父が徳川慶喜という関係になります。 西武新宿線で所沢の一つ先に航空公園という駅があり、さまざまの資料が見られる記念公園となっています。 後述するように、所沢周辺は「太平記」の舞台としても重要な土地です。 |
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お石ちゃんの説明にある柳瀬川は、それほど大きな川ではありませんが、橋の名前が「勢揃橋」「陣場橋」など、いにしえの戦いの地であったことを思わせます。 この柳瀬川が昔は「くめくめ川」と呼ばれていたという説もあるそうで、これが「久米川」の地名の由来になったようですが、現在、柳瀬川の上流に久米川の名はなく、西武線の駅名と、東村山市内の町名に名を残すのみとなっています。 |
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鎌倉時代には、鎌倉と上野国を結ぶ宿駅として、久米川宿は軍事的にも経済的にも重要な役割を果たしていました。 所沢市の公式HPによると、「所沢という地名は古く、実のところその由来はっきりしません」ということですが、やはり「山芋・野老」説が有力のようです。 「野老」の文字が、駐車場と料理屋さんに残っているのを見つけました(嬉)。 |
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府中高札場跡 甲州街道は前回、青梅街道との分岐点「新宿追分」のあたりをご紹介しましたが、そのずっと西が府中です。 さて、私も府中で京王線から乗り換えて、お石ちゃんたちのルートをたどろうと思うのですが、府中⇒所沢のほうは、直接行ける路線が無いんですよね。 今、日本橋や八丁堀あたりから所沢へ行く人は皆、地下鉄で高田馬場まで行って、そこから西武新宿線でまっすぐ所沢へ行くのが普通でしょう(約1時間)。 ともかく電車で行こうと思うと、府中駅からだいぶ歩いて、北府中駅からまずJR武蔵野線に乗る。 今回私は、府中〜恋ヶ窪間は歩いてみました。 いずれにしても、五街道に比べると、鎌倉街道は、作者の説明にもあるように、かなりマイナーだったようです。 まぁ鎌倉街道を詳しくやり出すと、それだけで連載ものの現場検証になってしまうので、出来るだけ簡単に概要を見てみると・・・ 八幡太郎源義家17代目の子孫新田義貞は、千早城での幕府対楠正成の攻防戦の時は、まだ幕府軍に属していましたが、鎌倉幕府の現状を見限り、密かに大塔宮護良親王の倒幕密命書を入手して、病といつわり領地の上野国新田郷へ帰っていました。 |
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いっぽう鎌倉幕府は、桜田貞国を将として、この鎌倉街道「上の道」を北進、両軍はまず小手指ヶ原で激しく衝突。 (「小手指(こてさし)」は、西武池袋線で、所沢から2つ目の駅です) しかし勝敗は決せず新田勢は入間川に、幕府方は久米川に退きますが、翌朝の義貞の先制攻撃により、幕府軍は府中の分倍河原まで後退させられます。 この後、また幕府に援軍が来て、新田勢は狭山まで退いたりしますが、結局、旗揚げから半月ほどで、新田義貞は、鎌倉の東勝寺に北条一族を追い詰め、高時を自刃に追い込みました。 旗挙げの時わずか百五十騎であった新田勢が、鎌倉に攻め入った時には、関東八ヶ国の軍勢六十万七千騎を従えていたといわれます。 |
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府中街道にそって北へしばらく歩くと、右手は府中刑務所の高い壁になります。 東八道路を越えると国分寺市。名のとおり、武蔵国分寺・国分尼寺のあったところで、国指定の史跡公園があります。公園といっても、何もない緑地だけなのがむしろすがすがしい感じです。 史跡公園の近くに、鎌倉街道の昔の面影をとどめた遊歩道があります。 |
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100mほどのごく短い距離ですが、両側に鬱蒼と樹木の茂る切通しの道にたたずむと、江戸時代よりも、もっと昔の時代を想像できるような気がします。 府中街道に沿って、さらに北上すると恋ヶ窪。 |
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主人公は源氏の勇将畠山重忠、鵯越えで愛馬をいたわり、かついで下りたという伝説の主ですが、彼の恋人であった宿場の遊女夙妻(あさづま)太夫が、重忠が西国で戦死したとの偽の知らせを重忠の恋敵から聞かされ、悲しみのあまり、近くの姿見の池に身を投げてしまったという言い伝えです。 先の『廻国雑記』の道興准后がここでもまた登場しまして、 |
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お石の生れた村はその昔、久米川宿と呼ばれた宿場の近くらしいのだが、そこから眺められる八国山の麓に徳蔵寺という臨済宗の寺がある。 八国山というのは、その山に登ると上野国の赤城山、下野国の日光山、常陸国の筑波山、安房国の鋸山、相模国の雨降山、駿河国の富士山、信濃国の浅間山、その他、甲斐の山々が見えるところから名付けられたそうだとお石は懸命に指を折って数えた。
お吉を乗せて来た駕籠は府中までだったが、そこから先はお石の話によると、たいして遠くもないらしい。 |
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言っときますがお石ちゃん!府中から徳蔵寺は遠いよ! 府中市⇒国分寺市⇒小平市⇒東村山市、そして所沢市(埼玉県)との境まで来るんだから・・・ でも、新緑と、遠くに見える山の美しさで、お吉さんも疲れをあまり感じなかったのかもしれませんけどね。 八国山緑地は、東京都東村山市と埼玉県所沢市の境にある広い緑地で、「となりのトトロ」の舞台とも言われています。 緑地の東側には、先の元弘の戦いの第二戦の舞台となった「久米川古戦場跡」や、その時に新田義貞が旗を立てた跡と伝えられる「将軍塚」などがあります。 また、緑地の南側に隣接する北山公園は、八国山からの湧き水と、狭山湖から流れる川の水を引き込んで、湿地を造り、花菖蒲や蓮を始めとする多種の湿性植物が観察できたり、米つくりを体験学習できる市民田のある公園です。 |
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久米川古戦場跡 |
北山公園の花菖蒲 |
徳蔵寺橋と名づけられた川っぷちまで、子供を抱いたお石の母親は八歳と十歳だというお石の妹二人を伴って住職と共に見送りに来た。 「お石のおっ母さんは徳蔵寺の白衣観音の生れ変りかもしれないな」
このお寺が出来たのは元和の頃で、開山は璧英宗超禅師という人だそうです。 |
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このお寺はまた、重要文化財である「元弘の板碑」を保存する民俗資料館があることでも知られています。 | |
板碑とは、供養塔の一種で、石造りの卒塔婆のようなものだそうですが、先に述べた元弘の戦いで亡くなった武将たちの板碑を始めとする、武蔵野一帯に残されていた板碑が保存されています。 資料館の入り口でウロウロしていると、中から出てきたオジサマ(住職さん?)が、「あ〜いつもは200円頂くんですが、今日は無料でいいですよ〜」と招じ入れてくださいました。わっ何てラッキーなんだ! |
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資料館には板碑のほか、軍用金として使用されたと思われる古銭なども展示されていました。 徳蔵寺橋もちゃんとありました。 ということで、今回は、「武州所沢」としてかわせみファンに強くインプットされていたお石ちゃんの故郷、実は東京都東村山市であったらしいとわかったのが収穫かな? お石ちゃんは、あの志村けん氏の、同郷の大先輩だったわけですね。 他にも東村山出身の有名人を探してみると、名子役美少女タレントの美山加恋ちゃん、「嫌われ松子の一生」などで活躍している女優の中谷美紀さん、現在大河ドラマで大久保利通の若き日を演じている原田泰造さんなど、意外とここの出身の芸能人の多いことがわかりました。 |
※引用は、文春文庫「御宿かわせみ(31)江戸の精霊流し」2006年4月10日第1刷からです
※新田義貞の鎌倉攻めに関する部分は、平岩弓枝「太平記」(講談社少年少女古典文学館14)を参考にしました