現場検証 両国/谷中寺町
― 手妻師千糸大夫 ―
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広重名所江戸百景 |
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両国広小路・両国橋 広小路とはもともと、幅の広い街路のことで、とくに明暦の大火の後、江戸幕府が類焼を防ぐための火除地として上野や両国に設置してから、全国各地に設けられるようになりました。 両国橋もやはり明暦の大火の時、まだ隅田川の架橋が千住にしか無かったため、多くの死者が出たことがきっかけで、老中酒井忠勝らの提言により建設され、武蔵・下総両国を結ぶ橋として名づけられました。 |
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両国橋は江戸期に3度架け直されていますが、広重の描いたのは、最も新しい天保十年(1839)の3度目の架橋のものです。 源太郎たちは今回、ずっと西岸を歩いたようなので橋は渡らなかったと思いますが、かわせみの人々が目にしていたのも、たぶんこんな風景だったことでしょう。 手前が西岸の両国広小路、本編にも書かれているように、河岸には水茶屋が並び、見世物・軽わざ・芝居・辻講釈などさまざまな遊び場がひしめいて、上野・浅草と並ぶ賑わいを見せている様子が描かれています。対岸の本所側は、まだ緑も多く描かれているのが対照的です。 平成の両国橋風景は・・・ 「鯉魚の仇討」の現場検証で、柳橋から見た両国橋をご紹介しましたが、今回は、両国橋から見た神田川河口と柳橋(←→)です。 ↓は現在の両国橋西岸と、橋から見た隅田川。 橋のたもとの絵は、葛飾北斎の「絵本隅田川」中の、両国橋の部分です。 |
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しかしながら、両国広小路の盛り場のあった両国橋西岸は、現在は靖国通りになってしまい、「広い街路」ではありますが、盛り場という感じではなくなっています。 両国らしい賑わいは、東岸本所側の御竹蔵の跡、国技館・江戸博などのほうに移ってしまったようですね。 町名としても、現在「両国」(墨田区両国1〜4丁目)となっているのは、昔の本所にあたる東岸で、西岸の両国広小路のあった所は中央区東日本橋になります。 |
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国技館のお膝元、さすがに多いのが「ちゃんこ」の店。 平成5年に開館した江戸東京博物館(↓)。 江戸博の裏手にある、亀に乗った徳川家康の銅像は、江戸博開館を記念して、社団法人江戸消防記念会より寄贈されたもの。亀はもともと川の神であったといわれ、「水の都」であった江戸の象徴だそうです。 |
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力士の絵(↑)が飾られているJR両国駅、改札を出ればもう色とりどりの国技館の幟が目を引きます。 が・・・残念ながら、昨今の相撲協会の不祥事、右の写真のような立看板が一番目立っていたり。 |
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国技館の北側にある旧安田庭園は、江戸時代は本庄氏の下屋敷で、もともと隅田川の水を引き入れた大名庭園として造られたものでした。 隣接する安田学園は、安田財閥により大正13年に開設された私立男子校で、OBには元神奈川県知事の長洲一二氏や、元大相撲力士で現錣山親方の寺尾常史氏などがいます。 |
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谷中の寺町 江戸の寺町は、中心から郊外まであちこちにありますが、その中でも谷中の寺町は、「江戸東京散歩」の「小石川谷中本郷絵図」を見ても、不忍池の北側が真っ赤っ赤に(寺領は地図が赤く塗られている)なっている大規模な寺町です。 しかし、地図をよくよく探してみても「蓮長寺」というのは見つからず、ネットで検索しても谷中には無いようです。作者の創作によるものではないかと思います。 |
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長安寺と狩野芳崖の墓 |
谷中の寺々の中に、「長安寺」と「蓮華寺」があり、この二つを合成して平岩先生が命名されたのだろうか?と思ったりしたのですが・・・ 長安寺には、狩野芳崖(1828-1888)の墓があります。 狩野芳崖は下関出身、長府藩御用絵師の狩野家に生まれ、江戸木挽町の狩野家で修業して絵師となりましたが、維新後フェノロサと知り合い、日本画に西洋画の手法を取り入れ、日本画において江戸時代と明治時代を橋渡しする役目を果たした人で、近代日本画の父と呼ばれています。 |
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蓮華寺は、谷中の赤門寺として親しまれてきた日蓮宗のお寺で、虫封じのお寺として知られています。 この赤門は、明暦・元禄・上野戦争などの大火や災害を免れ、今に至っているとか。 また、清正公信仰(加藤清正の没後生まれた、清正を神仏の化身とする伝承)の寺でもあり、毎年5月24日には、清正公大祭が開かれます。
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蓮華寺の赤門 |
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開山は文永十一年(1274)と古く、日蓮が鎌倉と安房を往復する時に宿泊所を提供していた関小次郎という人の屋敷に、日蓮の弟子の日源が法華曼荼羅を勧請して開いたといわれます。 しかし、江戸時代となった元禄年間、幕府との間でトラブルが起こり、住職が八丈島に流される事になってしまいました。 この時、廃寺となるのを惜しんだ輪王寺宮家により、天台宗へ改宗となって寺が存続したそうです。 さらにその後、天保年間には、再び日蓮宗に戻そうという運動が起こりましたが、再び輪王寺宮家が動いてこの運動はつぶされ、寺の名称も天王寺と変わりました。 先にお題になった「三婆」の富くじは、深川の霊巌寺の富くじでしたが、「三婆」の中にも「谷中感応寺、目黒不動、湯島天神では始終富興行があるために、江戸の三富などと呼ばれ、大いに賑った」と書かれています。 現在天王寺には、富興行関係の貴重な史料も残っており、それによると、一般に富興行の最初といわれる、享保年間の仁和寺修復のための音羽護国寺での興行(これも「三婆」に書いてあった)より以前、元禄時代から、谷中感応寺で富興行が行われていた記録もあるそうです。
この五重塔は、明治41年に、天王寺から東京市に寄贈され、東京名所の一つとして、震災も戦災も生き延びたにもかかわらず、なんと放火心中というとんでもない事件によって、昭和32年の7月に焼失してしまったのです。 谷中霊園内の跡地には石碑と、在りし日の五重塔の写真が設置されています。 |
感応寺の塔頭の一つに福泉院というのがあり、その境内に笠森稲荷という稲荷社がありました。 明和年間、その門前にあった水茶屋「鍵屋」にお仙という、評判の看板娘がいて、鈴木春信の美人画のモデルにもなり、江戸中のアイドルになっていました。 「向こう横町のお稲荷さんへ、一文あげて、ざっと拝んでお仙の茶屋へ」 と手毬唄にも歌われるほどのお仙だったのですが、人気絶頂期のある日、突然鍵屋から姿を消します。 その理由についてさまざまな憶測が流れましたが、実はお仙は、公儀御庭番で笠森稲荷の地主でもあった倉地家に嫁いでいたのでした。 この「笠森お仙」と鈴木春信の碑が、大円寺というお寺にあります(→) |
岡倉天心記念公園の六角堂 いせ辰本店 築地塀のある通り 大円寺の前の道を、日暮里方面へ向って北上すると、岡倉天心が自宅に創設した日本美術院跡である、岡倉天心記念公園があります。 千代紙を始めとする江戸工芸品店として名高い「菊寿堂いせ辰」の本店もここ谷中にあります。 |
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※引用は、文藝春秋社「御宿かわせみ 小判商人 」平成17年4月30日第1刷からです