現場検証 「京極家上屋敷・赤坂溜池」

― 虹のおもかげ ―


大村麻太郎が物心ついてからというものは、ずっとあわただしい明け暮れであった。
彼が生まれたのは江戸下谷の柳河藩立花家上屋敷であったが、三歳の時に、国許へ転任となった父と共に、筑後柳河へと移転した。
柳河のお城はあまりはっきりと覚えていないが、広く立派な屋敷に、おおぜいの奉公人たちがいたことは、ぼんやりと記憶に残っている。
もっとも父は、風雲急を告げる中、国家老としての勤めに追われ妻や子と過ごせる時間はめったに無く、母はすでに成人している先妻の息子たちに遠慮するかのように、屋敷の片隅でひっそり過ごすことが多かった。

そんな中、連日の過労がたたってか、まだ働き盛りの父が急死、麻太郎は母と二人で江戸に戻った。
若くして未亡人となった母は、主君のはからいで姫君付の老女となり、その姫君が江戸で祝言をあげることになって随行したのである。
江戸は柳河に比べると、どこへ行っても人が多く賑やかだった。職人や商人たちの作り出す街の活気が麻太郎には非常に好もしかった。
江戸も深川のあたりは、柳河と同じように街中に水路が巡っており、舟の大好きな麻太郎は、自分も早く竿を操ってみたくてたまらなくなった。

「麻太郎は江戸のことを覚えていますか」
母の問いに麻太郎はちょっと考えて答えた。
「はい、あまりいろいろな所は思い出せませんが、川のそばのお家に行ったのを覚えています。大きな川を渡ってから、また川の横を行く所で・・・私と同じくらいの女の子がいて、一緒に遊びました。そこで雛飾りを見たような気もします」
「ああ、麻生様にお能のご招待を受けた時ですね・・・その後、お別れを申し上げに行ったときに、そういえばちょうどお雛様でしたね・・・あの時の、あの」
なぜか、遠い目をして、最後は聞き取れないほどの声でつぶやいた母の言葉が「かげつ」と言ったように聞こえたが、麻太郎は聞き返すことはしなかった。

「まだお小さい坊ちゃまをお連れになって、ほんとうに大変ですこと」
「柳河からお戻りになったばかりで、今度は多度津へ行かれるとは・・・」
母の周囲の人々が、半ば気の毒そうに、半ば好奇心を持って、口にする事も、麻太郎は全く気にならなかった。
姫君の輿入れに伴い、母も麻太郎を連れて立花家から出て、麻布六本木にある輿入れ先の京極家上屋敷の中に小さな住まいを賜り、そこで暮らすようになっていた。
京極家の屋敷うちは、このところ、なぜか落ち着かないようで、奥向きに奉公する母の帰りも連日遅かった。
母はしきりと、留守をする麻太郎が寂しくないかと気遣っていたが、好奇心の強い麻太郎は、寂しさを感じるよりも、奉公人たちや上屋敷の表に勤務する人々の目をかすめて、屋敷の内外を探検するのが楽しみで、次第に、かなり遠くまで出かけていっても、それと気づかれずに帰って来られるようになっていた。

母の留守中、麻太郎の一番の話し相手は、久作という、もう相当な歳の老人であった。
久作は元からの京極家の奉公人ではなく、昔は白金のほうで菊作りをしており、名人といわれていたらしい。
どういう経緯があったのかは知らないが、現在は、自分の菊畑は手放し、麻布四之橋そばにある京極家下屋敷で、花や野菜を作っている。
昔は偏屈者で、菊それも決まった種類の菊しか作ろうとしなかったらしいが、目の悪い孫娘が、幸い良い縁あって結ばれ、曾孫たちも生まれて幸せな生活を送るようになってからは、すっかり穏やかな老人になったと、これは昔を知る人々の話であるが、麻太郎はもちろん、そのような詳しいことは知らない。
ただ、久作老人が、歳にも関わらず矍鑠として、毎日のように畑の作物を持って下屋敷から上屋敷に来ること、孫娘のおかよと新之助夫婦が、多度津藩京極壱岐守の御本藩にあたる、丸亀藩京極佐渡守のお屋敷で下働きをしているので、溜池のそばにある丸亀藩上屋敷にも時々出入りしていることなどは、奉公人たちや本人の話で知っていた。

今日も、久作が来るのを待ちかねて麻太郎は裏庭に出た。
このところ、蝉の声も毎日やかましく聞こえるが、すぐそばで鳴いているようでもあり、遠くのようでもある。
「蝉、どこで鳴いているんだろう?」
「もう日が高くなっておりますから、蝉はずっと木の上のほうかもしれませんね」
「朝早くだったら、木の下のほうにもいる?」
「そうでございますね、夜が明けるか明けないかの頃でしたら・・・でもこのお屋敷のお庭には、あまり蝉はいないかもしれません。御本藩のお屋敷のそばの、溜池のほとりには、大きな木が何本もあって、そういえば、見える所に止まっていた蝉もあったような気がします。でも、ここからは大分遠ございますよ」
「御本藩のお屋敷なら知っている。金比羅様のあるところだろう。柳河から無事に江戸に着いた御礼にも行ったし、今度、多度津へ行くことになったから、また母上と一緒にお参りに行くんだよ」
「若様は本当に頼もしくていらっしゃいますねぇ。でも、そのうち、手前か新之助が、手の空いた時に若様のお供をいたしますから、それまでお待ちになって下さいまし」
それでも、麻太郎にせがまれ、久作は、手頃な竹を探して、蝉取り用の竿を作ってくれた。

「蝉って、生まれてからずっと長い間、土の中にいるのだろう。そのあと、殻から抜け出して、飛んでいくんだね」
「若様は何でもよくご存知で・・・そのとおりでございますよ」
「柳河にいるとき、母上から聞いたんだ」

母には決して言ったことはないが、麻太郎は、亡くなった大村の父の他に、どこかにもう一人の父がいるような気が、物心ついて以来、ずっとしていた。
大村の父も、いつも麻太郎のことを気にかけ、優しく接してくれたのだが、なぜか麻太郎にとっては、父というよりも、祖父か伯父のような存在に思えたのである。たぶんそれは、仕事で多忙なため、あまり一緒に過ごせないせいだろうと麻太郎は思っていたが・・・
もう一人の父のイメージは、謹厳でもの静かな大村の父とは全く違う、同年代のやんちゃ坊主のように一緒に遊べるような、若い父だった。しかし麻太郎の周囲にそのような男性はおらず、なぜそんな人物像が浮かんでくるのかは全くの謎だった。
でも、そうした人物が、蝉のように、ずっと見えない所に隠れていて、いつの日か突然自分の前にあらわれる、そんな気のしてならない麻太郎だった。

その後の二、三日は、久作も孫娘婿の新之助も顔を見せず、麻太郎は退屈していた。母も御用向きのことで忙しそうだ。
まだ夜の明けきっていない時刻に、麻太郎は目覚めた。今日も、夏らしいさわやかな朝になりそうだ。
今日こそ、久作か新之助が来るだろうか。でも、彼らが来ても、蝉取りに連れていってもらえるほど暇でないかもしれない。無理を言えば迷惑をかけることになる。でも、今日を逃したら、この夏に蝉をつかまえる望みがなくなりそうな気もする。
麻太郎は大急ぎで着物を着替え、竹竿と籠をつかむと、まだ静かな母の部屋の前を足をしのばせて通り抜け、家の外へ飛び出した。

京極家の屋敷の表門に面した通りは、右手に行くと鳥居坂というかなり急な坂がある。赤坂のほうへ出るには、鳥居坂とは反対に左へ行って、六本木と飯倉を結ぶ通りに出ればよいことを麻太郎は知っていた。しかし表門には、朝も夜も門番が何人もいて、母か奉公人と一緒でないとまずいだろう。
麻太郎は、屋敷の裏側から、町家の並ぶ北日ヶ窪町へ抜け出ると、だらだらとした道を六本木の通りへ向かった。表門から出るのに比べると大分遠回りだが、この道の先の
芋洗坂(いもあらいざか)と呼ばれる坂を行けば、やはり六本木の通りにぶつかること、さらに、そのちょっと手前で右に入り、饂飩坂(うどんざか)という坂を下りれば近道になることも、すでにこのあたりには何度も来て知っている。

六本木の通りへ出て右折し、大久保加賀守の下屋敷を右に見て過ぎると、右手は飯倉片町だ。
このあたりに、いつも賑やかに人の出入りする桶屋があるのも知っている。時々、店の前で、桶を作るのを見物するのも楽しみだったが、今はもちろん、まだ店の戸は閉まっている。


大久保加賀守⇒東洋英和女学院小学校


飯倉片町の交差点

飯倉片町と反対側の左手前方に見える上杉駿河守の上屋敷の前で左に曲がる。
曲がった先には、お先手組の屋敷が並んでいる。
その先がまたT字路になっており、右折して道なりにまっすぐ行けば、
溜池のほとりの緑地になるはずだ。


市兵衛町にあるサウジアラビア大使館
向いは「花の雨」でご紹介した元山形ホテルのマンション


上杉駿河守⇒麻布小学校

ここらへんは麻布の市兵衛町という町のはずだが、さすがに、このあたりまでは、あまり来たことがない。
南部遠江守の上屋敷と中屋敷のあるあたり、ちょっと道が複雑なので不安だったが、たぶんこの方角でよいはずだ。大名屋敷や旗本屋敷が両側に続く道を、麻太郎は足早に歩いた。


麻布市兵衛町の大名・旗本屋敷跡、現在は大使館が並ぶ


南部遠江守⇒農水省生活技術研修館

見覚えのある、広い四辻に出る。武蔵川越藩松平大和守の、手前左が中屋敷、前方右が上屋敷だ。とても広いので、屋敷前の道も長いが、霊南坂と呼ばれる坂を下りていくと、ようやく前方左手に緑地が見えてきた。


霊南坂の米国大使館、サミット終了後も警備が厳しく、大使館側には渡れないようになっている そっち側に霊南坂の説明板があるのに(泣)


松平大和守⇒ホテルオークラ

緑地と通りをはさんで右側は、これも広々とした、肥前佐賀藩鍋島家の中屋敷である。
緑地の向こう側には、大きな溜池があり、そのまた向こうは、まだ麻太郎は入ったことがないけれど、外桜田といって、大きな大名家のお屋敷が並んでいるらしい。
溜池から鍋島屋敷の前を通って流れる掘割の右手、虎の御門の外側にも、多くの大名家や、旗本屋敷が集まっている。御本藩京極佐渡守のお屋敷もここだ。

緑地には、久作の言ったとおり、大きな木が何本も立っていた。その一本の中ほどに、蝉の抜け殻があるのがすぐに目に入った。
手を伸ばすが、もうちょっとのところで届かない。
そのとき、「手伝おうか」という快活な声が背後に聞こえた。


鍋島家中屋敷⇒JTビル(この後ろの
虎ノ門病院や財務省印刷局も含まれる)
この鍋島屋敷は明治編「天が泣く」にも登場

振り向く間もなく、ひょいと抱きかかえられて、目の前に抜け殻があった。
ここでその人と出会うことが、自分の生まれるずっと前からもう決まっていた、ごく当たり前の流れであるように、麻太郎には感じられた。


溜池のあった所
現在は特許庁


溜池交差点
地下はメトロ銀座線「溜池山王」駅

 

今月はなんと、"妄想編現場検証"になってしまいました(汗)
最初、掲示板にも書きましたように、麻太郎がいたのは、溜池のすぐ近くの「京極佐渡守」の屋敷だと勘違いしていたのです。しかし、「紅葉散る」にも「その侍は京極壱岐守の家来、仁村大助と名乗った」とあるように、多度津藩なら壱岐守のほうでしたね。
後述するように、多度津藩は分家で、佐渡守のほうが本家(丸亀藩)です。(丸亀藩ってどこかで聞いたことがあると思ったら、あの「妖怪」鳥居耀蔵が失脚後25年間もお預けになっていた所でした。)
丸亀市には、現在も京極大橋と呼ばれる橋があるそうです。

で、壱岐守のほうだとすると、確かに六本木に上屋敷があり、麻太郎が東吾と別れて、東吾が来た道のほうに戻っていくというのも納得なのですが、多分この道を来たのだろうという麻太郎の蝉取りルートをたどってみると、大人でも30分前後かかるのではないかという、かなり遠い道のりです。
まぁ現在でも、学齢前と見られるお子さんが、父母や祖父母に連れられて、10キロ前後のウォーキングを元気にクリアしている様子は、時々見かけるのですが、5〜6歳の麻太郎が一人でこのルートを往復したのはかなりすごいですね。
でも、年齢よりも大人びている子だったら、不可能ではないだろうし、短いながらこれまでの人生で結構、経験を積んでいたのかも、とか、「朝早くなら、蝉が木の下のほうに降りてきているかも」と誰が麻太郎に言ったのか? なぜ溜池まで行こうと思ったのか? などと考えていたら、だんだん、妄想がふくらんでしまったというわけです(^^ゞ
菊作りの久作じいさんのほうは、まだ御題になっていないお話ですが、多分わかるんじゃないかな?
実は、勝手に孫娘のおかよさんと結婚させてしまった「新之助」のほうは、すでに御題になった、あのお話の登場人物♪

赤坂の溜池は、慶長年間に、江戸城外堀の一部として作られた人工池です。
もともと、このあたりは水質の良い水の湧く所で、堤を作って水を溜め、まだ神田上水・玉川上水の無かった頃の江戸市民の飲料水の供給源ともなっていました。
その後埋め立てられて、赤坂溜池町となりましたが、現在は町の名も消え、交差点と駅に名を残すのみです。
今の風景からは、こんな大きな池があったとは、とても想像もつきませんが、広重「名所江戸百景」に描かれた溜池は、対岸の日吉山王神社の森を望み、手前には確かに大きな木々もあって、素晴らしい都会のオアシスであったことが偲ばれます。池には鯉や鮒が泳ぎ、蓮の花も植えられていたといいます。

京極家についてですが、丸亀藩(佐渡守)・多度津藩(壱岐守)の他にも、宮津藩、丹後田辺藩、丹後峰山藩や、高家となった京極高規、など、いろいろあります。
もともとは、代々近江守護をつとめた佐々木源氏の流れ(六角氏とか、お市の方の嫁いだ浅井氏とかの親類ですね)をくむ名家で、織田信長のもとで戦国大名となった京極高次が淀君の妹お初と結婚し、妹の竜子は秀吉の側室(松丸殿)として寵愛されました。
これら身内の女性たちの七光りで出世したというので「蛍大名」などと悪口もいわれたらしい京極高次ですが、多くの中世の名家が滅びていった中で戦国時代を生き抜き、複数の拠点に子孫を残して何とか明治まで持ちこたえたのですから、決して馬鹿殿ではなかったでしょうね。
ちなみに有名な「丹後ちりめん」は、峰山藩の京極氏が藩の産業として奨励したものだそうです。

琴江さんの仕える姫君が輿入れした多度津藩京極家は、元禄年間に、本藩である丸亀藩の三代目当主が幼主であったため、万一に備えて、六万石のうち一万石を多度津に分家したのが開祖です。
分家ながら、英明な藩主が続き、藩校や図書館を作ったり、農民の記録を残したりしました。とくに天保年間に5年の歳月をかけて作られた多度津港は、諸国の物資の集散地として、また、諸方からの金比羅参りの人々で賑わい、本藩のある丸亀も、参詣口として栄え、土産物として団扇の製造が盛んになりました。

この京極家ゆかりの金比羅神社は、本藩丸亀藩の上屋敷のあった現在の地下鉄虎ノ門駅のそば、ビル街の中に今もあります。
本店(?)讃岐の金比羅宮を江戸屋敷内に勧請したもので、当時のままの銅鳥居や、寄付をした江戸の商人たちの名を掘り込んだ石なども残っています。
たぶん、長旅の無事を祈って、琴江さんも何度か、主人のお供で、或いは麻太郎を連れて、ここにお参りに来たことでしょう。


麻太郎たちが暮らしていたと思われる、六本木の多度津藩上屋敷の敷地に現在あるのは国際文化会館です。港区六本木5丁目、地下鉄大江戸線の六本木駅と麻布十番駅の間になります。
1952年に国際親善・知的文化交流を目的として設立された民間機関で、ネルー・トインビー・キッシンジャーなどの国際的著名人の招聘事業を行ってきています。
ここの敷地は、維新後、多度津藩に変わって井上馨や久邇宮など、所有者が何人か変わりましたが、関東大震災後は、岩崎小弥太の所有となりました。
岩崎は、大規模な洋館と、京都の造園家小川治兵衛の手になる美しい庭園を作り、東京大空襲で洋館は焼失しましたが、庭園は、戦後国有地となり国際文化会館に払い下げられた後も保存され、都内の知られざる名園となっています。もっとも、一般人が庭園を鑑賞するには「会員のご同伴・ご紹介」が必要であるようです。

ところで、今後琴江と麻太郎が巻き込まれていく、京極家の内紛というのは、実際にあったことなのでしょうか?
立花家の姫君の嫁いだ京極家の若殿(房之助どの?)は、たぶん、多度津藩六代京極高典の嫡子高備のことではないかと思うのですが、この人は、七代藩主になる前に廃藩置県になってしまうんですよね。
「紅葉散る」の中に、「只今の御主君はやはり病弱なお方で」とあるのが高典のことで、「藩の実権は隠居されている大殿にある」という「大殿」が、五代藩主京極高琢だとすると、辻褄が合うのです。
京極高琢は、多度津港の防波堤を作ったりして繁栄させた名君で、安政6年に高典に家督を譲り隠居しますが、この時まだ50歳になるかならないかで、慶応3年まで生きていますから、この大殿に密書を届けて、廃嫡陰謀グループを誅しようというのは、納得です。
平岩先生のことですから、京極家文書(?)とかもいろいろ調べた上で書かれているのだろうと思いますが、いつか、詳しいことを知る機会があればと思っています。

   

※引用は、文春文庫「御宿かわせみ(23)源太郎の初恋」2000年5月10日第1刷からです

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