現場検証 「京極家上屋敷・赤坂溜池」
― 虹のおもかげ ―
そんな中、連日の過労がたたってか、まだ働き盛りの父が急死、麻太郎は母と二人で江戸に戻った。 「麻太郎は江戸のことを覚えていますか」 「まだお小さい坊ちゃまをお連れになって、ほんとうに大変ですこと」 母の留守中、麻太郎の一番の話し相手は、久作という、もう相当な歳の老人であった。 今日も、久作が来るのを待ちかねて麻太郎は裏庭に出た。 「蝉って、生まれてからずっと長い間、土の中にいるのだろう。そのあと、殻から抜け出して、飛んでいくんだね」 母には決して言ったことはないが、麻太郎は、亡くなった大村の父の他に、どこかにもう一人の父がいるような気が、物心ついて以来、ずっとしていた。 その後の二、三日は、久作も孫娘婿の新之助も顔を見せず、麻太郎は退屈していた。母も御用向きのことで忙しそうだ。 京極家の屋敷の表門に面した通りは、右手に行くと鳥居坂というかなり急な坂がある。赤坂のほうへ出るには、鳥居坂とは反対に左へ行って、六本木と飯倉を結ぶ通りに出ればよいことを麻太郎は知っていた。しかし表門には、朝も夜も門番が何人もいて、母か奉公人と一緒でないとまずいだろう。 六本木の通りへ出て右折し、大久保加賀守の下屋敷を右に見て過ぎると、右手は飯倉片町だ。 |
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飯倉片町と反対側の左手前方に見える上杉駿河守の上屋敷の前で左に曲がる。 曲がった先には、お先手組の屋敷が並んでいる。 その先がまたT字路になっており、右折して道なりにまっすぐ行けば、溜池のほとりの緑地になるはずだ。 |
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ここらへんは麻布の市兵衛町という町のはずだが、さすがに、このあたりまでは、あまり来たことがない。 南部遠江守の上屋敷と中屋敷のあるあたり、ちょっと道が複雑なので不安だったが、たぶんこの方角でよいはずだ。大名屋敷や旗本屋敷が両側に続く道を、麻太郎は足早に歩いた。 |
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見覚えのある、広い四辻に出る。武蔵川越藩松平大和守の、手前左が中屋敷、前方右が上屋敷だ。とても広いので、屋敷前の道も長いが、霊南坂と呼ばれる坂を下りていくと、ようやく前方左手に緑地が見えてきた。 | |
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緑地と通りをはさんで右側は、これも広々とした、肥前佐賀藩鍋島家の中屋敷である。 緑地には、久作の言ったとおり、大きな木が何本も立っていた。その一本の中ほどに、蝉の抜け殻があるのがすぐに目に入った。 |
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振り向く間もなく、ひょいと抱きかかえられて、目の前に抜け殻があった。 ここでその人と出会うことが、自分の生まれるずっと前からもう決まっていた、ごく当たり前の流れであるように、麻太郎には感じられた。 |
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今月はなんと、"妄想編現場検証"になってしまいました(汗) で、壱岐守のほうだとすると、確かに六本木に上屋敷があり、麻太郎が東吾と別れて、東吾が来た道のほうに戻っていくというのも納得なのですが、多分この道を来たのだろうという麻太郎の蝉取りルートをたどってみると、大人でも30分前後かかるのではないかという、かなり遠い道のりです。 赤坂の溜池は、慶長年間に、江戸城外堀の一部として作られた人工池です。 京極家についてですが、丸亀藩(佐渡守)・多度津藩(壱岐守)の他にも、宮津藩、丹後田辺藩、丹後峰山藩や、高家となった京極高規、など、いろいろあります。 琴江さんの仕える姫君が輿入れした多度津藩京極家は、元禄年間に、本藩である丸亀藩の三代目当主が幼主であったため、万一に備えて、六万石のうち一万石を多度津に分家したのが開祖です。 この京極家ゆかりの金比羅神社は、本藩丸亀藩の上屋敷のあった現在の地下鉄虎ノ門駅のそば、ビル街の中に今もあります。 |
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ところで、今後琴江と麻太郎が巻き込まれていく、京極家の内紛というのは、実際にあったことなのでしょうか? |
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※引用は、文春文庫「御宿かわせみ(23)源太郎の初恋」2000年5月10日第1刷からです