現場検証  堀江六軒町(現・人形町)から新大橋通り

 ― 煙草屋小町 ―

日本橋堀江六軒町の花屋は煙草も旨いが、商売も上手い、煙草屋小町のおはんちゃんの顔が見たさに客は千里万里をものともせず、おはんちゃんの一顰一笑に羽化登仙の心地なり


歌舞伎と人形浄瑠璃の街

堀江六軒町・堺町・葺屋町は、現在の日本橋人形町3丁目にあたります。日本橋の三越から700メートルほど東に、都営浅草線とメトロ日比谷線の「人形町」駅があり乗り換え駅となっていますが、この2つの線がクロスしている所の西側の一帯です。

ちなみに、源太・小源の棟梁親子の家のある町として、かわせみファンにはおなじみの、「六軒」抜きの「堀江町」は、堀江六軒町の西側に縦長に広がっている地域で、日本橋川から分かれている掘割(今はもうない)が堀江町と堀江六軒町の間を流れており、そこに架っていた小さな橋が親父橋です。
「堀江六軒町から堀江四丁目へかけて、掘割に架っている橋の上で、男が二人、取っ組み合いをしている。」と「息子」の冒頭シーンにありましたね。

日比谷線が下に通っている通りは、今でも「人形町通り」と呼ばれていますが、「江戸東京散歩」の「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」(嘉永三年刻・安政六年再板)にも、「人形丁通リ」と出ています。
本文にもあるように、芝居ばかりでなく、操人形の一座でも賑わっていたのですね。

おっと煙草屋があります! 「堺屋」というのは、名前かもしれませんが、もしかしたら「堺町」の名を残しているのかも(嬉)
しかし看板娘はもちろん、看板婆さんor爺さんすら見えない(笑)

煙草屋の他には、とくに探すべきスポットもないので、人形町3丁目のブロックをぶらついてみるが、雑居ビル・商店・飲食店などが雑多に立ち並んでいるだけで、あまり面白いものも見当たりません。日本橋界隈の会社に勤めるサラリーマンたちのランチエリアになっているらしいことがわかっただけ(がっかり)・・・と、あるビルの前に鯨の銅像が!

自動販売機がでんと置いてあるだけ
看板娘はいない(笑)

上記のように、芝居町として繁栄していた中には、人形芝居も含まれていたのですが、まるで生きているかのように動く人形の首や腕の秘密は、軽くて強いバネの力を持つ、鯨のひれから採る筋を使っていたことにあったのだそうです。
それを記念した像が、ここに建てられていたのですね。
そういえば先日、四国を旅行した際、徳島に「木偶人形資料館」があって、そこでこの鯨のひれの実物を見せてもらいました!
写真は禁止だったのですが、こっそり撮っておけばよかった・・・。

ともかく、一つでも、このお話の時代につながるものが見つかってよかったです(^O^)

堀江六軒町はかつて芝居町として栄えた堺町葺屋町を隣にする細長い町屋であった。
今から十三年前に、
中村座という芝居小屋の楽屋から火が出て、葺屋町の市村座や操人形の小屋であった結城座や薩摩座などを焼き尽し、芝居小屋が全滅してしまう大火になった。 


中村座今昔

中村座は江戸三座のひとつで、1624年(寛永元年)、猿若勘三郎が創設、当初猿若座と称していましたが、その後中村座と改称され、座元は代々中村勘三郎を名乗るようになりました。

「煙草屋小町」で言及されている火事は、天保12年暮の火事と思われますが、中村座からの出火により葺屋町の市村座ともに焼失、天保の改革によって浅草聖天町(現・台東区浅草6丁目)へ移転させられたものです。
もっとも、江戸の芝居小屋は、これ以外にも何度も火事に合っており、明暦から天保にかけての178年間に、中村座・市村座の両劇場は、なんと31回も火事で全焼してしまったそうです。この回数もすごいですが、そのたびに再建されたというのもすごいですね。
江戸の人々にとって、いかに歌舞伎芝居が無くてはならぬものであったかということでしょう。そして、幕府・権力の側にしてみれば、それだけ庶民を熱狂させる芝居の力というのは、ある意味脅威であり、力を削ぎたいものであったかもしれません。

直木賞作家の松井今朝子さんは、長らく松竹で歌舞伎の企画・制作の仕事に携わり、作品中にもその経験が生かされています。
「非道、行ずべからず」(2002)は、文化六年正月の中村座の火事にまつわる連続殺人事件が主題で、座元の十一代目中村勘三郎はじめ、多くの実在・架空の登場人物が入り乱れ、息もつかせぬ面白さですが、その中でも、
「そもそも芝居小屋はかさが大きい上に、内部がほぼ空洞に近いから、火事をわざと大きくするために置いてあるようなしろもの」
と書かれています。

今の中村勘三郎は十八代目で、これは現在使われている歌舞伎役者の名跡中最も大きな数だそうですが、我々の世代には、「勘九郎坊や」でおなじみ名子役の記憶が強いです。
お父さんの十七代目勘三郎も、いろいろな平岩作品に出演されていましたが、亡くなった時に息子さんが父親の思い出話をしたのを、平岩先生が「息子」のラストシーンに応用されたという話は有名ですね。

十八代目勘三郎が中心となって「平成中村座」が2000年に浅草で初演され、その後各地で、仮設劇場や他施設を利用して公演が続けられているのが、大きな話題を呼んでいます。
「中村座」「新富座」など一座の名を冠していた江戸の芝居小屋は、明治の演劇改良運動を受けて福地桜痴らが開設した大規模・近代的な歌舞伎座に取って替わられ、今に至るわけですが、歌舞伎が海外でも知られるようになった現代、原点に戻る形も視野に入れつつ、新たな発展をとげていくのでしょうか。

 
「実は堀江六軒町の名主は小川吉右衛門と申し、なかなか温厚な仁ですが、倅の吉之助というのも、若いに似ず実直で町内で人気があります」

おはんちゃんと「子連れ狼」の意外な関係

小川吉右衛門という堀江六軒町の名主は実在の人物?と思って調べてみると、名主としてではなく、芝居茶屋の主人の名として出てきました。こういった土地柄でもあり、名主が芝居茶屋も経営していたということなのでしょうか?

この小川吉右衛門家は、「萬屋」という屋号で、代々葺屋町の市村座の芝居茶屋をしていたそうです。
幕末から明治にかけて活躍した役者の中に、立役女形共にこなした三代目中村歌六(屋号播磨屋)という人がいますが、この人に嫁いだのが、小川吉右衛門の娘の「かめ」さんという女性でした。
吉右衛門さんの娘ということは、煙草屋小町のおはんちゃんから見て小姑にあたる女性かなとも思えますが、年代を考えると、吉右衛門の名を継いだ吉之助さんとおはんちゃんの間に産まれた娘あたり?というほうが近いようです。

三代目歌六とかめさんの間には、2人の息子が生まれ、上の息子は「大播磨」(おおはりま)と呼ばれた初代中村吉右衛門となって波野家を継ぎ、下は三代目時蔵として、かめさんの実家の小川家を継ぎました。
さらにこの三代目時蔵は五人も息子を持ち(かめさんの孫)、それぞれ戦後の芸能界で活躍、「小川家五兄弟」といわれるようになりました。
四代目時蔵・四代目歌六・萬屋錦之介(元・中村錦之助)・初代中村獅童(今の獅童の父)・中村嘉葎雄の五人兄弟です。
ということはつまり、もし、かめさんがおはんちゃんの娘であるなら、おはんちゃんは、あの子連れ狼錦之介さんのひいおばあちゃんってことですね?!

もっとも、母の実家小川家の名を継いだ時蔵とその息子たち一家と、時蔵の兄・初代吉右衛門系の人々とは、屋号や名乗りをめぐって、いろいろと対立があったと言われています。萬屋錦之介、当時の中村錦之助が歌舞伎界を去って映画スターとして大人気を誇った陰にも、複雑な事情があったようですね。

   

あたりを憚るように、ひっそりと駕籠は新大橋を渡って深川へ入る。
小名木川沿いに深川を抜けて、横川にかかっている菊川橋を渡ると、あたりは武家の下屋敷。そして田と畑の間に、覚音寺の屋根がみえる。


現在よりやや下流にあった新大橋

ここでまた、おなじみのお茶漬けカードを(笑)

新大橋といえば、あまりにも有名な広重の名所江戸百景「大はしあたけの夕立」ですね。
藤沢周平の短編にも、この絵に想を取った「大はし夕立ち少女」という作品があります。
現在の新大橋は、当時よりも少し上流のほうに移動していますが、この橋柱にも、広重のレプリカが・・・(写真では、あまりはっきり見えませんが)
「あたけ」というのは、ここの河岸に幕府最大の御用船「安宅丸」が係留されていたため、新大橋付近が俗にそう呼ばれていたのだそうです。

掲示板のクイズでもお知らせしたとおり、この新大橋は、元禄六年(1693年)に架橋された、隅田川三番目の橋でした。四番目の永代橋(元禄11年)よりちょっと先輩です。
最初の橋は意外にも千住大橋で、江戸防衛のため長いこと橋はここだけだったのが、明暦の大火をきっかけに、両国橋、続いてこの新大橋が作られたのですね。
江戸時代といっても慶長・元和のころは大坂の陣もあり、まだまだ気分は戦国時代で、軍政>民政だったのでしょう。
由比正雪の乱があり、五代将軍の座を巡る跡目争いがあり、元禄の頃になってようやく江戸に平和と繁栄が定着、橋も盛んに作られるようになったという歴史がうかがえて興味深いです。

もっとも享保年間、財政が窮地に陥ったため、幕府は新大橋の維持管理をあきらめ廃橋しようとしますが、町の民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に、存続が許されたといいます。
現代も各地で民営化だの第三セクターだのという話がありますが、この頃も似たような事をやっていたんですね。


東京大空襲と菊川橋

菊川橋の下を流れる横川(現・大横川)は、隅田川に並行して、本所深川を南北に流れている川で、小名木川や仙台堀と同様、江戸初期に作られた運河です。
現在では、新大橋を渡ってまっすぐ新大橋通り(この通りの下を地下鉄都営新宿線が通る)を歩いていくと、そのまま菊川橋に出ますが、先に述べたように、当時の新大橋は、現在よりもワンブロック下流(小名木川寄り)にありましたから、おはんちゃんの兄に化けた東吾さんの駕籠は、新大橋を渡ってから、どこかで一度、通りを曲がっているはずですね。
本所深川絵図を見ると、新大橋を渡ってから、御籾蔵と深川元町の間を抜け、六軒掘に沿って斜めに北上して、北森下町を通っていくのが、一番行きやすいように思えるのですが、「小名木川沿いに深川を抜け」たとありますので、小名木川北岸の武家屋敷沿いに来て、横川に近くなってから曲がったのかもしれません。

本文の通り、菊川橋を渡る手前は、菊川町一丁目から三丁目までの町屋(現在でも、ここは菊川三丁目となっています)、渡ると、牧野豊前守・京極丹後守の下屋敷になっている様子が、絵図からわかりますね。

現場検証ではこれまでに、何回も本所深川を訪れる機会がありましたが、そのたびにあちこちで目にするのが、東京大空襲の犠牲者を祀る小さな碑や祠です。
この菊川周辺は、東京大空襲の中でも、とくに被害の大きかった地域です。

昭和19年春、空襲を避けて地方へと疎開していた東京市(当時)内の小学生たちのうち、6年生だけは、卒業式への出席や中学校入試準備のため、3月初めに東京へ戻りました。その結果、3月10日の東京大空襲では、多くの子供たちが、空襲の犠牲となりました。
本所区(現・墨田区)の菊川国民学校では、6年生およそ100人のうち8割が命を落としました。
木場に近いこのあたりには材木納屋が密集していたことも悲劇を招きました。四方八方からの避難民が押し寄せた菊川橋周辺で、材木に火が燃え移り、身動きの取れない状態の人々の上に倒れてきたのです。
なんとか菊川国民学校に逃げ込んだ人々も、 講堂の屋根が焼け落ちて焼死しました。

現在も、菊川橋の左詰には、大空襲による菊川周辺の殉難者三千余名を弔うお地蔵さんが祀られています。「夢違え地蔵」と名づけられたお地蔵さんです。
その後日本は半世紀以上にわたる平和を享受することになりましたが、戦争によって、戦争とは最も程遠い所にある一般庶民とくに子供たちの生活と生命が真っ先に奪われるという現象は、今も世界各地で絶え間のないことを思うと、この空襲の史実を、もっと世界各国に知ってもらう必要があるのではないかと思われてなりません。

猿江町の覚音寺だろうと思います」
猿江の材木蔵の近くで、無住の荒れ寺だといった。

覚音寺と猿江材木蔵

これまで、「かわせみ」に登場する寺社については、神田の清姫稲荷や和光尼の西行庵などの例外はありましたが、ほとんど今もその土地にある実在のものでした。
ところが、今回の「猿江町の覚音寺」は見つからないのですよねぇ。
ネットで検索してみると、元浅草三丁目に覚音寺という真宗高田派のお寺があるようです。庄司家の菩提寺、浄念寺からちょっと北上したあたりですが、猿江町とは大川の反対側だし、ぜんぜん方角違い。まぁ五百羅漢が本所から目黒に移転したのに比べれば近いけど、新旧どちらの地図にも載ってないし、あんまりピンときません。

猿江の材木蔵は現在、猿江恩賜公園となっており、その一画に「ティアラ江東」(旧・江東公会堂が平成六年にリニューアルされたもの)という市民ホール兼市民センターのような施設があります。
「江戸東京散歩」の「本所深川絵図」(文久二年版)を見ると、現在このティアラ江東がある地点に、
「覚法寺」および「覚壽王院」という寺院が、材木蔵に隣接する形で記載されているのですが、これらは廃寺になったのか、どこかに移転したのか、現在は存在しません。

もしかして、平岩先生は、これらの寺をイメージしつつ、しかし「荒れ寺・盗賊のアジト・さらには河豚の毒で死人が」などの内容であるため、実在した寺の名を使っては申し訳ないと思われて、「覚」という名だけ取り架空の寺として描かれたものでしょうか?

人形町⇒新大橋⇒菊川橋⇒猿江恩賜公園(ティアラ江東)の道筋、新大橋からはほぼ一本道ですが、小一時間の適当なお散歩コースです。
菊川橋を渡らず手前で右折して、横川に沿って南へ歩き、小名木川を越えてまっすぐ行けば、前回の「柿の木の下」でご紹介した木場公園に出ます。

   


おまけ 煙草と塩の博物館

昨今はどこもかしこも禁煙となり、肩身の狭い煙草ですが、一昔前は、「煙草は動くアクセサリー」「今日も元気だ煙草がうまい」などの絶妙なキャッチコピーと共に、デザインの粋を集めたパッケージが、煙草を吸わない人々の眼も楽しませてくれたものです。

JR渋谷駅からNHK放送センターへ行く公園通りの途中に、「煙草と塩の博物館」というこじんまりとした博物館があり、¥100の入場料で、これらの懐かしい煙草パッケージの数々を始め、専売品の歴史を学ぶことができます。
煙草が日本に渡来したのは慶長年間だそうですが、嘉助さんが一服したであろう煙草盆や、宗太郎さん親子が叩き合いをしたらしい煙管の実物も見ることができます。

また、政府による煙草の専売が始まったのは、日清日露の戦争の戦費調達が目的であり、日露戦争開戦直後に新たにタバコ四銘柄が発売され、それらの「敷島」「大和」「朝日」「山桜」という名は、本居宣長の歌「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」からつけられた…などという話も初めて知り興味深かったです。
現在のセンスにも合うさまざまなカラフルなデザインが妍を競っている時代から、太平洋戦争の時代に入り統制・配給品となるに従って、軍国主義的な絵や、ほとんど文字だけの単調なもの(物資不足もあるのでしょうが)になっていく過程もはっきりとわかり、品物が何であれ、意匠やデザインは、自由な時代であってこそ花開くものだと改めて思いました。

さて、この時代の煙草屋というと、上のジオラマで見られるように、刻み職人が煙草の葉を刻むという工程が非常に大切であったわけですね。
兄妹で煙草屋をやるということは、兄さんが煙草を刻み、妹がそれを売る、という形が一般的じゃないのかなぁと思うわけですが、おはんちゃん兄妹の場合、兄さんは水油売りの行商をしていたという事なので、おはんちゃんは、どこからか刻んだ煙草を仕入れてきて売っていたのでしょうね。
だから、花屋の煙草がうまいというのは、正確にいえば、花屋に煙草を卸している店の煙草がうまい、ということじゃないのかなぁと前から疑問に思っていたんですがね〜。

もしかしたら、密かにおはんちゃんに惚れている刻み職人がいて、花屋に卸す煙草は腕によりをかけて刻んでいた、あるいは値段以上の高級品をこっそり混ぜていた(商品不正表示疑惑!)
ともかく、おはんちゃんはいずれ玉の輿に乗って、花屋の店番は誰かに引き継ぐんでしょうが、近所の婆さんとかが座るようになったら突然、煙草の味が落ちるのではないか?と心配です。後日談が聞きたい・・・(笑)

   

※引用は、文春文庫「八丁堀の湯屋」1994年11月10日第1刷からです

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