現場検証  向島秋葉神社/水郷潮来と鹿島神宮

 ―  水郷から来た女  ―

・・・伊之助を無事に返してほしければ、今夜半、向島の秋葉様の境内へ、三百両を持って伊之助の母親が一人で来るように・・・

広重名所江戸百景「請地秋葉の境内」


向島秋葉神社

冒頭の惨劇の舞台となった向島の秋葉神社。
現在の表示では墨田区向島4丁目、東武伊勢崎線の曳舟駅の近くですが、昔はこのあたりを「請地(うけち)村」といったそうで、広重の名所江戸百景でも「請地秋葉の境内」となっています。
また、「江戸名所図会」には、「亀戸村吾嬬(あずま)権現の社記に『請地、いにしえは浮地と称したり』とあり」と書かれています。

その請地村にはもともと、千代世の稲荷という稲荷神社が建てられていたのですが、元禄時代、遠州浜松の秋葉権現を勧請し、以来、秋葉稲荷両社として祀られてきました。

その時に社殿を寄進したのは、「真田太平記」でもおなじみの上州沼田の城主、本多正永。旗本出身で寺社奉行・若年寄から老中まで務めた人です。
もともと沼田城は、真田氏の松代藩に属していましたが、90歳を超える歳まで生きて真田家を守り抜いた真田信之の孫である真田信利時代に、真田家本藩である松代藩からの沼田藩独立・跡目争い・農民一揆などにより、沼田城は真田氏の手を離れてしまいました。
本多正永は、荒廃してしまった沼田藩を立て直し、幕府からの交付金で、取り壊された沼田城を再建しました。

秋葉神社というのは、現在全国の神社本庁傘下で800社くらいもあるそうですが、起源は浜松の秋葉山山頂にある秋葉山本宮秋葉神社で、神仏習合の火よけ・火伏せの神として広く信仰されてきたものです。

「江戸名所図会」によれば、この向島の秋葉神社は、「境内林泉、幽邃にして四時遊覧の地なり。門前酒屋・料理屋多く、おのおの生簀を構えて鯉魚を飼う」ということで、とくに秋の行楽シーズンは、五千坪もあったという池(本編中の「菖蒲池」か?)に映る紅葉の美しさを愛でる人々で賑わったそうです。

今はこの池はもう失われてしまい、境内もずいぶん縮小されたようで、どこにでもある街中の神社の一つに見えますが、通りがかりにお参りしていく人が多いのは、さすがに江戸の風情を残す下町ならではです。
うまく社殿と一緒に撮れるアングルがなかったのですが、境内からスカイツリーも見えます。

この神社の境内にある灯籠は、由緒あるものばかりで、前述の沼田城主本多氏のほか、酒井雅楽頭忠挙(下馬将軍として威勢をふるった酒井忠清の長男)・柳沢吉里夫人・関東郡代伊奈忠宥など(これらは皆姻戚関係にあったらしい)が寄進したものだそうです。


灯籠の裏面に見える「沼田城主」の文字

 


水郷潮来

実は今回UPの準備をしてみて初めてわかったのですが、「潮来」という文字はこのお話のどこにも一言も入っていないんですよね。「水郷」もタイトルだけ・・・もしかして私の早とちりかもと思いましたが、鹿島神宮が出てきて「水郷」といえば、潮来以外にありませんよね?

というわけで、5月末のJR「駅からハイキング」に、潮来水郷めぐりウォーキングが予定されていることを知った私、これはもう行かなきゃと思い行ってまいりました!
そして恒例ご本家の5月尽句で、zmzmさんも潮来に行かれたことを知り嬉しかったです。
zmzmさんは「十二橋巡り」の舟にも乗られたんですね。

ちなみに「潮来」と書いて「イタコ」と読ませるのは難読地名の一つで、知らなければ「シオク」「シオキ」などと読んでしまいますよね。
そういえば音読みで「チョウライ」かと思ったという話をどこかで聞いたなぁと思って「潮来 チョウライ」と検索してクリックしたら、何やら見たことのあるページが・・・っていうか、これ
自分のHPやんけ!(爆爆)
moeさんその節はどうも有難うございました。
ただ、我々の年代では、それほど難読という気がしないのは、この後にも触れますが「潮来笠」や「潮来花嫁さん」など、昔の演歌によく潮来が歌われていたせいかもしれません。「潮来」が読めないのは、若い世代の証明かも(^O^)

霞ヶ浦と北浦にはさまれ、千葉県と接する潮来市は、2001年まで行方郡潮来町でしたが、牛堀町と合併して市制が施行されました。
稲作を始めとする農業と共に、利根川水運の港町として栄えてきた町です。
また、水郷筑波国定公園の一画として、観光事業も盛んです。

同じ茨城県南部でも、つくば学園都市側の牛久・藤代・取手などはすでに首都圏のベッドタウンになっており、つくばエクスプレスのおかげで通勤もすっかり便利になりましたが、潮来は水郷という特色があるだけにローカル色ゆたかで、そのぶん、足の便はまだあまりよくありません。
東京からは、JRで千葉・佐倉・成田を経由して、うまく直通の列車を使えればおよそ2時間で行けますが、接続のタイミングが悪いと、3時間以上かかってしまいます。
成田線から香取という駅で鹿島線に接続するのですが、これが「鉄子」が喜びそうなローカル列車。

ドラマのオープニングの印象が強かったせいか、ようやく潮来の駅に着いて、見渡すばかりのアヤメ・アヤメ・アヤメの列!!を思い描きつつ改札を出たのですが、最初の印象は「?なんかフツーの田舎の駅じゃん?」と、ちょっと萎えた気分に(ごめんなさい)。

でも、ウォーキングルートに沿って歩いていくと、次第に水郷らしい景色が広がっていきます。
片側は田圃、片側は水路という田園風景がずっと続く。これでアヤメがここにも咲いていれば言うことないのですが(笑)
でも、やっぱり水の流れっていいですよね〜〜のんびりと癒される気持ちになります。

JRの駅から5キロほど離れた、県道沿いの「潮来道の駅」のほうが、大きなショッピングセンターもあり、市の中心という感じで賑わっています。

このあたり鹿島アントラーズの本拠地でもあり、東京からサッカー場へ観客を運ぶ高速バスのターミナルにもなっています。

アヤメは、霞ヶ浦と北浦をつなぐ前川という川沿いにある「前川あやめ園」という所で、毎年「水郷潮来あやめ祭り」が行われており、そこで鑑賞することになっているらしい。
先日、NHKの鶴瓶さんの番組で、前川清さんが「前川つながり」で訪れていましたよね。

まだちょっと見頃には早かったこともあり、花だけを見れば、正直「野老沢の肝っ玉おっ母あ」でご紹介した北山公園を始め、もっとゴージャス感のあるアヤメ・花菖蒲園は多いと思うんですが、潮来のアヤメの売りは何といっても、「水郷に咲く」というその風情なのでしょう。

潮来出島の真菰の中にアヤメ咲くとはしおらしや」と歌い継がれているように、「しおらしく」咲くのが潮来のアヤメで、そんなに自己主張(?)して咲くのじゃないんですね。
川舟が行き来する中で、あるかなきかの風にそよぐアヤメたち。その素朴でつつましやかな美しさは、都会の喧噪とストレスを癒してくれます。


そして潮来名物の「花嫁舟」も見ることが出来ました!
「潮来花嫁さんは舟で行く・・・♪」という歌そのまま(歌の碑もありました)の風景、「水郷ならではのバージンロード」(水郷潮来観光協会のHPより)を手こぎ舟でゆっくり進んでいきます。
これは観光客用のパフォーマンスかと思っていたら、なんと
地元のブライダルサイトを見ると、本物の結婚式なんですね(^O^)
「○○家」と舟の船頭の名を記した時刻表もあります。本物がいない時だけ、「模擬嫁入り舟」が出るようです。

 


潮来が舞台のヒット演歌は、もうひとつ、ご存知橋幸夫のデビュー作「潮来の伊太郎〜」の「潮来笠」があります。
これも歌詞と伊太郎の像があり、記念写真を撮る人で賑わっています。
「潮来笠」の作曲家、吉田正さんは鹿島町の出身なんですね。
「潮来花嫁さん」も「潮来笠」も、1960年の大ヒットでした。「ゲゲゲの女房」の頃ですね。

「潮来の伊太郎」というのは、実在の人物がモデルなのかと思って調べてみましたが、特にそういうことでもなさそうです。
まぁ利根川界隈は、昔は渡世人のおにいさんたちも多く気の荒い所で、花嫁舟が盛んになったのも、花嫁が途中でさらわれたりせずに無事に新郎の所へ送り届けられるようにという理由もあったらしいので、風土的にはぴったりですね。

「木枯らし紋次郎」を書いた笹沢左保さんが「潮来の伊太郎・大利根の闇に消えた」という本(光風社出版、1982)を出していて、「潮来笠」のヒットから20年以上も後ですが、実在の人物でないとすると、ネーミングの著作権とかどうなっているのかな?

あやめ祭り会場では、霞ヶ浦特産の川魚の佃煮も売っています。いろんな種類があって、どれも1パック\300。
「わかさぎ」と「小女子+胡桃」を買って帰りました。おいちかったです♪

          


自分の父は、鹿島神宮の氏子で、剣を教えていた親代々の兵法者だとおひろは打ちあけた。

鹿島神宮

JR潮来駅に戻り、一駅乗って鹿島神宮へ。
常陸国一の宮である鹿島神宮は、下総一の宮である香取神宮と共に、昔から武芸の神として崇敬されてきました。
「鹿島新当流」の開祖、塚原卜伝の生誕地でもあり、駅前から神宮参道への途中に銅像があります。
町全体に「尚武」の雰囲気がただよっている感じです。

鹿島氏は、平高望・国香に始まる坂東平氏の一族で、鹿島城を中心に現在の千葉県北部・茨城県南部あたりに勢力を持っていました。
塚原家は鹿島氏の姻戚で家老職にあり、1489年に鹿島神宮神職の家に生まれた塚原卜伝は、塚原家に養子に入り、数回の全国を回る剣術修業の後、鹿島へ帰って塚原家の当主として勤めるかたわら、多くの弟子を育成しました。
そして、息子に家督を譲った後、再び全国を巡る旅に出て、剣豪将軍として知られる足利十三代義輝を始め、細川藤孝・北畠具教・甲斐の武田家や下野の佐野家などに剣の指導を行い、故郷に戻って83歳の長寿を全うしました。

卜伝にとって鹿島神宮は、古くからの「鹿島の太刀」という剣の技であると同時に、自分の心を見つめ直す場でもありました。
卜伝という号も、卜部(うらべ=神職)の伝統の剣を伝えるという意味でつけたと言われます。

最初の修業の旅で、戦乱の世を初めて体験し、心を病んで帰って来た卜伝は、鹿島神宮に千日の参籠をすることによって己を取り戻し、「心を新しくして事に当れ」という神示を受けて悟りを開き、再びの修業の旅に出たそうです。

剣を通して高い理想を求め続けた剣聖・卜伝への、地元鹿島の人々の崇敬は大きなものがあり、平成19年には「塚原卜伝全国キャンペーン推進委員会」が立ち上げられて、「NHK大河ドラマで塚原卜伝を!」という熱い動きがあるそうです(^O^)

正直「塚原卜伝」だけで一年持たせるってちょっとな〜、と思ったのですが、卜伝を狂言回し的に持ってきて、足利義輝の暗殺事件や、各地の大名たちとのからみをうまくシナリオ化すれば、あまり知られていない戦国時代前半の物語として面白いかもと思いました。

京都や奈良のようにいろいろな名刹を回って歩ける所と違い、なかなかそれだけを目当てに行くということがないので、鹿島神宮はずいぶん損をしていると思います。東京から遠くはないですが、惜しいところで、首都圏をちょっとはずれてますしね〜
今回私も、水郷のついでという感じだったのですが、訪れてみて良かったです。
ちょっと奈良の春日大社などと似た雰囲気がありますが、観光ずれしておらず、深い緑に包まれて、いろいろ面白い見どころもあって、とても良いところです。
水郷めぐりやサッカー観戦の折には、ぜひとも鹿島神宮参拝もおすすめです。


徳川秀忠奉納の社殿


奥宮 元本殿だったが元和の造営で移転


   御手洗池(みそぎの場)

拝殿は、慶長十年に家康が本殿を奉納、その後元和年間に秀忠が新しい本殿を奉納して、家康の本殿は、奥の宮として移転されました。
また、上の写真で参道の先にある朱色の楼門は、徳川頼房の奉納によるもので、日本三大楼門の一つだそうです。

松尾芭蕉も鹿島を訪れており、いくつかの句碑があります。
右の句碑は有名な「枯れ枝に鴉のとまりけり秋の暮」で、「秋」の文字は原文のとおり?ノギヘンに亀という文字になっています。

↓の写真の、地面に埋まっている目玉親父みたいなのは何でしょう?


これは「要石」といわれるものだそうで、鹿島神宮の大神が降臨した御座という霊石なんだそうです。

また、この石が大ナマズの頭を押さえつけて地震を起こさないようにさせているという言い伝えもあるそうです。

「水戸黄門仁徳録」の中に、水戸光圀がこの石を掘り出そうとして家来に掘らせてみたが、あまりに巨大かつ深く埋まっていて「七日七夜掘っても掘りきれず」という記述があるそうです。

目玉親父の周囲にぱらぱら小さな玉のようなものがたくさんあるのは、御賽銭です(^−^)


20万坪に及ぶといわれる鹿島神宮の森は、800種を越える草木が繁茂する植物の宝庫で、照葉樹林の北限としても貴重なものだそうです。

この森にかつては多くの鹿も棲息していたのだそうで、その歴史を伝える鹿苑もあります。

そして城跡好きには嬉しいことに、鹿島城のあとも城址公園として整備されています。
あまり中世城郭といった感じはしませんが、遠く霞ヶ浦をのぞみ、のんびり出来るいい所です。

あ、高校生らしいカップルがいる。確かに人がぜんぜんいなくてデートスポットにぴったり(笑)

ウザいオバサンがのんびりと説明板を読んだり、ガシャガシャとシャッターを押して歩きまわったりしていて、こちらを見ようとしないカップルが引きつっている様子が背中でわかります(爆)
ごめんね〜〜でも、この辺になると、また明日や明後日出直すってわけにもいかないんで、しばらくの間・・・

帰りは鹿島神宮駅から高速バスで日本橋へ直行。
潮来は、JRの駅とバスターミナルがかなり離れていますが、鹿島神宮は、JR駅のすぐ近くからバスにも乗れて便利でした。

     

※引用は、文春文庫「御宿かわせみ三 水郷から来た女 」1992年10月5日第19刷からです

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