現場検証 「柳森神社」「鎌倉河岸」

 ― おたぬきさん ―

柳森神社は、この柳原の和泉橋の西詰、堤の下に鎮座していた。(中略)平素は、それほど参詣人が多くはなく、川岸の静かな神社で、聞えて来るのは、神田川を上り下りする舟の櫓の音くらいなのに、毎月十五日だけは、境内に足のふみ場もないほどの雑踏になった。
理由は、この日、境内にある福寿神の祠に「おたぬきさん」が出開帳するからであった。
「おたぬきさん」という愛称で呼ばれているのは木像に漆をほどこした七寸ばかりの木彫りの狸で、五代将軍綱吉の生母、桂昌院が信仰していたといわれ・・・

両脇をすっかりコンクリートの護岸壁で覆われてしまった現在の神田川ですが、それでも川が残っているだけでも幸いなのかもしれませんが・・・
柳森神社も、当時は、もっとずっと風情のある、川辺のお社だったことでしょう。

当時は、毎月15日の出開帳と書いてありますが、今では、毎年10月5日に、町会主催の「たぬき祭り」があるようです。「たぬき汁」や「たぬきソーセージ」ってどんなものなのか、一度行ってみようかなぁ・・・。

「たぬき」は「他抜き」、つまり、他に抜きん出る、ということで、出世開運を求める江戸庶民たちで、おおいに賑わったそうです。八百屋の娘から将軍ご生母という究極の「玉の輿」に乗った桂昌院も信仰が深かったこともあり、大奥の女中から江戸のギャルに至るまで、女性たちのお参りも非常に多かったようです。

ご本尊の「おたぬきさん」は、七寸ばかりと本文にもあるように(お寺のパンフレットによると、高さ15cm、幅10cmの乾漆仕上げの木像)、小さなものらしいですが、その形を模した大きな石像が、鳥居の脇にあります。

由来を知らないと、「変わった狛犬だな」と思って見過ごしてしまう可能性もありますが・・・拙宅掲示板で「わだち騒動」を呼んだ素晴らしい造形をもう一度ご堪能ください(笑)

(←皆様のご要望に応えて〔?〕クリックするとあの拡大写真が・・・)

鎌倉河岸の相模屋さんといえば、大きな米問屋だったと思いますが、そんな家のお内儀さんに死ななけりゃならない理由があるとは思えませんね」

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鎌倉河岸とは、神田三河町一丁目と竜閑橋の間の川べりをいうので、その昔、江戸城を築いた際に、鎌倉から運んで来た石を、この河岸から荷揚げしたので、この名がついたらしい。
相模屋はこの鎌倉河岸に向っていて、町名からいうと神田鎌倉町に属していた。


神田三河町も鎌倉町も、今はその名はなくなり、内神田二丁目となってしまいました。
日本橋川も上をびっちりと高速道路に覆われた状態ですが、「鎌倉河岸」の名は、竜閑橋交差点の角にある「鎌倉河岸ビル」に残されているのは嬉しいことです。かなり大きなビルで、この正面写真は、「神かくし」の時にもちょっとご紹介しましたね。

日本橋川と隅田川の間には、昔は多くの運河や掘割があり、その一つが竜閑川で、日本橋川から分かれて隅田川のほうに流れ、その分岐点の所にあったのが竜閑橋ですが、これも川も橋もなくなり、交差点にのみその名をとどめています。

逆に当時は無かった、鎌倉河岸から対岸へ日本橋川を渡る橋が鎌倉橋で、昭和4年に、関東大震災の復興事業の一つとして架けられたものです。
この橋のたもとに、鎌倉河岸の説明がありますが、それによると、享保20年に出版された「続・江戸砂子」という、江戸ガイドブックのようなものに、「鎌倉町、かまくらがしと云、御堀ばた米屋多し」という記述があるそうです。相模屋もそんな米屋の一つとして成功した店だったのでしょうね。

また、もう一つ鎌倉河岸で知られた店といえば、雛祭りの白酒で有名になった「豊島屋」という酒問屋で、この店は、太平洋戦争まで、この河岸で営業していたそうです。
この「豊島屋」は、「筆屋の女房」に登場し、お吉さんが「お雛様の時のお白酒は、鎌倉河岸の豊島屋か、芝の四方かっていうくらいで、どっちかっていうと四方のほうは甘口で、豊島屋は辛口なんです」と言っています。

昨年、山本耕史さんの主演で好評だったNHK時代劇の「居眠り磐音」ですが、あのシリーズの作者、佐伯泰英さんの別のシリーズに、「鎌倉河岸捕物控」というのがあります。鎌倉河岸の酒問屋の看板娘を主人公に、田沼意知暗殺事件や金座がらみの陰謀などを描いた捕物帖らしいです。

※引用は、文春文庫「御宿かわせみ(18)秘曲」1996年11月10日第1刷からです

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