現場検証 荒川の中心で、菜の花を探す

― 菜の花月夜 ―

荒川ったって広いんだ。なんてったって川なんだからな。
・・・・・・海に近えほうと、豊島のほうとじゃ、お江戸をぐるっと廻らなけりゃならねえんだ」

まず、深川っ子が汐干狩に出かける洲崎の先、砂村新田を越えて、荒川の河口のほうから探しはじめた。


洲崎・砂村新田

今回の現場検証、久々の広範囲だし、これまでに訪れていない場所です。
「アラチュー」ということで、お茶漬けカードも大盤振舞いで行きましょう!

「洲崎」なんですが、実は品川の洲崎と深川の洲崎と二つあって、「洲崎弁天」もそれぞれにあるんですよね。(ただし、品川の洲崎弁天は、現在は「利田神社」となっています)。

広重の「名所江戸百景」には、この2つの「洲崎」が共に描かれているのですが、並べてみていかがですか?
どちらも海沿いの風景でありながら、実に対照的ですね。

古くから湊として開かれていた品川の、のどかな海の風景と、荒涼たる雪の原と・・・
もともとこのあたりは、深川洲崎十万坪といわれた新開地・埋立地だったのです。

「ブラタモリ」で、江戸・東京のゴミ処理を特集したとき、広重のこの絵がCGに使われていたのが、非常にインパクトがありました。
江戸の初期から行われてきた埋立てによるゴミ処理が、21世紀もずっと続いているということも興味深かったですね。

今の東京の人間の大多数が(といっても、あんまり若くない層(^^ゞ)、洲崎といわれて思い浮かべるのは深川の方でしょう。
ただ、この十万坪の絵とは違うイメージのはずです。
明治期からここには吉原に匹敵する歓楽街が出来て、とくに敗戦後は、「洲崎パラダイス」として遊客に親しまれ、小説や映画の舞台にもなりました。

広重 「品川すさき」   

「深川州崎十万坪」 

洲崎弁天(洲崎神社:写真→)も、遊廓で働く女性たちが大勢お参りに来たことでしょう。

この弁天様があるのは、「柿の木の下」でご紹介した木場公園と、永代通りをはさんで向い合ったあたりですが、当時の「本所深川絵図」で見ると、この辺はまさにもう海岸なんですね。
深川っ子が潮干狩りに出かけたとありますが、景勝地として人気の場所であっても、人の住む所ではなかったようです。
そのあたりの風景は、源さんの最後の登場作品である「さんさ時雨」にも詳しく描かれていますね。


本所深川絵図を見ると、「新田」と名のつくものがいくつもあり、「砂村新田」の砂村は、今も北砂・南砂・東砂・新砂と、江東区の町名に広く残っています。
宮部みゆきさんの短編に「砂村新田」という名作がありますが、やっぱりこの作品の舞台は、神田でも日本橋でも大川端でもなく、夏は太陽が照りつけ、冬は風の吹きすさぶ新開地がふさわしいですね。

砂村というのは、江戸初期にこの地の開発を行った砂村新左衛門という人の名前からつけられたものですが、この砂村さんは、江戸の人ではなく、越前の出身です。
土木事業や新田開発の専門家として、越前の鯖江や坂井をはじめ全国で開発事業を行っていたのですが、明暦の大火後、江戸の都市改造が進む中で、当時未開発地であった深川の低地を、江戸市中から出るゴミと、隅田川浚渫による土砂によって埋め立て、新しい農業地として開発する事業に着手しました。

この結果、砂村は近郊農業地帯となり、砂村葱をはじめ茄子・胡瓜・西瓜などが盛んに栽培されるようになりました。
この開発の際に勧請された八幡社が、現在も南砂にある富賀岡八幡宮です。

「富賀岡?富岡八幡宮なら、深川にあるけど・・・?」
そうです、「かわせみ」でおなじみの富岡八幡宮(広重の「山開き」の絵と共に「柿の木の下」でご紹介しました)は、砂村の地から、本尊の八幡像が深川に移転されて出来たたものだったんです。
移された八幡像というのは、鎌倉公方より太田道灌へ伝えられ、道灌が深く崇敬していたものと伝えられています。
深川に新しく八幡宮が出来たあと、砂村の八幡宮は「元八幡」と言われるようになり、こちらも、広重の江戸百景に描かれています(←)。

広重の絵で比べて見ても、深川に比べてのどかで鄙びた感じのする元八幡ですが、現在の元八幡も、周囲は車がたくさん走っているものの、境内は静かで人影もありません。

この地の開発に貢献した砂村新左衛門の功績を称える碑があり、福井県人会から送られた水仙がちょうど盛りでした。
その他境内には、月山・湯殿山・羽黒山の出羽三山の碑や、富士信仰の富士塚、芭蕉の句碑などがあります。
 

「砂村新田」の作者宮部みゆきさんといえば、皆さんご存じのとおり、ご自身が生まれ育った東京下町を舞台に数々の作品を書いておられ、隅田川も深川もよく出てきますが、「淋しい狩人」という連作集では、「荒川土手下の古書店」が登場します。
文庫版の解説を見ると、この古書店には実際のモデルがあり、南砂町の「たなべ書店」というのがそうなのだとか。
この「たなべ書店」は、現在では映画パンフレットを中心にビッグな古書店チェーンに発展し、小説とはやや異なるイメージになったようですが、連作中の「詫びない年月」に登場する「『法律の抜け穴事典』を購入した駆け出し推理作家」というのは、宮部さん自身に違いないと思われます(笑)。

遊歩道が整備され、桜並木や公園があちこちにある隅田川に比べると、荒川は名のとおり、荒涼というか渺渺たるというか、素っ気ないコンクリート堤防がどこまでも続いて、かわせみの時代であればいっそう、江戸のはずれという感じが強かったのでしょうが、また隅田川には無い魅力もあったことだろうと思われます。


「どうも、とんだ迷惑をかけたなあ」
平井村の歓喜天の近くの茶店で昼飯を食べながら、東吾は長助達をねぎらった。
平井聖天燈明寺

東京都と千葉県を横断して東西に走る総武線は、その名も「両国」駅で隅田川を渡り、錦糸町⇒亀戸⇒平井⇒新小岩⇒小岩と来て、次の市川で千葉県に入ります。
平井で両国からの運賃が¥120から¥150になるのはともかく、平井も東京都23区内であり、間違いなく都会の街中ではあるのですが、大型ショッピングモールや映画街のある錦糸町・亀戸天神や亀戸ギョーザで賑やかな亀戸から来ると、ややトーンダウンというか、全国区から東京地方区へといった感があります。
西側でいうと、ちょうど新宿⇒中野(「青江屋の若旦那」)と同じような感じかな?

JR平井駅から徒歩5分ほどの所に、平井聖天として有名な、真言宗明雅山燈明寺があります。
浅草の待乳山聖天・埼玉県熊谷市の妻沼聖天と共に、関東三聖天といわれる由緒あるものです。
聖天は歓喜天ともいわれ、ヒンズー教を起源とする象の頭を持つガネ―シャ神の化身でもあるといい、夫婦和合・子宝授けの神として、広く庶民に信仰されています。

平井聖天の創建は平安時代と伝えられ、江戸時代には荒廃したものの、享保年間に京都から赴任した恵祐法印によって再興され、歴代将軍が御膳所に使用したほか、多くの文人墨客も参詣したといいます。
中でも有名なのは、江戸時代中期の歌舞伎役者、初代中村仲蔵が役作りのために願かけをして、それまでは主役に殺されるためだけに出てくる端役の悪役だった忠臣蔵の定九郎を、独自の工夫で大人気の役に創り上げたという逸話です。

本堂は関東大震災によって崩壊しましたが、文人としても知られた二十六世関澄道貫主によって、京都宇治平等院風の三屋根造りの新しい本堂が建立されました。
澄道貫主は、正岡子規や伊藤左千夫らとも親交が深く、境内の茶室は左千夫の設計によるものだそうです。

綾瀬川へ入ってから、東吾は船頭に声をかけて岸へ着けさせた。

・・・・・・・・・・・

白髭大明神の境内のふちを行くと、見渡す限りの菜の花畑であった。
花の中を、東吾はるいの手をひいて
万福寺へ出た。
荒川の流れが目の前にある。


荒川・中川・隅田川などの流れは、時代によっていろいろと変ってきており、大変ややこしいのですが、時代考証専門家の稲垣史生氏「考証・江戸を歩く」などの説明によれば、だいたい次のような事らしいです。
◆縄文時代は、現在の関東平野は、ほとんど東京湾の海だった(@_@)
◆関東北西山地から流れ出す多くの川が土砂を運び、海底の隆起などの変動と共に、陸地を形成していった。
◆その多くの川の中のリーダーが荒川と利根川であり、この2つの川は、氾濫を繰り返しつつ、次第に現在の関東平野を作った。
◆江戸時代は、千住大橋より上流が荒川、下流部分が隅田川(大川)と呼ばれ、秩父山系の水が集まり江戸を縦断し、江戸湾に流れ込む形となった。
◆荒川はもともとよく氾濫する暴れ川であったが、明治40年に大洪水がおこり、浅草・本所・深川の6割が浸水する大被害となった。
◆この原因は、河口の流れに比べて荒川の水量が多すぎ、すぐにあふれてしまう為だと考えられた。そこで、下流に流れる前に水勢を分散するため、岩淵水門(北区岩淵町)を起工、ここから隅田川の東側を流れるように、洪水に備えた広い河川敷を持つ荒川放水路が、20年がかりの大工事によって作られた。もともとバイパスとして作られた放水路だが、現在荒川といえば、この放水路が本流とされている。

「江戸東京散歩」の「隅田川向嶋絵図」で、当時の地図と現在の地図を比べてみると、現在の荒川(=荒川放水路)は、隅田川の倍くらいの川幅があるのに、江戸時代は隅田川のほうがずっと広く描かれているのがわかります。

綾瀬川というのは、隅田川の上流が荒川に近づく南千住あたりから北東に伸び、荒川と結んでいる川で、これによって三角地帯が出来ています。
この三角の頂点部分が、鐘ヶ淵と呼ばれる地域です。カネボウの工場があった所ですね。
「月と狸」でご紹介した多聞寺がここにあり、もう少し隅田川寄りの所には、梅若塚のある木母寺があります。

←の2つの絵は綾瀬川を描いたもので、左は広重の江戸百景「綾瀬川鐘か淵」。この絵に描かれている渡し船は、昭和中頃まであったそうです。
右の絵は広重ではなく、明治の浮世絵師、小林清親の「綾瀬川浅草寺遠景」。
この大きさではわかりませんが、浅草寺遠景と富士山も描いてあるようで、魚網を通して見るという構図が新鮮ですね。

小林清親は、杉本章子さんの直木賞受賞作「東京新大橋雨中図」の主人公で、最後の浮世絵師といわれる幕末〜明治の画家ですが、広重の江戸よりもっと範囲を広げた「武蔵百景」というシリーズを描き、この絵はその中の一つです。
もっとも、このシリーズはあまり売れず、百枚の半分も行かないうちに、企画がポシャってしまったんだそうですが・・・
広重に描いてもらえなかった世田谷区に住む私としては、とっても好い企画だと思えるのに、すご〜く残念です(笑)。

白鬚神社というのは、稲垣さんの「考証・江戸を歩く」によると、もともと日本に入植した高麗人の拠点で、埼玉県高麗郡の入間川河畔に多いそうです。
墨田区内にも、隅田川・中川・荒川の各地に数多く見られる白髭神社ですが、このへんにも高麗人が多かったの?誰か教えて〜

一般に、白鬚神社と言われれば、隅田川七福神の一つでもある向島の白髭神社を考えますよね?
検索しても一番ヒットするのがこれですし。
私も最初はそれだとばかり思って、本編を読みながら地図を見て、荒川土手からずいぶん遠くまで歩いたものだなぁ・・・東吾さん一人ならともかく、おるいさんを連れてそんなにウォーキングしたのかなぁ・・・それよりも、向島の神社に行くならそもそも綾瀬川の手前で降りるだろ?なんてすっかり考えてしまったのですが。

「隅田川向嶋絵図」を見ると、荒川べりに「万福寺」があって、それと「下木下川村」をはさむ位置に「白髭大明神・浄光寺・薬師堂・釣鐘堂」というのがあります。これだったんですね!

向島の白髭神社も、この絵図の反対側、隅田川べりにありますが、こちらは単に「シラヒゲ」とあるだけで地味です。
江戸の頃は、荒川の白髭のほうがメジャーだったのかな? 「江戸名所図会」にも、ページ数がたくさん割かれています。

「木下川」は、「きげがわ」と読み、そのうち訛って「きねがわ」とも呼ばれ文字のほうも「木根川」と書かれる場所もあるようですが、白髭大明神と共に浄光寺内にあった薬師堂が「木下川薬師」といわれて、かなり有名だったようです。
伝教大師最澄作の薬師像が祀られ、8〜9世紀にかけての創建ということで、たいへん有難がられていたようです。

この「隅田川向嶋絵図」を見ると、川の流れが現在とは全く違ってしまっていることがわかりますが、例の荒川放水路工事によって、この浄光寺も大変なことになりました。というのは、このお寺が、新しく予定された水路のど真中になっちゃったのです(!)
結局、新しい荒川の両岸に、白髭大明神は西の墨田区側・木下川薬師は東の葛飾区側、と、別れ別れになってしまい現在に至ります。

現在もやっぱり、木下川薬師のほうがメジャーで立派なHPもあり、薬師堂のなくなった白髭大明神のほうはすっかり地味になってしまって、向島の白髭の後塵を拝している・・・ってことなんでしょうかね。
でもこちらも、区民健康づくりラジオ体操広場として頑張っています♪
せっかく、荒川のすぐそばにあるので、川が借景となるカメラスポットなどになればいいんでしょうが、何といっても水害防止で作られた放水路ですから、しっかりコンクリートで固められた堤防が延々と続く土手下に、ポツンと鳥居が立っているという、やや淋しげな神社になっています。

小さな公園をはさんで白髭大明神と隣合う万福寺は、大永年間(16世紀前期)の創建と伝えられ、江戸初期に作られたと思われる数体の石仏があります。

万福寺も、荒川放水路工事に伴い、元の場所から石仏群と共に移転しました。

土手にのぼってみると、荒川の広々した流れは今も目に鮮やかですが、おるいさんをうっとりさせた菜の花はありません・・・

おまけ 

さて、本編の内容にそって、荒川沿いをいろいろ見てきましたが、菜の花がどこにも見当たらない!
現在の荒川では、もう菜の花を見ることが出来ないのでしょうか・・・

とがっかりしていたら、東吾さんとおるいさんが通った菜の花畑よりずっと上流ですが、「荒川の菜の花畑」は今もあることが判明(^O^)
東吾さんが言っていた「豊島のほう」をさらに越えて、県境まで越えて、川口市までやってきました。
まぁもっとも埼玉県川口市といっても、東京都は東西にやたら長いですが、北上すればすぐ埼玉県になってしまいますから・・・川口の善光寺は広重の江戸百景にも入っていますし、江戸の人々にとっては、渋谷や世田谷なんかよりも川口のほうがずっと「お江戸」だったと思います。

川口市は東京都北区と荒川をはさんで向かい合っており、両岸は緑地帯になっていてゴルフ場がたくさんありますが、京浜東北線が荒川を渡るあたりの川口側に、「荒川運動公園」という広い場所があって、そこに春は菜の花、秋はコスモスが一面に植えられるのです。

ただ、人間も飛ばされそうな荒川の川風のため、菜の花の開花は関東地方としてはかなり遅く、4月中旬頃だとか。
先日訪れた時は、桜は咲いていたのですが、残念ながら菜の花はまだ菜っ葉ばかりで「栽培中なので畑に入らないで下さい」という立て札が出ていました。
花どきになるとこんな感じらしく、満開を過ぎると摘み取りも許可されるそうです。

運動公園とJR線路をはさんで向かいに川口善光寺(「春の鬼」で、深川の町役人たちがお参りに出かけた)があり、その先の新荒川大橋を渡ると、再び東京都内へ。
ここは北区岩淵町というところで、先述の荒川放水路のための岩淵水門が設けられたところです。つまり隅田川と荒川の分岐点にもなっています。

広重の描いた「川口の渡し善光寺」善光寺は現在は大規模修復中で寺務所と墓所だけ      


防災船着場

ここに「荒川知水資料館」という施設があり、秩父の奥から発する荒川の姿や歴史、河川管理のいろいろを学ぶことが出来ます。

※引用は、文春文庫「秘曲」1996年11月10日第1刷からです

参考資料:「東京史跡ガイド<23>江戸川区史跡散歩」学生社
  「考証・江戸を歩く」稲垣史生 時事通信社

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