現場検証 「四谷塩町と新宿大木戸」「青梅街道と中野村」

 ― 青江屋の若旦那 ―

大川端町から四谷塩町となると、かなり遠いので、あらかじめ駕籠を頼んでおいて、るいを乗せ、千春を間にして見送っているお吉と嘉助に留守をまかせて朝の中に「かわせみ」を発った。
途中、二度ばかり小休みしたのは、日頃、あまり駕籠に乗り馴れないるいのためを考えたからで、それでも法要の行われる
長善寺へ着いたのは巳の刻(午前十時)より早かった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

四谷見附からまっすぐに続くこの道はやがて大木戸を通って新宿へ出る。


「見附」というのは、外敵の侵入を発見するため城の外郭に設けられた城門のことで、江戸城には、外堀沿いに36個の見附があったということですが、現在に名を残すものは、赤坂見附・四谷見附・市谷見附くらいです。

「四谷見附からまっすぐに続くこの道」というのが、今の新宿通り(旧甲州街道)にあたるようですね。

四谷見附は現在のJR四谷駅で、外堀通りと新宿通りの交差するところに位置し、駅の東側が千代田区(天野家のあった「番町」や、「夜鴉おきん」でご紹介した「麹町」など)、西側が新宿区四谷になります。

塩は戦国時代から重要な物資であり、江戸以外にも、塩の取引が行われていた場所に「塩町」の名が残っているようです。
四谷塩町(塩丁)は、「江戸東京散歩」の「千駄ヶ谷鮫ヶ橋四ッ谷絵図」で見ると、お城に一番近い所に「四谷塩丁一丁目」があり(現在もここは「本塩町」の名が残っている)、なぜかそこから少し離れて、現在の四谷3・4丁目にあたる所が「塩丁二丁目・三丁目」となっています。
ここはもう新宿との境で、四谷の大木戸をはさんで東側が「塩丁三丁目・二丁目」、西側が「内藤新宿」になります。内藤新宿は、シュミットさんがこでまりの写真を撮って下さった新宿御苑ですね。

いずれにしても、大川端からこのあたりに来るのは、本文にもあるように、お城の東側からぐるっと西側に来ることになるので、かなり遠い・・・「四谷くんだり」という感じにやっぱりなるでしょうねぇ。
今なら、JR京葉線で八丁堀から東京駅に出て、中央線快速に乗り換えて四谷というルートで30分もかからないと思いますが・・・車なら渋滞してなければもっと早いかな?
おるいさんの駕籠はどんなルートで行ったのでしょうね。
  

「千駄ヶ谷鮫ヶ橋四ッ谷絵図」の塩丁三丁目と二丁目の間に「長善寺 笹寺と云」という文字が見られます。


新宿御苑には、千駄ヶ谷門・新宿門・
そしてこの大木戸門の3つの門がある


長善寺は曹洞宗のお寺で、創建は天正3年、四谷最初の霊地として四谷山の山号を与えられ、将軍秀忠が鷹狩の際に立ち寄り、境内一面に熊笹がはえていたのを見て「笹寺」と命名し、以来その名称でも知られるようになったそうです。

「笹寺」長善寺に関するサイトによれば、当時の境内拝領地は2327坪もあったそうで、地図を見てもかなり広い敷地だったことが伺われます。

(←)境内には、慶応大学医学部と慶応病院(四谷の隣、新宿区信濃町にある)で使われる実験動物の慰霊碑もあります。

 

 
「あの格好だと、けっこう遠くまで行きそうだな」
甲州街道へ出るのかと思っていたのだが、成太郎は柏木から青梅街道へ入った。
こちらは正しくは
甲州裏街道と呼ばれているように甲州街道にくらべて道幅も狭いし、人通りもぐんと減る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「ところであんたの兄さんは中野村へ何をしに行ったんだ。江戸からはけっこう遠い所だが、知り合いでも訪ねて行ったのか」


江戸時代の青梅街道は、「青梅あたりで取れる石灰を江戸へ運ぶため」の裏街道だったんですね。この石灰は江戸城建設のためのものだったようです。
現在では、地下鉄丸の内線が下を走っており、道路の幅も広くて、むしろ甲州街道よりもメジャーな印象があります。「なんで青梅街道は五街道に入ってないんだろう?」という感じです。


新宿元標「ここが追分」              追分交番                追分だんご

甲州街道と青梅街道の分岐点が「新宿追分」で、現在の新宿三丁目交差点付近に記念碑があり、「追分団子」の店もあります(↑)

今の分岐点はこの記念碑のある場所とは少し離れた「新都心歩道橋」の所です(→)


現在の甲州街道・青梅街道分岐点


新宿から青梅街道を西へ向かうと、間もなく神田川にかかる淀橋に出ます。「隼新八」のお鯉さんの実家の団子屋のあるところですね。
この先がもう中野で、新宿からはすぐ近くですが、渋谷・新宿に比べると、JR中野駅の周囲の繁華街もやはり規模が小さく、全国的知名度もガタっと落ちるようです。
もっとも、繁華街といって渋谷・新宿を思い浮かべるのは、昭和もはるか戦後になっての東京在住者で、日本橋や神田・浅草を中心に生活していた江戸の人々には、新宿なんかより、むしろ今の千葉県のほうが親近感があったでしょうし、中野なんてとんでもない田舎だったことでしょう。
そもそも中野という名称が「武蔵野の中央」ということだそうですから・・・

私以上の年代は、中野というと、市川雷蔵主演で映画にもなった「陸軍中野学校」を思い出す人が多いかな? 中野学校は、陸軍士官学校とは違い、スパイ養成機関だったのですよね。
中野学校の跡地は、戦後は警察学校になりましたが、2001年に府中に移転し、現在、跡地を大規模な防災公園とする新たな町づくりの計画が進んでいるようです。

若い人には、中野といえば何といっても「中野サンプラザ」でしょうね。
もともとは、旧労働省所管の全国勤労青少年会館という地味〜な名称のもとに若者の雇用推進事業を行っていた施設ですが、2004年に民営化され、日比谷の野外音楽堂や武道館と並ぶコンサート・イベント拠点として、若者文化の発信地になりました。


警察学校跡地


中野サンプラザ(JR中野駅前)

   
中野は、五代将軍綱吉の時代、野犬保護施設が作られた所でもあり、犬のための「御囲御用屋敷」跡である「囲町公園」が昨年まであったのですが、これも警察学校跡地に隣接しているため、現在は再開発中で、すべての施設が取り払われ、空き地になっています。


囲町公園(2007年4月)

 

 
「若先生はなんだって宝仙寺なんて名前を口実に持ち出したんですか」
青梅街道に面して藁葺屋根の二王門がある。
参道は杉木立に囲まれていて、その先に又、門があって左右に垣が廻らされている。
境内は広く、本堂は堂々と立派なものであった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここまで来たついでだからと、近くの三重塔を見物し、茶店で一休みしていると好吉がきょろきょろしながらやって来た。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「享保の頃、八代様の時代だが、交国から雄雌の二頭の象が献上されてね。長崎から京都へ来て天子様にお目通りした後、江戸へ連れて来られて、将軍家にも拝謁したそうだ。もっとも雌象のほうは長崎へ上陸してすぐに病気で死んじまったんで、雄象一匹だけだがね。そいつが中野村の名主の所で養われて、最後にその骨がこの宝仙寺へ葬られた」


宝仙寺は、奥州後三年の役を平定して凱旋帰京中の源義家によって創建されたという、由緒ある真言宗のお寺で、現在は私立宝仙学園という学校も経営しており、今も広々とした敷地と、堂々たる本堂・三重塔のある名刹です。
本編の描写を読むと、当時は青梅街道からすぐに杉木立の参道があったのですね。
今は杉木立はもとより、周囲の垣も藁葺も見られませんが、青梅街道をさらに進めば、中野区から「杉並区」になるわけで、杉林と武蔵野の自然に囲まれた当時の裏街道周辺が目に浮かんでくるようです。

宝仙寺は歴代将軍にも尊ばれて、鷹狩りの際の休憩所としても使われました。
寛永年間には、奈良・法起寺の塔に範をとった飛鳥様式の三重塔が作られ、「中野の塔」として江戸庶民にも名を知られるようになりましたが、当時の三重塔は、「近くの三重塔」と書いてあるように、境内の外、もう少し新宿寄りの、現在区立中学のある場所にありました。

この塔は、惜しくも太平洋戦争で焼失し、宝仙寺境内に再建されている現在の塔は、平成四年(真言宗中興祖、興教大師八百五十年遠忌記念)という新しいものですが、再建にありがちな安っぽさを感じさせない、堂々たるものです。

面白いのは、古いお寺によく積み上げられている石仏かと思ってよく見ると、石仏でなく石臼なのです。
これは、淀橋の水車で蕎麦粉を挽くのに使われ、その後機械化によって放置されていた多くの石臼を、宝仙寺の住職が、長年、人々の食を支えてきた労をねぎらうとして作った「石臼塚」だそうです。

宝仙寺から、青梅街道をはさんで反対側(南側)に少し行った所(中野区本町2丁目)に、「あさひがおか児童館」という施設があります。この前の道路に「中野の象小屋跡」の立て札があります。
これが、東吾さんの説明にある、京都で中御門天皇の拝謁を受け(なんと従四位下の位も貰ったらしい)、その後、江戸の将軍吉宗のもとで飼育されることになった象なんですね。
日本での象の飼育なんて、21世紀の現在でも大変だと思いますが、将軍に丸投げされちゃった中野村の名主さんは、さぞや大変だったことでしょう。

この立て札や宝仙寺のサイトの説明によれば、象小屋を建てて象の世話をしたのは源助という人だったそうです。
名主の名なのか、名主のさらに下請けなのかわかりませんが、いずれにせよ、源助さんの手厚い飼育のおかげで、象は享保の次の寛保年間まで、渡来後14年も生き延び、死後は皮が幕府に献上され、牙一対は源助に与えられ、源助はそれを宝仙寺に納めて供養したとのこと。この牙も戦災で焼けたものの、一部は今も保存されているそうです。

もっとも、こでまり宗匠情報によると、象が日本にやって来たのは、これが初めてではなく、象が踏んだ初の日本の地は、この前の朝ドラマ「ちりとてちん」でも舞台になった、福井県小浜市だったということです。
2003年に開催された「若狭路博」では、この時の象行列の模様が再現されたそうで、↓で見ることが出来ます。
http://www4.ocn.ne.jp/~kouyouan/sanpomiti34.html

この時象を献上されたのは、室町将軍足利義持でしたが、彼は3年ほど後にこの象を朝鮮へ贈ってしまったらしい。なんかお中元・お歳暮のタライ回しみたいな気もするけど(笑)やっぱり飼育が大変だったのでしょうか・・・
この時を最初として、吉宗に献上された象は、日本に献上された5組目らしいです。吉宗の前には、家康も貰っているようです。

この象の故郷「交国」は、掲示板のクイズにして皆さんに盛り上げて頂きましたが、今のベトナムなんですね。
ベトナムというと「安南」のほうが知られていると思いますが、御朱印船交易の頃、安南はハノイを中心とした北ベトナムの鄭氏政権、交はフエ・ダナンを中心とした中部ベトナムの阮氏政権だったということです。

というわけで、ちょっと地味な中野でしたが、他にも新井薬師や、弥生時代の遺跡(弥生町)、太田道灌の城砦跡など、いろいろな時代の跡をたどることのできる町なので、おついでがありましたら、是非訪れてみてください。

※引用は、(株)文藝春秋刊単行本「小判商人 御宿かわせみ第30巻」平成17年4月30日第1刷からです

Back