現場検証 親父橋と日本橋の町々

―  息 子  ―


堀江六軒町から堀江四丁目へかけて、掘割に架っている橋の上で、男が二人、取っ組み合いをしている。

「親父のほうは大工の棟梁でしてね。堀江町の源太っていいますと、そっちのほうではかなり名前が通っています。名人気質といいますか、なかなかいい仕事をするそうで・・・」

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月は中天に、星はまばらであった。
大伝馬町
は軒並み木綿問屋である。

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橋の袂の欄干に、橋の名前が書いてあった。
親父橋か」
小さく呟いて、東吾は空を見上げた。
掘割にかかった小橋の名前が「
親父橋」、その橋の上で、親父を失った息子がたった一人で号泣している。


堀江町と親父橋

いろいろな「かわせみ」本にも、必ずといってよいほど引用されている、シリーズ中の名場面の一つです。

冒頭ではまだ、単なる「掘割に架っている橋」として登場する橋の名が、「親父橋」であったことが、ラストシーンで明かされ、物語の内容と呼応して読者の心に深い感慨をもたらす。素晴らしいストーリー構成ですね。

人文社『江戸東京散歩』の「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」を見るとわかるように、当時は神田川と日本橋川の間にも多くの掘割がありました。
日本橋川に流れ込む2本の掘割に囲まれたエリアの東側が堀江町で、一丁目から四丁目までありました。

この2本の掘割を東堀留川・西堀留川と呼んだそうですが、これは明治になってつけられた名称らしく、上記の絵図には掘割の名前は書かれていません。
この掘割も今はありませんが、一部が「堀留児童公園」という、避難場所を兼ねた公園になっています。

宇江佐真理さんの『十日えびす』という小説も、堀江町が舞台になっています。

 
当時の堀江町一丁目から三丁目までと堀江町四丁目は、現在では日本橋小舟町・小網町にそれぞれ吸収されて、堀江町という町名はなくなってしまいました。

親父橋については、ご本家の「かわせみFAQ」の「かわせみ橋づくし」の中にも説明がありますが、「親仁橋」「親慈橋」とも書かれ、元吉原(火事で新吉原へ移る前の吉原)を開いた庄司甚右衛門という人が、遊里への交通の便のために架けた橋で、この人が「おやじ」と呼ばれ皆に慕われていたことからついたそうです。
庄司甚右衛門は、元は小田原北条氏の浪人であったということですが、「庄司」といえばおるいさんの実家・・・もしかしたら親類だったりして??

物語のラストに、「親父橋の下を流れる水は、この先の思案橋を通って日本橋川から大川へ注いでいる」とありますが、思案橋もやはり庄司甚右衛門が架けたもので、吉原へ「行こうかどうしようか」と思案しながら渡るためについた名だとか。
有名な長崎の「思案橋」も、やはり、丸山へ行こうかどうしようかというもので、遊里の入口にある橋に共通する名のようです。

思案橋はまた、『恋娘』で、山口屋の娘が父親を川に突き落とした所としても登場していますね。

堀江町の北側に東西に伸びる大通りが大伝馬町で、木綿店が並んでいました。小源の兄たちが勤める「大和屋」もここにあったんですね。

広重は『名所江戸百景』で、大伝馬町を2枚も描いています。

(←)大店の宴会に呼ばれた帰りと見えるほろ酔いの芸者衆が歩いている「大てんま町木綿店」。軒を並べる各店のロゴも楽しいですね。

「大伝馬町こふく店」のほうは、今も東京駅北口に営業を続ける「大丸」の堂々たる暖簾。(→)
私はずっと、この行列は、町内の祭りか何かで、先頭を歩いているのは神主さんかと思っていたのですが、今回、ちゃんと解説(集英社:宮尾しげを)を読んだら、これは新築の建前の祝いで、先頭で幣串を持っているのは大工の棟梁、裃で続いて歩いているのが、鳶の頭と大工たちなんだそうです(!)
源太棟梁も、建前の祝いがあると、烏帽子をかぶり、幣串をかついで歩いたのでしょうか?

     

なにやら、墨痕鮮やかに書いてある。
神田連雀町、乾物問屋、小田原屋長兵衛、日本橋北鞘町、会席料理屋、丸屋儀兵衛、薬研堀不動前、宇治信楽茶問屋、井筒屋利助、鉄砲洲、医師、那須玄竹、上柳原町、藍玉問屋、阿波屋重兵衛、それに、神田皆川町、味噌問屋、伊勢屋勘兵衛だが、この家々になにか思い当ることはないか」

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「源さんが並べ立てた大店は、たしか日本橋神田ばかりだったが・・・」


神田・日本橋・銀座

今回、お話の中のスポットとしては、今はもう無い親父橋だけで、お寺も神社も出て来ないので、しかたなく、強盗被害にあってしまった6か所の大店(厳密には大店5軒と医師1軒ですが)の場所をチェックしてみました。
せっかく、源さんが「墨痕鮮やかに」書いてくれたことでもありますしね〜(^^ゞ

では、親父橋に一番近い所から行ってみましょう。

日本橋北鞘町(現:中央区日本橋本石町) 

外堀と日本橋川の合流点、一石橋の袂で、現在、日銀の別館「貨幣博物館」のあるあたりです。この博物館は入館無料ですが、日本の貨幣の歴史や通貨のしくみについて、充実した展示があり、お薦めです。

このあたりには刀剣の鞘を作る職人が多く居住しており、日本橋側を北鞘町、京橋側を南鞘町と呼んだそうです。
「江戸名物酒飯手引草」という案内書に、伊勢屋佐助・丸屋儀兵衛の会席料理屋が出ているとのこと。

一石橋                    威容を誇る日銀本館と向いの別館(貨幣博物館)                    迷子石

一石橋は、「お江戸日本橋」の隣の橋で、北橋詰に幕府金座御用の後藤庄三郎・南橋詰に御用呉服商の後藤縫殿助という、二つの後藤家があったため、後藤(=五斗)が二つで合わせて一石という洒落で名付けられたというのはよく知られています。

また、橋の袂に「たずぬる方・知らする方・迷ひ子の志るべ」の「迷子石」があったことでも知られています。迷子石は、かわせみストーリーの一つにもなっていましたね。

日本橋川に沿って、日本橋・江戸橋を右手に見ながら進み、荒布橋を渡ればもう堀江町です。源太棟梁にとっては、すぐ近間の北鞘町でした。

堀江三丁目と四丁目の間の道は、傘屋と下駄・雪駄を売る店が並んでいたため、「雨が降れば傘に下駄、晴れれば雪駄が売れる」として、「照降町」と言われるようになりました。

親父橋を越えれば、芝居町として発展した堀江六軒町・堺町。ここは『煙草屋小町』でご紹介した所ですね。

住吉町・難波町と、隅田川へ向って進んで行きます。「かわせみ」より少し前の時代になりますが、絵師の鳥居清信は、難波町に居住し、歌舞伎の看板を書いていたそうです。

隅田川に出る前にまた掘割(浜町川)に突き当たります。この両岸は、浜町河岸と呼ばれました。
難波橋(小川橋)を渡ると武家屋敷です。
東吾さんたちの母方の叔父の主家、牧野遠江守は、「上屋敷」と作品中にありますが、絵図では下屋敷のマークがついています。現在の浜町公園から都営地下鉄浜町駅のあたりだと思われます。

浜町川は昭和25年に埋め立られ、現在は緑道となっています。
この緑道と明治座通りの交差するところに、「勧進帳」の弁慶像が立っています。

ここから隅田川をさかのぼる方向へ、、両国橋のほうに向かって行くと、不動院のある薬研堀です。

薬研堀(現:中央区東日本橋二丁目)

宇江佐真理さんの『おはぐろとんぼ』は、江戸の「堀」を集めた珍しい短編集ですが、その中の一編「ため息はつかない」の舞台が薬研堀です。
薬研堀は、かつては鉤型の堀で、中央がぐっと深くなった堀の形が、薬草をすり潰す「薬研」に似ていたことから、薬研堀と命名されたといいます。この鉤型に包まれた部分が米沢町で、すぐ北側は両国広小路でした。

その後、堀の鉤型の長い方の部分が埋め立てられて町人地となり、短い部分だけが残りました。「薬研堀埋立地」と絵図にも記載されています。
埋立地には、小間物屋・伽羅油水油屋・蝋燭屋・地本問屋など、いろいろな商店が出来、両国広小路がすぐ近くであったことから、料理屋も多かったそうです。
「井筒屋利助」の茶問屋も、文政七年の「江戸買物独案内」に、「諸国茶問屋松寿軒井筒屋利助本店」として載っていたようです。

この地に不動尊が祀られたのは天正13年(1585)、豊臣秀吉の兵火を逃れた紀州根来寺の大印僧都が、根来寺の本尊不動明王尊像を納めた葛籠を背負い東国に下って、隅田川のほとりに堂宇を建立したのが始まりと言われます。
この根来寺の本尊不動明王像は、崇徳天皇の代に作られたものという、大変古いものだそうで、薬研堀に落ち着いてからも竹葛籠の中に入ったままで、葛籠不動とも言われているとか。
その後いろいろな変遷があり、現在は、川崎大師の東京別院・薬研堀不動院となっています。

薬研堀不動の近くに「デルフリ村」という、1階がパン屋さん、2階がカフェという、レトロな雰囲気のこじんまりとしたお店がありました。
「デルフリ村」とは、「アルプスの少女ハイジ」の舞台となった村の名らしく、「何故、日本橋でアルプス?」「何故、薬研堀でハイジ?」と、ちょっと謎なお店ですが、ランチセットのスパゲッティに、1階で販売しているらしいパンの一切れがおまけにつき、そのパンに乗せて食べろという訳なのか、卵サラダもついていて、なかなかでした。ミートソースのお味もGOODでした。

このあたり、東日本橋界隈は、お石ちゃんの布団ルートの時にご紹介したように、衣料問屋が軒を連ねているエリアです。
両国橋から続く靖国通りを西へ向って歩くと、日本橋から神田エリアに入ります。

神田川に架かる万世橋は明治になって出来たものですが、元をたどると、筋違見附の付属物として延宝四年(1676)に作られた筋違橋(すじかいばし)で、現在の昌平橋と万世橋との中間に架けられていました。

明治になって筋違見附が取り壊された後、その石材を再利用して、万世橋が作られました。当時の東京府知事大久保忠寛が萬世橋(よろずよばし)と命名しましたが、次第に「まんせいばし」という音読みの方が一般化しました。言いやすかったからでしょうかね?
今の若者は、「肉の万世」にちなんで橋の名が出来たと思っているかもしれません。

連雀町(現:千代田区神田須田町一丁目)

物を背負うのに用いる背負子(しょいこ)で、肩に当たる部分を広く編んで作った縄や、それを木の枠に取り付けた物などは「連尺」と呼ばれていました。江戸の行商人たちは、この連尺に荷物を担いで、各地を往来していました。

いっぽうで「連雀」は渡り鳥の雀を指す言葉でしたが、「連尺」を用いる行商人たちが渡り鳥のように見えた事から、「連雀」・「連尺」が同義語として用いられるようになり、行商人が「連雀衆」と呼ばれたりしました。

江戸に限らず、行商人が店を出していた地域には、各地に連尺(雀)町の名が残っています。
もっとも、神田の連雀町は、連尺の製造者が多く居住していたから連尺町となったもので、その後連雀町に改名されました。
連雀町の乾物問屋小田原屋も、文政七年の「江戸買物独案内」に載っていたようです。

もともと筋違御門脇にあった連雀町ですが、明暦の大火の後、そこは火除地とされ、現在の神田須田町にあたる位置に移転しました。
この時、一部の人々は多摩郡武蔵野に移り、新田開発に従事することとなりました。これが現在、東京都郊外の三鷹市住宅街に残っている、上連雀・下連雀の地名です。

南下してまた日本橋川のほうへ向かいます。

皆川町(現:千代田区内神田一丁目)

神田橋御門外の勘定奉行役宅から鍛冶町にかけて、東西に走る道筋に沿った片側町が皆川町でした。

神田橋は、現在は大手町と神田を分ける境界となっています。橋を渡ると、町の雰囲気が変わるのが感じられます。

味噌問屋伊勢屋も文政七年の「江戸買物独案内」にあったようです。

皆川町から鎌倉河岸、竜閑橋を渡って常盤橋御門を右手に見て進めば、また一石橋へ戻ります。


鉄砲洲(現:中央区明石町) 
上柳原町(現:中央区築地6−7丁目) 

鉄砲洲は、「びいどろ正月」でご紹介したばかりの、聖路加病院のある所です。

上柳原町は、「三つ橋渡った」の備前橋・数馬橋・軽子橋の近くで、現在「はとば公園」のあるあたり、当時この地域には藍玉問屋が集中していたそうで、文政七年の「江戸買物独案内」にも、播磨屋・熊野屋・島屋などと並んで阿波屋重兵衛の名が見られます。

参考:平凡社「日本歴史地名大系・東京都の地名」

     
「日本橋私記」    

池田弥三郎と言ってわかる人はたぶん団塊世代より上でしょうが、折口信夫に師事した国文学者で慶應義塾大学教授、生粋の江戸っ子学者としてテレビの娯楽番組などにも出演し、タレント教授の走りと言われた方です。
早稲田大学教授の暉峻康隆と共に「女子学生亡国論」を唱えたり、「国語力をテストで測るのはバカバカしい。英語の試験で国語力はわかる」として、文系でも慶應の入試から国語をなくすなど、直言を呈してマスコミの話題にもなっていました。

以前より、弥三郎という名前が江戸っ子らしくていいなぁと思っていて、妄想ストーリーのお千代ちゃんのお相手の名前にパクらせていただいたんです(^^ゞ

この弥三郎センセイの著書の一つに『日本橋私記』というのがあります。昭和47年出版で、図書館の保存庫から借り出したのですが、この当時の本って、最終ページに、著者の現住所が記載されていたんですね。昭和47年といえば、ついこの間のような気もするのに、ちょっとビックリ。
これは、池田教授が東京百年史の編集委員を委嘱された時、本編とは別に「ふるさと東京雑記」のようなテーマで著したエッセイをまとめたもので、お江戸の真中で生まれ育った人ならではの面白い話題が満載。「親父橋」の謂れも書いてあります。

日本橋は皆さんご存じのように、大阪にもありますが、大阪の「ニッポンバシ」に対して東京は「ニホンバシ」。
これはもともと、「日本橋」ではなく、丸木を二本渡した「二本橋」だったからではないか、という説も興味深いです。
二本の丸木が渡されていたというのは、こちらから渡る人、あちらから渡る人が常に行き交っていたということ。それまで江戸中に架けられた橋は、お城へ出入りする目的であったので、基本的に朝は城外から城へ、夕は城から城外へと、一方通行の「一本橋」でよかったが、初めて、街中で庶民が自由にあちらこちらを行き来するための橋として機能したのが日本橋であったと・・・非常に面白いですね。

また、著者自身が生まれ育った銀座(池田教授は、銀座の天麩羅屋「天金」の次男として誕生)について、「銀座は日本橋の場末」と書かれていたのもビックリでした。
我々は銀座通りこそ、パリのシャンゼリゼやベルリンのウンターデンリンデンに匹敵する、一国の花の都を代表するエリアと思っていましたが、実は「場末」だったとは・・・それだけ、「日本橋」の重みが大きかったという事でしょう。

そういえば、魚河岸といえば、今の日本人は築地を連想しますが、もともとは日本橋に魚河岸もあったのですよね。
『日本橋私記』にも、「わたしのうちの商売にとって、最も関係がある魚河岸」と書かれています。
広重の「東海道五十三次」最初の日本橋の絵にも、大名行列と共に、魚の籠をかついだ商人たちが描かれていますね。

       


※引用は、文春文庫『夜鴉おきん』1994年5月20日第6刷からです


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