現場検証 高源院・東海道品川宿

― 紅葉散る ―


滝川大蔵が、「そこの
高源院なら懇意にしているので・・・」
先に立って案内した。

翌日、神林通之進夫婦と東吾は、麻太郎を伴って御殿山の高源院へ行き、清水家の人々と、琴江の野辺送りをいとなんだ。


烏山へ移転した高源院

松葉山高源院は臨済宗大徳寺派の寺で、元禄十五年(1702)、久留米藩主有馬頼元夫妻のために、怡渓宗悦という僧侶が北品川に開山しました。怡渓和尚は茶人としても名高く、石州流怡渓派の祖として知られています。
これは当初、品川東海寺の塔頭の一つとして創建されたものでした。東海寺はご存じのように、寛永年間に三代将軍家光が沢庵和尚を住職として招き開いたものです。
高源院の本尊は釈迦如来の座像で、足利時代の作といわれるそうですが詳細は不明。開山の怡渓和尚の木像も作者時代ともに不詳だそうです。

しかし明治半ばには無住の寺となり、関東大震災によって廃寺になってしまったため、有馬氏一族の有志が再建をはかり、昭和14年に世田谷烏山に移転しました。

烏山というのは、南北朝時代から地名としてあるそうで、その由来は、カラスの群生する森があったためとも、黒土が山状に盛り上がった地であったことから「カラスの色の山」となったとも言われています。

このあたりは昔から寺院が多く、今も烏山の寺町として世田谷区民には知られています。
現在の世田谷区烏山エリアは、この寺町と甲州街道の南側の集落が合体したもので、京王線の千歳烏山駅は、南部のほうにあります。
今も甲州街道(国道20号線)を境に、静かな寺町・住宅地の広がる北烏山と、商店街で賑わう南烏山の二つの顔を持つ町で、隣接する粕谷地区には、徳冨蘆花記念館のある蘆花恒春園(蘆花公園)があります。

駅前から北に伸びる寺町通りの、一番奥まったあたりに位置する高源院。
「烏山の鴨池」と呼ばれる池に弁才天を祀る御堂があり、夏は睡蓮が池を埋めます。
春の躑躅・秋の萩など、境内には緑が多く、こじんまりしたお寺ですが、寺町の中でも四季の眺めは一番です。

     


汐留あたりですがすがしい朝になった。
「滝川どのからの使の者が申していましたが、今年の
御殿山の紅葉はとりわけ見事なようですよ」
八丁堀から品川の御殿山まで、およそ二里の道のりで、東吾と宗太郎だけなら一刻(約二時間)もかかりはしない。
のんびり行くのは、駕籠に乗っている香苗のためで、東吾は
大木戸の茶店で一服することにした。
このあたりから
高輪にかけては袖ヶ浦と呼ばれる海辺が広がっていて、なかなか見晴らしがよい。
「義姉上、安房上総の山がみえますよ」


八丁堀から品川へ

「初春弁才船」のときに、ちょっぴりですが御殿山の紅葉、そして品川湊の今昔などご紹介しましたが、今回は、東海道の日本橋の次の宿場としての品川を見てみたいと思います。

品川は、夜明け前に日本橋を出立した旅人にとっては、海を見ながら朝食をとる所であり、また江戸末期には50箇所ほどもあったといわれる、さまざまな宗派の寺院のどこかで、これからの旅の安全祈願もしたことでしょう。

いっぽう、西から江戸を目指して来た人々は、ようやく無事に道中を終えられたと、むしろ日本橋終点に着く時よりもほっとしたのが、品川に到着する時だったかもしれません。
荷物をおろして長い旅の疲れを癒し、明日の江戸入りに備えて一夜を過ごすのが品川の宿でした。

また旅人ばかりでなく、江戸市中の人々にとっても、春は御殿山の桜、夏は潮干狩り、秋は紅葉と、日帰りの行楽を楽しめる人気のエリアでもありました。

  広重名所江戸百景「高輪うしまち」

東吾・宗太郎を供に連れた香苗さん一行は、八丁堀から品川をめざします。
八丁堀は日本橋のすぐ隣なので、江戸から東海道を行く旅人たちと共に、京橋から銀座と、現在の昭和通りか銀座中央通りを進み、第一京浜通りに出て、新橋(=汐留)で朝を迎えたものと思われます。

何年か前の番外編「薩摩藩邸散歩」でご紹介したように、当時は、今JRの線路が走っているあたりから全部海だったのですよね〜

本編でも、絶好の秋日和の中、汐留から高輪の海沿いを進む場面の描写は、何度読んでも、散歩心をそそられます。

広重の絵のタイトルに「うしまち」とあるのは、芝の増上寺建立の時、京都から牛車が多数江戸に入って、その牛の宿が高輪に作られたために「高輪牛町」と言われたことに由来しています。
右手に車輪の一部だけが描かれている面白い構図ですが、これが牛車。
背景には虹、海辺に残された西瓜の皮を見ると、夏の夕立後の景色でしょうか、沖の舟の間に見えるのは、御殿山の土を削って造成した台場だそうです。  

高輪に大木戸が設置されたのは享保九年(1724)、それまでは新橋の芝口門にあったものが移されました。

江戸の南の出入り口として治安の維持のため、街道の両側に石垣が築かれ、夜は通行止めとなりました。

江戸を発った人たちの見送りは、だいたいがこの高輪の大木戸の所まで来て別れをしたようです。

現在に残る石垣の一部は、国の史跡に指定されています。

     


今朝は早くに
神奈川の宿を発ち、川崎から六郷川の渡しまで来たあたりから、琴江の気分が悪くなり、それでも大森までなんとか来たものの、遂に歩けなくなった。
「琴江どのには心の臓に持病があり、道中も難儀して居りました。それ故、
品川まで参れば医者もあるやに思い、それがしが一足先に参って、然るべき医者を伴い迎えに參る旨申し上げ、品川へ先行致しました」


神奈川から品川へ

いっぽう、琴江さんのほうは、東海道よりもさらに西の四国から、長い道中の末に、ようやく品川にたどりつきます。
讃岐多度津(香川県仲多度郡多度津町)から東京といえば、現代でもかなりの長旅・・・幼い子を連れ、その上病身の琴江さんにとっては、本当に大変だったことでしょう。それも密書を託されての旅とは、そのストレスたるや想像を絶するものがあります。
六郷の渡しあたりでついに具合が悪くなったというのは、箱根越えの疲れが出たのかもしれませんね。

箱根から、小田原・大磯・平塚・藤沢・戸塚・保土ヶ谷・神奈川・川崎を経て多摩川(六郷川)を越え東京都に入るコースは、箱根駅伝コースでもあり、また旧東海道ウォーキングコースとして、今も多くの街道好き・散歩好きの人々がよく歩いています。
この話には出てきませんが、戸塚〜保土ヶ谷のあたりは、最も旧東海道の保存に力を入れている所で、駅伝でおなじみの権太坂や、神奈川県内で唯一完全な形で残っていると言われる品濃一里塚、現在も直系子孫の方が住んでおられる保土ヶ谷宿本陣軽部家(保土ヶ谷の名主・問屋・本陣を兼ねていた)など、見どころ満載です。

お江戸日本橋から二番目の宿、品川の次の川崎宿は、徳川家康によって最初に東海道が整備された時は、まだ宿駅ではなく、品川の次は神奈川宿となっていました。しかし、品川〜神奈川間は五里もあって、伝馬や人足の負担が大きかったため、多摩川を渡ってすぐ、ちょうど品川と神奈川の中間に位置する川崎に、新しく宿駅が設けられたのです。
もっとも当時の川崎は低地で、川が氾濫するといつも洪水に見舞われていたため、宿場となるにあたって、盛土などの工事が行われました。

川崎から京浜急行で一駅横浜寄りに、八丁畷という駅がありますが、ここに芭蕉の麦の碑といわれる句碑(↑写真右)があります。
元禄七年五月、松尾芭蕉は深川の庵を後にして、郷里の伊賀へ向いました。五十路を越えた芭蕉にとって、これが最後の旅になるのではという思いは、彼自身にも弟子たちにもあったのか、弟子たちは、通常東海道の見送り場所となる高輪大木戸を過ぎても付いてきて、六郷川も越えてしまい、ようやくここで別れを惜しんだということです。
この時、このあたりの麦畑を見て芭蕉の詠んだ句が、「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」であったことから、麦の碑と言われています。
この年十月、芭蕉は帰郷した伊賀から再び旅に出たものの、大坂で病に倒れ、「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」を辞世に、51歳の生涯を閉じました。

多摩川と六郷の渡し

ハンドルネームたまこの由来でもある多摩川(それだけでもないんですが、わかりやすいのでそういうことにしています(^^ゞ )は、全長138km、武蔵と甲斐の境を源として、青梅から多摩丘陵・武蔵野台地の間を流れ、多くの支流・分流を作りながら、現在は東京都と神奈川県の境界として東京湾に流れこみ、その河口の東京側は羽田空港、神奈川県側は京浜工業団地となっています。

万葉集東歌にも「多麻河」として登場し、勅撰和歌集の多くにも詠まれている多摩川ですが、表記はいろいろあります。
「かわせみ」シリーズだけを見ても、「玉川の鵜飼」では「玉川」ですね。この話は甲州街道、現在の京王線に沿ったあたりが舞台で、高井戸から布田五宿、府中などが出てきました(いずれも京王線の駅にあります)。
「玉川」の文字は、「玉電」の名で愛されて来た玉川電鉄の路面電車が「東急世田谷線」になってしまってから、あまり目にすることがなくなって寂しいです。

いっぽう、「江戸の精霊流し」のおつまさんの故郷、登戸のあたりの多摩川は「多摩川」と書かれています。こちらは現在で言うと小田急線で、「玉川の鵜飼」の舞台よりも、もう少し南の、河口に近い所です。
登戸は、旧日本軍の陸軍科学研究所のあった所で、その資料館で「風船爆弾」の模型など見ることが出来ますが、今では、二ヶ領用水など、多摩川を水源とした用水路に沿って植えられた桜並木の美しい、春秋の散歩コースのほうが有名だと思います。

玉川・多摩川、さらに、霊園になると「多磨」になったり、ややこしい「タマ」ですが(笑)、一番河口に近い所は「六郷川」と呼ばれ、「六郷の渡し」が旅人たちを運んでいたのですね。

横浜までほぼ東海道と平行して走る京急線には「六郷土手」という駅があり、駅前に六郷の渡し跡があります。
家康が東海道を整備した時、六郷大橋が架橋されましたが、たびたびの洪水により、架け直しては流されるということが繰り返されたため、貞享五年(1688)以降は、渡し船のみとなりました。
この渡し船は、大正十四年に六郷橋が完成するまで、約240年にわたって続き、東海道の旅人ばかりでなく、厄除けの川崎大師に参詣する人々にとっても欠かせない足となりました。

現在では、第一京浜国道が多摩川を横切って立派な六郷橋となっていますが、ここでしばし川の流れに目をやり、往時の渡し船を偲ぶ人々の姿が見られます。

第一京浜(国道15号線)を北上すると、間もなく右手に六郷神社。江戸時代までは八幡神社と呼ばれていましたが、明治に入って六郷神社と称するようになりました。
六郷一円の総鎮守の社ですが、関東各地の八幡神社の例にもれず、これも、11世紀半ばの源頼義・義家親子の奥州遠征の途中、この地の大杉の梢に源氏の白旗を掲げて軍勢を募り、石清水八幡に武運を祈ったおかげで前九年の役に勝利をおさめ、帰り路に八幡を勧請したのが創建といわれています。

京急雑色駅を過ぎると蒲田、先日までやっていたNHK朝ドラ「梅ちゃん先生」の舞台です。
蒲田も江戸時代から、亀戸と並んで梅の名所で、広重の江戸百景には蒲田の梅屋敷の絵もありますね。ヒロイン「梅子」の名がそこから取られたのかどうかはよくわかりませんでしたが・・・
この梅屋敷の主は、「和中散」という薬の商いもしており、これは道中薬として東海道の旅人たちが必ず携帯していたそうです。

蒲田を過ぎると大森、もう品川まではあと一歩です。
明治期に東京大学に招かれた米国の生物学者モースが発見した大森貝塚が有名ですが、江戸時代には、ここに鈴が森の刑場(←)がありました。
八百屋お七・天一坊・鼠小僧などが皆、ここで処刑され、罪人たちの霊を祀る大きな石碑が立っています。

このあたりの海岸では、昔から海苔の養殖が盛んで、品川の宿場に続く旧東海道の商店街「美原通り」にある和菓子店「大黒屋」さん(→)の「海苔大福」は、優しい甘みの小豆餡と、皮に混ざった海苔のかすかな香りが、絶妙の取り合わせになっている名物和スイーツです。

今回の品川宿については、いつもお世話になっている「神奈川東海道ウォークガイドの会」編著の「神奈川の宿場を歩く」(神奈川新聞社)という本を参考にさせて(というか、ばっちりパクらせて)いただきました。

毎月最終週の土曜日に、日本橋から三島宿までを9回に分けて歩くガイドツアーは、東海道とウォーキングをこよなく愛するボランティアガイドのおじさま達が、懇切丁寧な解説付きで案内して下さる、超お薦め企画です。
上記の本は、このガイドツアーのテキストとして参加者に配布されるもので、タイトルは「神奈川の宿場」となっていますが、日本橋・品川についても詳しく記載があり、一人で散歩する時にもお役立ちです。


※引用は、文春文庫「春の高瀬舟」2001年3月10日第1刷からです


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