現場検証 麻布北日ヶ窪町―六本木今昔

― 目籠ことはじめ ―


その家は
北日ヶ窪のはずれにあった。
どこかで梅の香がすると思ったら、庭に紅梅の樹があった。その根本に太い青竹が何本も積み重ねられている。

・・・・・・・・・

麻布の北日ヶ窪に、清太郎と申す男が居ります。子細あって、先日、その仕事ぶりをみて来たのだが」


麻布北日ヶ窪町

六本木といえば、六本木ヒルズ・ミッドタウンと大々的な再開発が行われ、昔の面影が全く失われてしまったといわれる地域。
しかし、飯倉⇒六本木町⇒竜土町と続く大通り(現在の外苑東通り)を縦棒として、鳥居坂・芋洗坂という2本の横棒が麻布のほうへ伸びて合流し、アルファベットのPの字を描いているあたりは、「江戸東京散歩」地図を見比べてみると、ほぼ江戸時代と同じ道筋が残されていることがわかります。

「麻布日ヶ窪町」は、その、Pの下側の横棒、芋洗坂の先から鳥居坂と合流するまでの彎曲した通り(現在は下に都営地下鉄大江戸線が走っています)の両側に広がった町で、江戸時代には武家地と町屋が入り組んでいたそうです。
日ヶ窪は「日下窪」「日下久保」などと書かれる場合もあり、日当たりが良かったため「日南窪」と呼ばれたのが元であったという説、また大田南畝の説だそうですが、雛人形の製造地であったため「雛窪」と呼ばれていたという可能性もあるそうです。

その日ヶ窪町が南北、というか北西・南東に分かれ、北日ヶ窪町・南日ヶ窪町となっており、このお話の舞台となった北日ヶ窪町の東側には京極壱岐守の江戸上屋敷(清水琴江さんの勤務先、「虹のおもかげ」の現場検証でご紹介しました)、西側には毛利甲斐守(右京亮)の上屋敷がありました。


ヒルズの毛利庭園

この毛利江戸屋敷が、今月開業10周年を迎えたばかりの現在の六本木ヒルズで、その一部が「毛利庭園」として整備されています。

庭園とはいえ、当時の広大な毛利邸内の庭園と比べれば、ごく小規模なものでしょうが、都会の中の花と緑のスポットとして貴重です(地域に古くから住んでいる皆さんには、いろいろと不満もあるようですが)。
庭園内の池は、宇宙飛行士の毛利衛さんが放流した「宇宙メダカ」が飼育されているというのが売り。(のぞきこんでみましたが、まだ冬眠中なのか?よくわかりませんでした)。
もっとも、毛利衛さんと毛利家の直接の関係は不明だそうです。

隣接するのはテレビ朝日。どらえもんの顔が池に影を落とし、「アメトーク」や人気番組のロゴが目を惹きます。

この毛利家江戸藩邸は、元禄時代の赤穂浪士たちが討入り後お預けとなった四か所の大名屋敷の一つとしても知られています。
ここに預けられて切腹となったのは、武林唯七・岡嶋八十右衛門・吉田沢右衛門・倉橋伝助・村松喜兵衛・杉野十兵衛・勝田新左衛門・前原伊助・間新六・小野寺幸右衛門の十名でした。
再開発前は、この十人の名前の書かれた高札もあったということですが、今は赤穂事件と毛利邸預けについて簡単な説明板があるだけです。

毛利家といえば、「八重の桜」では敵役となっている長州藩をすぐに思い出しますが、実はこの六本木ヒルズにあった藩邸は、その支藩の「長府藩」のほうなのです。


長州藩と長府藩

ややこしいのですが、いっぱんに長州藩と言われているのは本家「萩藩」で、指月城とも呼ばれる萩城に藩庁を置き、江戸屋敷は上屋敷が外桜田、中屋敷が六本木の、現在のミッドタウン・檜町公園にありました。これが薩摩と共に幕末の雄藩として知られる長州で、司馬遼太郎の「世に棲む日々」でも、「桜田」と「竜土町」の江戸屋敷として登場します。
ちなみに伊藤俊輔や桂小五郎によって、吉田松陰の遺骸が密かに葬られた世田谷村若林(現在の松陰神社)は、毛利家の別荘のあった所で、大夫山と呼ばれていました。本家の藩主は、「松平大膳大夫」が官名であったためです。

そして、同じ毛利でも、藩主が右京亮・甲斐守であった支藩の長門府中藩(長府藩)のほうは、上屋敷が本家の中屋敷と近い六本木に、下屋敷は白金にありました。
国許には古い歴史を持つ長府城(櫛崎城)という城もあったそうですが、江戸幕府が元和年間に定めた一国一城令によって取り壊されてしまいました。現在関見台公園となっている所が城跡だそうです。

さらに、この長府藩の支藩(本家から見ると孫藩)にあたる清末藩(現在の下関市清末が拠点)というのもありましたので、複雑ですね〜
もっとも、これらはすべて、毛利元就の息子たちが藩祖となった毛利一族で、親密な関係には違いないのですが、それでも萩を中心の本家長州藩と、支藩の長府藩では、温度差は結構あったのかもしれません。
数年前に知り合った友人が山口県出身と聞いて、「4分の1長州人」の私はすっかり舞い上がり、松陰神社の話だの幕末関連の大河ドラマの話だの、盛り上がりかけたのですが、「私、山口っていっても、萩じゃなくって、長府のほうだから、そういうのよく知らないの〜〜幕末もあんまり興味無いし」と言われてガックリしたことがあります(^^ゞ

ちなみに毛利氏の祖は大江広元なんですね。今、BSで再放送中の「女人平家」で、清盛の娘祐子by吉永小百合との悲恋を経て(ここはフィクションと思われるが)、平家の敵である頼朝のもとに走り、鎌倉幕府の基礎の設立に大きな貢献をした学者です。
大江広元が拝領した土地の中に、毛利荘というのが相模国にあり(現在の神奈川県厚木市南部、伊勢原市との境に近い所に「毛利台」という地名が残っています)、その所領を父広元から受け継いだ四男の大江季光が毛利の姓を名乗ったのが毛利氏の始まりだそうです。
毛利元就の元も、広元の元から取られているのだとか。

南北朝内乱を契機に、毛利氏は安芸国へ移住、これが戦国大名毛利氏の拠点になります。
大内氏・尼子氏を降し、西国最大の戦国大名へと勢力を広げます(だいぶ前に、永井路子原作・内館牧子脚本で大河ドラマにもなりましたね〜)が、元就の孫輝元が関ヶ原の戦いで西軍の総大将に担ぎ上げられたことから、徳川幕府の世になって所領は周防・長門のみとなってしまいます。中国地方全体を擁していたのが本州西端に惜し籠められてしまった事、とくに長きにわたり拠点であった安芸を失った事は、毛利家にとってあまりにも大きな痛手であった事でしょう。

しかしながら藩士たちは皆、輝元を慕い、ついて来ても養えないからと暇を出そうとする殿様に無理やりくっついて萩へ移転し、上級武士は減った家禄に耐え、家禄もゼロになってしまった下級武士は百姓となって山野の開墾に励んだといいます。
幕末、長州藩が階級・身分を越えて強い結束を示したのは、百姓身分であった者も元々は毛利家の家臣であったという意識が共有されていたためともいわれています。奇兵隊だって、単に高杉晋作の思いつきだけだったら、実際に機能するのは難しかったはずですよね。
この点、戦国時代の確執を引きずった上士・下士の分断があった土佐や、お家騒動に揺れた薩摩とは違うのだ♪

また、薩長土肥の中で唯一、幕末四賢候のどのバージョンにも参加できていない毛利の殿様は、バカ殿だとか家臣に丸投げだとか言われていますが、それはもともと、政権担当者の中で考えを同じくする者のグループ同士で話し合ったり交代したりして藩政を取り仕切る、現在の政党政治的な考え方の萌芽が早くから見られたため、殿様の影が薄くなっていたということです。司馬遼太郎の受け売り、それもかなり勝手に解釈していますが(^^ゞ

もっとも、毎年新年を祝う席で、家臣が「今年は倒幕の機は如何に」と藩主に伺いを立て、それに対し「時期尚早」と藩主が答える毛利家の習わしというのは伝説で、確かな史料に基づく話ではないそうです。


朝日神社

「虹のおもかげ」の時にもご紹介した芋洗坂。

毛利庭園のほうから見て左手に、この土地の氏神を祀る朝日神社があります。
「江戸東京散歩」の「東都麻布之絵図」では、「朝日イナリ」と小さく記されています。

江戸の頃も、こじんまりとした神社であったようですが、草創は天慶年間と古く、市杵島姫大神(弁才天)を祀り土地の鎮守の社として、庶民の信仰を集めていたようです。

その後戦国時代には、織田信長の息女朝日姫(一説によれば、筒井順慶の姪で織田信長の侍女となった女性ともいう)が、渋谷から長者ヶ丸(現在の青山あたり)を過ぎる途中、草むらの中に光輝く稲荷の神像を見つけ、それを弁財天と合祀して「日ヶ窪稲荷」と呼ぶようになったといわれます。

その後、明和年間に「朝日稲荷」と改称され、明治になってから「朝日神社」と改称し、現在に至ります。

六本木といえば、「木枯し紋次郎」の原作者として有名な作家笹沢佐保氏の作品に「六本木心中」というのがありますね。昭和37年に発表された短篇で、「愚連隊」「支那蕎麦」「南京豆」などの単語が時代を感じさせます。
この作品の中で作者は、六本木地域が「都心と郊外の境界線」上にあり、都会の盲点と言える場所だと書いています。そこには、金はあるが生きることに意味を見いだせない若者たちが吹き寄せられるように集まり、華やかさの陰に虚無と孤独を醸し出すのです。

作者笹沢氏は六本木ヒルズ開業に先立つ2002年に世を去りましたが、昭和の「六本木族」に代って「ヒルズ族」が闊歩するようになった現在も、六本木というと、銀座・日本橋とも、渋谷・新宿とも違う、独特の雰囲気を連想させる街であることは変わらないようです。

六本木の建築事務所のサイトの中に、昔の麻布・六本木の姿を載せているコーナーがあり、大変興味深いです。


麻布本村町沽券図

今回は浮世絵お茶漬けカードの代りにこちらをご覧ください。
「麻布本村町沽券図」というものです。麻布日ヶ窪町だと良かったのですが、もう少し南側の、現在の南麻布にあたる地域で、本村町という名は今は失われてしまいましたが、本村小学校という学校名として残っています。
ちなみに、南日ヶ窪町と本村町の間にあった山崎主税助という旗本屋敷が、以前ブラタモリでタモリさんが探し歩いていた「幻の麻布のガマ池」のあった所です。

沽券図とは、江戸町奉行の命令により、江戸城下の各町名主に、家ごとの地価や道路の状況・家の規模・道幅などについて記録させ、提出させた絵図です。
町の屋敷ごとに、間口・奥行・坪数・家屋敷の金額(沽券金)・地主名などが詳しく記されています。

現在港区の郷土資料館に保管されている(所有者は港区教育委員会)この麻布本村町の沽券図は、延享元年(1744)に作成されたもので、増上寺関係の書類などと共に、港区有形文化財に指定された古文書13件のうちの一つです。
ちなみに有形文化財の絵画の部には、「浅妻船さわぎ」で訪ねた高輪二本榎の承教寺にある、英一蝶の「釈迦如来画像・絹本着色」一幅も入っています。


江戸の町名主

かわせみの物語には、いろいろな「名主」さんが登場していますが、「夜鴉おきん」に出てきた(名前だけですが)麹町の名主、矢部与兵衛さんや、「梅の咲く日」「春の鬼」に出てきた亀戸の名主、勝田次郎助さんは実在の人です。

「目籠ことはじめ」の嶋田伝蔵さんは「麻布の秋」にも出てきて、「麻布」の名の由来の解説などしているので、てっきりこれも実在の人物かと思って検索してみたんですが、どうも架空の人物みたいですねぇ。
嶋田という名主なら、新宿の「左内坂」の名のもとになった嶋田(島田)左内という実在のビッグな名主もいるんですが・・・

「名主」って、かわせみ物語ばかりではなく、時代小説・時代劇にはよく登場する存在ですが、今でいうと町長みたいなもの?それとも町会長?身分的には町人でも、苗字帯刀を許されてたんだよね?くらいの漠然としたイメージしかありません。
そのあたりを詳しく解説してあるのが、→の本です。

同じ名主といっても、最も古い伝統と格式を持ち世襲制であった草分名主・寛永の末頃までに成立した町の古町名主・寺社門前地の門前名主・そして上記三種以外の、もともと代官支配であった町々を中心の平名主、と4段階があったとのこと。

徳川家康じきじきの下命によって名主となった由緒ある「草分名主」については、元文三年の「草分名主一覧」というのが上記の本に載っており、麹町の矢部与兵衛と市ヶ谷田町の嶋田左内の名が見られますが、麻布の名主の名はありません。

土地の売買・管理や人別改めから、捨て子や駆け落ち者の対応など、広い範囲に渡って、名主とその配下にある家主(大家)が町内の管理にあたっていた事は、小説やドラマを通して何となく推察できていましたが、江戸城で催される「御能拝見」が町人にも許されており、町内の人々を引率して拝見に伺うのも、「年頭参賀」と並んで名主の重要な役目の一つであったというのも興味深いです。

名主については、直木賞作家杉本章子さんの「名主の裔」の文庫解説者、縄田一男氏の説明もわかりやすいですが、「草分名主」(草創名主?)などにについては、「大江戸八百八町と町名主」の記載とちょっとずれもあります。

「名主の裔」の主人公、斎藤月岑は、神田雉子町・三河町の名主を代々つとめる斎藤家に生まれ、その最後の一人として、明治の世への変遷を見届けます。
斎藤月岑といえば「江戸名所図会」の著者として有名な人ですが、祖父から三代に渡って書き継がれたこの大作が、どのような視点から描かれていたのか、その息づかいまでが伝わってくる作品です。

大河ドラマもいよいよ幕末から維新へと進んでいますが、江戸の市井の一庶民の目を通して世の移り変りを描いたこの作品も、これを機会に読み返してみたいと思います。

参考:平凡社「日本歴史地名大系・東京都の地名」
    WEBサイト「
麻布細見


※引用は、文春文庫「秘曲」1996年11月10日第1刷からです


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