現場検証 「蔵前」
これは現代と江戸の重ね地図で、蔵前タウンガイドのサイトにあったものです。パクっちゃってすみません。 |
お千絵さんの実家、札差「江原屋」のあった「御蔵前」は、現在の都営浅草線「浅草橋」駅から「蔵前」駅あたりの一帯です。 通りの片側は全部、幕府の米蔵になっており、片側だけが町屋となっていたため「御蔵前片町」と呼ばれていたそうです。 この米蔵は、元和のはじめ、浅草鳥越の丘を削り、その土砂で大川の河岸を埋め立てた土地に建設されました。そして元和7年(1621)「御蔵前片町」という町名となり、周辺に札差の店が数多く並び、商業街として繁栄しました。 切絵図で見ると、河岸が一番堀から八番堀まで、櫛の歯のように、小さな堀が並んで作られているのが特徴的ですが、ここが関東各地の米どころから米を運んでくる船の船着場になっていたのですね。 大川のこのあたりに棲息する蜆は、荷揚げされるときにこぼれる米粒をたっぷり餌にしているため、際立って大きく美味なので、「御蔵蜆」と呼ばれて珍重されたという話が、「御宿かわせみ」の原型ともいえる平岩先生の「江戸の娘」に出てきます。 昭和9年に、御蔵前片町に周辺の福富町・新旅籠町などが統合され「浅草蔵前」と町名が変わり、さらに昭和39年、浅草桂町と統合して、現在の蔵前1−4丁目となっています。 都営大江戸線にも「蔵前」駅ができましたが、浅草線「蔵前」駅との間は300mほど離れています。 |
地下鉄「蔵前」駅 左:大江戸線 右:浅草線 |
蔵前橋から厩橋を望む(左は浅草橋の問屋街、右は本所。本所側を首都高速6号線が走る。) 蔵前橋・厩橋ともに江戸時代にはなく、御厩河岸の渡しで船で渡していた。 |
隅田川ぞいならではの商店がみられる |
蔵前橋のたもとにある、「浅草御蔵跡」の碑です |
楫取(かじとり)神社 米蔵の土台石を九州から運ぶ船が、遠州灘で遭難を |