現場検証  お江戸猫めぐり ― 猫絵師勝太郎 ―


今回のお話は、ほとんど舞台が「かわせみ」の周囲にとどまっており、木挽町(現・銀座四丁目)の狩野画塾跡も「浅妻船さわぎ」の時に検証済みなので、ちょっと趣向を変えて、勝太郎さんが自分の絵のテーマとしている「猫」について、ゆかりの場所を訪ねてみることにしました。
それではお江戸の中心部から順に行ってみましょう。

両国回向院(猫塚)

現在の回向院は、国技館から国技館通りを深川方面へ向かって、突き当たりに正面の鳥居がありますが、嘉永の「本所絵図」を見ると、当時は両国橋から入っていくようになっているのです。
橋を渡ってそのまま元町をまっすぐ抜ければ、今の「両国シティコア」や「両国幼稚園」の敷地も含めた、広い回向院の境内へと進んでいくようになっていたんですね。

現在、両国幼稚園の入り口に「回向院正門跡」という説明板がありますが、それによれば、「両国橋があたかも参道の一部を成しているかのよう」で、橋の上からはっきりと正門が見えたそうです。
それはまた、回向院が江戸城と真正面から向かい合っているということでもあったわけです。

回向院と猫の縁ですが、「猫芸者おたま」(「十三歳の仲人」収録)で、東吾さんが回向院前の岡場所の「金猫銀猫」に関するウンチクをうっかり披露して、おるいさんにキレられる所がありましたね。
「浅草天文台の怪」(「恋文心中」収録)にも 兜武者の幽霊を見たという両国広小路の芝居小屋の者たちに、東吾さんが「そうか、お前達、猫を買いに出かけた帰りだったんだな」と図星をさす場面がありました。

回向院前の岡場所の遊女たちが、なぜ金猫・銀猫と呼ばれていたのかという事については、「揚げ代が金一分の遊女を金猫、二朱(金一分の半額、銀の貨幣)の遊女を銀猫と呼んだ」という説や、回向院の傍に二軒の店があって、西側の店が金の猫、東側の店が銀の猫の置物を店頭に置いていた、などの説があります。

回向院は、明暦の大火いわゆる振袖火事をきっかけに、人間のみに限らずありとあらゆる命の供養を行うため、四代将軍徳川家綱より下された隅田川東岸の土地に創設されました。
「有縁・無縁に関わらず、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説く」のが現在まで守られてきた当院の理念である、と公式HPにも書かれています。
犬猫や鳥などのためのペット供養碑も、壮大なものが建てられています。

回向院境内は、相撲関係を始め、いろいろ見るべきものが多いのですが、一番人気は鼠小僧の墓のようです。墓掃除でもしているのでしょうか、数人が鼠小僧の墓のまわりに群がっています。
近寄ってみると、彼らが囲んでいるのは、墓石の前にもう一つ建てられている石膏のような白っぽい石で、これをしきりに削っているのです。

この石は、「お前立ち」と呼ばれるもので、なんと「削り取り用」にわざわざ建っているのだとか。
鼠小僧が、何度も大名屋敷などに侵入しながら、長年捕まることなく大金を盗み続けた運にあやかろうと、墓石を削ってお守りに持つ風習が江戸の当時より盛んで、墓石を削り取る人が後を絶たないので、本物の墓の代わりに欠け易い石で作った「お前立ち」が出来たということです。

「捕まらない」ことから、「どんな試験もするりと抜ける」と、受験生の合格祈願も多いそうです。

この、鼠小僧の墓の横にあるのが、今回の目的地(?)「猫塚」です。
恩返しをした猫を祀ったものだというのですが、恩返しの物語にはいろいろなバージョンがあり、その一つは、魚屋の定吉という男が、女房とその間男に殺害されるが、以前に定吉に命を助けられた黒猫がその復讐をして姦夫姦婦を成敗するも自分も殺され、忠義の猫だというので、お上から褒美を頂いた上、回向院に手厚く葬られたという、六代目三遊亭円生の噺「猫定」。

また、貧乏に苦しむ夫婦のために、飼い猫がどこからか小判をくわえて来たという話や、さらにその小判を自分の店から盗んだものと思った店主が猫を殺し、あとで誤解だったとわかって手厚く葬った(「ごんぎつね」の猫バージョンか?!)などというのもあります。

ともかくも、猫ゆかりの社寺はけっこう多いようですが、猫と鼠の墓が仲良く並んでいるのはここだけかも?

落合の自性院(猫地蔵)

猫寺という愛称でも親しまれている新宿区落合の自性院は、真言宗豊山派の寺院で、西光山自性院無量寺といい、もともとは弘法大師空海が日光山に参詣の途中、観音を供養したのが草創といわれています。

15世紀後半、豊嶋城(現在の練馬区)城主豊嶋佐ヱ門尉と太田道灌とが合戦した江古田ヶ原の戦いの折、日暮れて道に迷った道灌の前に1匹の黒猫があらわれ、道灌をこの寺に案内。
道灌はここで一夜を明かしたため危難を免れ大勝利を得、猫のおかげと感謝して、この猫を大切に養い、死後は地蔵尊を造って盛大な供養をし、この地蔵尊を当院に奉納したものが、自性院の寺宝となったそうです。
この猫地蔵尊は秘仏で、2月3日の節分会の時だけ開帳されます。

 

地蔵堂には猫グッズがいっぱい

また江戸時代中期、明和年間に、小石川の豪商加賀屋の娘で、金坂八郎治という人に嫁した女性が貞女の誉れ高く、彼女の冥福を祈ると共に、貞女の鑑として後世に伝えるために奉納された猫面地蔵尊というものもあるそうです。

世田谷の豪徳寺(招き猫)

今の世田谷区を中心とする武蔵国南部は、足利一族の武蔵吉良氏の所領でした。(ちなみに「忠臣蔵」の吉良氏は、西条吉良氏で、三河が領国)
現在、世田谷城址と大渓山豪徳寺は、小田急線と世田谷線の線路に囲まれるように隣接していますが、豪徳寺のある所はもともと、武蔵吉良氏の居館で、世田谷城の主要部だったといわれています。
文明12年(1480年)、当時の世田谷城主吉良政忠が、伯母弘徳院のために「弘徳院」と称する庵を結んだのが豪徳寺の始まりで、当初は臨済宗でしたが、天正12年(1584年)に曹洞宗に転じました。

戦国時代になると、武蔵吉良氏は北条氏と姻戚関係を結び、その支配下に組み込まれました。
北条氏康の娘が吉良氏朝に嫁いだ時に、氏康の叔父北条幻庵が花嫁に心得を書き綴って渡したという「幻庵覚書」が、世田谷区立郷土資料館に保存されています。

             世田谷城址                   豪徳寺本殿            三重塔は21世紀の新設     延宝七年作の梵鐘

北条氏が小田原の戦いで敗れ、その後豊臣氏も滅んだ後、武蔵吉良氏の世田谷領は、徳川のものとなり、徳川譜代の井伊家に与えられます。井伊家は彦根三十五万石と合わせて、江戸屋敷賄い分として世田谷を支配することになりました。
これにより、弘徳院は豪徳寺という名になり、井伊氏の菩提寺となって、伽藍も整備されました。
豪徳寺の寺号は、二代目井伊直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」からつけられたものです。

桜田門外の変で落命した幕末の大老井伊直弼の墓を始め、代々の井伊家の墓所となっている広い一画があり、墓石がずらりと並んでいます。

              井伊家墓所入り口                      井伊直弼の墓                    井伊家の墓

有名な「豪徳寺の招き猫伝説」は、二代目井伊直孝主従が鷹狩の帰途、豪徳寺(当時は弘徳院)の門前を通りかかったあたりでにわか雨にあい、猫に手招きされて寺に入ったところ、直後に雷が門前の大木に落ちて、直孝はあやうく一命を救われた。そのため、猫を命の恩人・観音の化身として、招福観音堂に祀り現代にいたる、というもので、細かい所は多少違ういくつかの説があるものの、広く全国的に(?)信じられています。

もっとも、「猫の手招き」というのは、猫が前足で顔をこする、いわゆる「猫が顔を洗うと雨が降る」という、気象変化の生物学的影響が、手招きのように見えたのではないかという説もあります。

さらには、落雷から命拾いをしたというほど大げさなものではなく、井伊直孝主従が雨宿りでたまたま立ち寄った寺で住職の法談を聞き、そこから縁が出来て、家の菩提所としたというような事ではなかったのか?
寺の住職としては、吉良氏も北条氏もいなくなり、徳川系の新しいパトロンに売り込む必要があったわけで、にわか雨を幸い招き入れて、気合い充分に営業トーク、じゃなかった法談を行ったと(笑)

そして、「招き猫伝説」は、井伊家による豪徳寺への庇護も終わってしまった明治維新後、参詣客誘致のために、檀徒有志が創作したものである、というのが実際のところだそうです。
「招き猫伝説」というより、「豪徳寺生き残り策秘史」って感じですね〜

生き残りのための客呼び込み活動は、豪徳寺駅前商店街を中心に今も盛んでして、「たまにゃん祭り」なるものが最近企画されています。
「たまにゃんは、ひこにゃんの彼女」というふれこみで、ひこにゃんが豪徳寺に来たというポスターなども作られていますが、彦根では認知されていると思えない(笑)
彼女っていうより、一夜妻(?)みたいなもんじゃないのかにゃ〜(^^ゞ

境内の三重塔は、最近新築されたものですが、二階部分の屋根の下の梁の所(ここの事を「蟇股(かえるまた)」と言うんだそうですが)には、ぐるりと一周するように、一つの面に3種類ずつ、十二支の動物の像が飾られています。

「浅草天文台の怪」にも十二支の像が出てきましたし、十二支の像がある寺社も決して珍しくありませんが、豪徳寺のこれが非常に変わっているのは、十二支のトップである鼠(子)の所に、猫がいることです(!)
写真がボケボケでよくわからないと思いますが、招き猫が2匹の鼠の間にはさまれて、おいでおいでをしていますね。
猫も「ね」、鼠も「ね」ということで、仲良く同居。

というわけで、豪徳寺の干支は、十二支ならぬ十三支なのです。

 

立川の阿豆佐味神社(猫返し神社)

最後は、だいぶお江戸から遠くなりますが、立川市砂川町にある阿豆佐味(あずさみ)天神社です。
この天神社は、村の鎮守の神として寛永六年(1629)に創建されたもので、医薬・健康・知恵の神とされる少彦名命(すくなひこなのみこと)及び文学・芸術の神とされる天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祭神としています。
本殿は立川市最古の木造建築物で、市の有形重要文化財に指定されています。

この天神社の中に、「猫返し神社」と呼ばれるお宮があり、ここに祈ると、行方不明になった愛猫が無事に戻ってくると言われているのです。
ジャズピアニストの山下洋輔さんの猫がいなくなり、この神社にお願いしたら帰ってきたということが実際にあったそうで、山下さんは感謝してピアノで越天楽を演奏して奉納したのだとか。
それがエッセイに書かれたこともあり、全国から愛猫の無事や健康を祈る参拝者が訪れる、知る人ぞ知る名所になっているのだそうです。

もともとは、この社は蚕影神社(こかげじんじゃ)と呼ばれるもので、安政年間に常陸国から勧請され、養蚕の神を祀るものでした。
この立川砂川地区は、養蚕の盛んな地域だったためです。
蚕の天敵である鼠の害を防ぐという意味で、この神社の守り神が猫であったことから、「猫返し」の伝説も出てきたのかもしれません。

ペットの猫ちゃんの無事の帰宅を祈る絵馬が、ぎっしりと掛けられています。
また、一匹だけの狛犬のような格好で座っている白猫もいますが、これは「ただいま猫」と呼ばれている石像で、参拝客が愛猫の無事を祈りつつ撫でて行くのだそうです。

境内にはまた、水天宮社もありますが、ここの水鉢にもまた猫が(右)
この水天宮の祭神は、水天である天之御中主大神(あめのみなかぬしのかみ)のほか、安徳天皇・建礼門院・二位ノ局が祀られています。


さて、今回はお茶漬けカードは無いのかと思ってらっしゃる方も多いかもしれませんが、江戸の浮世絵師で、無類の猫好きとして知られているのは、歌川国芳という人です。
国芳の名に覚えがなくても、一人の人間の顔の中に、おおぜいの人間が押しくらまんじゅうをしている、この絵に見覚えがありませんか。『みかけハこハゐがとんだいゝ人だ』(見かけは怖いが、とんだ〈=非常に〉良い人だ)という題の国芳の代表作です。
江戸のポップアーティスト・江戸のイラストレーターなどとも言われ、幅広い分野で、斬新な発想を盛り込んだ作品を多数生み出した絵師です。

昨年の江戸東京博物館「隅田川」展では、音声ガイドを担当した俳優のARATAさんが、この国芳を好きだと語っていました。そして、奇想とサプライズの典型のように見える国芳が、実は非常に正当派の画風に対するリスペクトを持ち続けていたという話もしていて、たいへん面白かったのを記憶しています。

国芳は常に多数の猫を飼い、懐に猫を抱いて作画していたと伝えられています。
さらには、家に猫の仏壇があり、死んだ猫の戒名を書いた位牌が飾られ、猫の過去帳まであったとか。
もちろん猫を描いた作品も数多く、左の作品、団扇絵「猫のすずみ」は、江戸の夏の風物詩である涼み舟の船頭が、乗り込もうとする芸者に手をさしのべている様子、船頭も舟の乗客も芸者も、猫の姿で描かれていながら、「こういう人見たことある〜」と思ってしまいますね。

国芳は、広重と同じ歌川派で、年齢も同じ寛政九年生まれですが、広重とは直接の兄弟弟子ではなく、国芳の師匠の豊国と、広重の師匠の豊広とが、歌川豊春の同門であったという関係でした。
但し、おおぜいの弟子を有名絵師に育て、名声を博した豊国に比べると、豊広のほうは、比較的地味だったようです。


かわせみシリーズには、「猫絵師勝太郎」のほかにも、「薬研堀の猫」「猫一匹」「招き猫」など、猫の出てくるお話はたくさんありますよね。

また、猫ゆかりの寺社として有名なものに、今戸神社があるのですが、これは、まだお題になっていない「初卯まいりの日」(「小判商人」収録)に登場するので、またのお楽しみに取っておきましょう♪

   

参考:「浮世絵師列伝」 平凡社「別冊太陽」2006

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