現場検証 「深川木場」「三十三間堂跡」

― 柿 の 木 の 下 ―

木 場 公 園

甘酒を飲んで、まっすぐ木場へ行った。
ひとくちに
木場といっても、かなりの広さで、大きな掘割に向って広い材木置場がずらりと並んで居り、それをまた幾筋かの掘割が分断している。

深川は、「名月や」(団子検証)、「女師匠」(神明宮)、「福の湯」(佐賀町・七福神)、「秋の蛍」(閻魔堂)に続いて五回目。
そろそろネタも尽きて来るんじゃないかと(笑)いう心配をよそに、まだまだこれからも、「かわせみ」の深川名場面は出て来そうです。
今回の「木場」は、中でも、深川の最も深川らしいスポット。広重の「名所江戸百景」にも、多くの深川名所が出てきますが、左の「深川木場」には、木場の雪景色と、その雪の中でも、蓑笠姿で木材をあやつる職人たちの姿が描かれています。

切絵図で見ると、小名木川の南側から、仙台堀を越えて、当時はもう海のそばだった州崎弁天(「さんさ時雨」の舞台ですね)のあたりまでの、広い一帯がずっと「木置場」となっていますが、これが現在に至るまで木場と言い習わされてきた、江戸の材木商と川並鳶の町です。
この地域に加えて、冬木町・平久町・平野町などの川筋も、すべて木置場として機能していたそうです。まさに深川といえば木場、ということだったんですね。

明治以降もずっと、材木業関連の倉庫や貯木場としての使用されてきましたが、太平洋戦争後、東京湾に新しい埋立地「新木場」ができると、貯木場はそちらに移転。
跡地は、江東区の防災都市計画のもと、1969年に木場公園が計画され、92年に開園となりました。

仙台堀川をはさんで、北側の平野4丁目と南側の木場4丁目とにまたがり、東京都現代美術館・テニスコート・噴水広場・日本庭園・植物園などを含んだ、広大な緑地公園が、木場公園です。
公園の南北のパートは、仙台堀川にかかる木場公園大橋で結ばれています。

現在の木場公園にも池があり、毎年角乗りのイベントも行われるそうですが、残念ながら、江戸の木場を思わせる雰囲気はほとんど残っていません。

ご本家の「御宿かわせみの舞台」で紹介されている、木場親水公園というのが、木場公園のもう少し隅田川寄りにあり、そこは、いかだ遊びや、角乗り練習の出来る池などもあって、多少なりとも昔の風情を残しているようです。


これだけの緑地は東京でも貴重なスペース


仙台堀川にかかる木場公園大橋


木場公園大橋から仙台堀川


リニューアル中(今月末再開)
の都現代美術館

 

 

三 十 三 間 堂 跡

文吾兵衛の家は亀久橋を渡って三十三間堂へ向う裏手にあった。

木場公園のある平野4丁目から、仙台堀川に沿って、平野3丁目・2丁目と来て、亀久橋を渡り、首都高速9号深川線(「秋の蛍」の時に訪れた、昔の油堀)をくぐると、深川三十三間堂の跡に出ます。

「通し矢」で有名な京の三十三間堂を模して、寛永時代に作られた江戸の三十三間堂は、もともと、浅草にありました。
将軍家光の命により、吉田久馬助重信という旗本が日置流で射初めを行ったという記録があるそうです。

しかしその後、元禄11年の火事で焼失。
大川を越えて、富岡八幡宮の東側に再建されたものが、「かわせみ」に登場する三十三間堂です。

右上の広重「名所江戸百景」の絵で見ると、確かに京都の三十三間堂とそっくりですね。
南北六十六間(120m弱)・東西四間(7m強)の堂宇で、本尊として千手観音が祀られていたそうですが、京都の本家三十三間堂にあるような多数の仏像は無かったそうです(一説によると、江戸の三十三間堂には、東照宮の御神像が置かれていたとか)。

広重の絵で、三十三間堂の向こう側に見えるのは、まるで海のようですが、富岡八幡との間にある掘割の、川幅を実際よりかなり広く描いたものだそうです。
掘割の手前に、富岡八幡の脇門があり、境内へ続く道になっているようです。
脇門の横に並んでいるのは、よしず掛けの茶店でしょうか。

江戸の三十三間堂でも通し矢が行われていたそうで、「さんさ時雨」の中に、「最多記録は天保十年四月に太田信吉という紀州藩士の次男が、一万二千十五本を射、その中の通し矢は一万千七百六十本」と書いてありますね。
もっとも「かわせみ」の幕末の頃では、世の中の流れが弓術から離れていき、通し矢もあまり盛んではなくなったとか。

この堂宇も、明治初期に取り壊されてしまい、現在では三十三間堂跡を示す石碑があるだけです。

昔はこのあたりを数矢町といったそうですが、この通し矢の数を数えたことにちなんだ名です。
現在は町の名は変わりましたが、富岡八幡の隣にある「数矢小学校」の校名に残っています。
ちょうど下校時刻になったようで、ランドセルを背負った子供たちが、石碑の前にある横断歩道を渡って、帰ってゆく姿が見られました。
どこかから、「髭もじゃもじゃ」が、子供たちを見守りながら微笑んでいるような・・・

 


亀久橋


亀久橋から見る仙台堀川

 

富 岡 八 幡

「すまないが、寄り道するよ」
小文吾にささやいて、東吾は
富岡八幡の境内へふみ込んだ。無論、小文吾もついて来る。この前、甘酒を飲んだ茶店のところまで来てみると、女は境内の奥を歩いて、柿の木の前に立った。

富岡八幡は、東吾さんもるいさんも、何かというと寄っており、永代橋と並んで、「かわせみ」最多数登場スポットかもしれません。
江戸散策ブームで、いろいろなガイドブックが出ていますが、どの本にも漏れなく紹介されており、もちろん、ご本家の「舞台」のページにも入っていますね。

深川名所であるだけでなく、東京都最大の八幡神社・日本最大の神輿を持つ社としても有名。
現在は別々となっている深川不動や、もと別当寺であった永代寺(赤い花の色が印象的な広重の名所江戸百景「深川八まん山びらき」は、永代寺の庭園公開イベントを描いたものです:写真右)、それに八幡宮の北側にある数矢小学校まで、江戸時代にはすべて富岡八幡の敷地であり、広大な境内に、毎日多くの参詣者が行き来していたようですね。

しかし、この境内に柿の木があったかな?と探してみましたが、イチョウ・クスノキなどの大木はあるものの、柿の木らしき木は見つかりませんでした。
お寺や神社って、梅や桜は多いけれど、あんまり「生りもの」の木は見かけないような気がするんですが・・・昔はよくあったんでしょうか?

柿の木の代わりに目立っていたのが、江戸中期、50歳を過ぎて測量術を学び、全国を歩いて精度の高い日本地図を作るという大仕事を成し遂げた人物として、最近の熟年世代の熱い視線を浴びている、伊能忠敬の像です。
忠敬は深川黒江町(現在の門前仲町1丁目)に住んでおり、測量の旅に出かける時は、必ず富岡八幡に参拝して旅の安全を祈願したという縁があるためだそうですが、この像は平成13年に建てられた新しいものです。
この年の秋、伊能忠敬を主人公とした「子午線の夢」という映画が公開され、忠敬とその妻を演じた加藤剛さん・賀来千香子さんらが、除幕式に参加したそうです。

 

 


おまけ(辰巳八景最中)

さて、深川散歩の後は、いつもいつも伊勢屋さんでは芸が無いというわけで、今回は、地下鉄東西線「門前仲町」駅の、伊勢屋さんとは反対側の出口近くにある、「岡満津」というお店で、「辰巳八景最中」を購入しました。

この最中は今年1月に、朝日新聞東京版の「逸品ものがたり」というコラムで紹介されたため、それを見て訪れる客が増えたそうで、私がお店に入ったときも、2人ほど先客がありました。
ここは伊勢屋さんに比べると間口もずっと小さく、食堂もありませんが、いかにも下町らしい雰囲気の漂うお店です。

深川界隈は、江戸城から見て辰巳(南東)の方角にあることから辰巳と呼ばれ、男名前と意気地を売りとする「辰巳芸者」の土地でもあったことはご存じのとおりです。
「辰巳(巽)八景」とはもともと、長唄の曲名で、江戸期の深川の名所がうたわれていました。
八景のそれぞれを舞台とした山本一力さんの短編集「辰巳八景」という本もあります。

大正末期に、和菓子店「岡満津」の初代が、これら八景を当時の深川風景に合わせてリニューアルし、「新・辰巳八景」を宣伝しようと、新聞広告で募集して選出し、その絵柄を最中の皮に刻み、3種の餡を入れた最中を創案したそうです。
現在の店主は三代目だとかで、私が行ったときにお店で接客していたのは、三代目夫人かパートの店員さんかわかりませんが、急に増えた客に、ややとまどっているようでした。

「辰巳八景」と銘打っているところから、先客たちも私も、八個入り一箱で売っているものだと早合点していたのですが、どうもお店の側としては、あまり「八景」への思い入れは無く、こし餡(最中の皮:白)・粒餡(ベージュ)・白餡(ピンク)の3種類というほうがこだわりのようです。
基本的にバラ売りで、どの最中の皮がどの景色ということはほとんど意識せずに作られているようで、八景を揃えるのはもちろん、どの景色と指定して買うことは出来ないらしいのです。「紙をむいて最中を出してみないと、どの景色かわからないんでね〜」
初代の熱意とは、だんだん方向がずれて来ているのか? それとも、最初からこういう売り方だったのかなぁ・・・

八景をそろえて一箱で売れば、皆それを買って帰るだろうに、話を聞いた客は、「じゃぁ3種類の餡のを一つずつ」あるいは「二つずつ」くらいしか買わずに帰ってゆく。商売気の無い店だなぁと、ちょっと可笑しくなりました。

でも、大正時代の「新・辰巳八景」が江戸の辰巳八景とはだいぶ違っていたように、現在の木場も小名木川も、戦争や再開発を経て、すっかり変わってしまっています。
最中そのものの品質を第一のこだわりとする、というのも、おおいにうなずける所です。それこそが、今も脈々と続く、江戸の職人気質というものかもしれません。

早速帰宅して食してみると、今どき珍しい大きさの正方形の皮の隅々まで、ぎっしりと詰められた餡は、どの種類も飛び切りの美味しさ! 最中の皮との相性も抜群です。
甘味も程よく、粒餡と白餡は、豆の形と味も生きていて、確かに皮に刻まれている景色の絵柄など、食べるほうに夢中で、うっかり忘れちゃう感じかも(笑)。
それを見越してかどうか、包み紙に八景各所の名と絵柄が印刷してあり、復習(?)出来るようになっています。

【注:○○八景のいろいろ】

「八景」は、いずれも「落雁」「帰帆」「晴嵐」「暮雪」「秋月」「夜雨」「晩鐘」「夕照」の組み合わせとなっており、季節感と水や空の醸し出す伝統的な風景美で目を楽しませるものですが、もともとは、中国で古くから讃えられてきた湖南省洞庭湖付近の八か所の景勝を言い、北宋時代に描かれた「瀟湘八景図」が元祖です。

日本では、江戸初期に関白をつとめ、本阿弥光悦・松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」といわれた近衛信尹という人が作った和歌巻子が元になったといわれる(他にも諸説あり)、「近江八景」が有名となり、続いて元禄年間に、水戸藩主徳川光圀の招いた明の禅僧が、鎌倉の能見堂(現:横浜市金沢区能見台)から見た景色を故郷の瀟湘八景になぞらえて七言絶句の漢詩とした「金沢八景」も知られるようになりました。
近江八景・金沢八景は、共に広重が描いています。
金沢八景の影響か、湘南地方には「逗子八景」「鎌倉八景」などいろいろあり、台湾・朝鮮にもいくつかの八景があるらしいです。

   

落雁

帰帆

晴嵐

暮雪

秋月

夜雨

晩鐘

夕照

世界の元祖 瀟湘八景 平沙落雁 遠浦帰帆 山市晴嵐 江天暮雪 洞庭秋月 瀟湘夜雨 烟寺晩鐘 漁村夕照
日本の元祖 近江八景 堅田の落雁 八橋の帰帆 粟津の晴嵐 比良の暮雪 石山の秋月 唐崎の夜雨 三井の晩鐘 瀬田の夕照
関東元祖 金沢八景 平潟の落雁 乙舳の帰帆 洲崎の晴嵐 内川の暮雪 瀬戸の秋月 小泉の夜雨 称名の晩鐘 野島の夕照
長唄 辰巳八景 木場の落雁 永代橋の帰帆 佃町の晴嵐 石場の暮雪 州崎の秋月 仲町の夜雨 永代寺の晩鐘 やぐら下の夕照
岡満津 最中 新・辰巳八景 州崎の落雁 佐賀町の帰帆 小名木川の
晴嵐
富ヶ岡の
暮雪
相生橋の
秋月
木場の夜雨 霊岸の晩鐘 安宅の夕照
                 

※引用は、文春文庫「犬張子の謎」1998年11月10日第1刷からです

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