現場検証 「浄念寺」 ― 横浜から出て来た男 ―

大川が浅草御蔵と呼ばれる幕府の御米蔵の脇を入って鳥越橋の下をくぐり、御蔵前片町のところをまがって、まっすぐに東本願寺の横から浅草田圃まで続く掘割を、このあたりでは新堀と呼んでいた。
その流れが浅草福富町二丁目を抜けたところの東岸に、浄念寺という浄土宗、芝増上寺の末寺がある。境内は二千百五十坪、福富町に向って門前町があり、茶店や花屋、子供相手の玩具屋などがちまちまと軒を並べている。
秋の彼岸に、神林東吾がるいと二人、浄念寺へ墓参に訪れたのは、ここがるいの生家、庄司家の菩提寺の故であった。


庄司家の菩提寺「浄念寺」は、本編にあるとおり、「浄土宗・芝増上寺(「美男の医者」のお題の時に行きました)の末寺」として、今も、台東区蔵前4丁目の交差点の所にあります。

この交差点を南北に通っているのが「新堀通り」で、本編に、「新堀」と呼ばれる堀割として書かれているものです。
隅田川とほぼ並行になる通りで、「江戸東京散歩」地図と本編を読み合わせると、この堀割に出るには、現在の蔵前橋とJR鉄橋の間のあたりから入って、ちょこちょこと左右に曲がりつつ行くようですが、今は水路の面影は全くなく、車がひっきりなしに通る道が交差しています。たぶん昔は、車の代わりに、舟が行き交っていたのでしょう。

浄念寺は「境内は二千百五十坪」と書かれていることもあり、広々とした静かなお寺というイメージをずっと持っていました。

文庫28巻の「梅屋の兄弟」でも、おるいさんと東吾さんが、黄粉餅を持ってお参りに行ってますが、この時は蝋梅が馥郁とした香りを漂わせています。「横浜から・・・」ではラストシーンで銀杏が黄ばみ始めています。
きっと境内には、他にもいろいろな木々があり、庄司家を始めとするお墓が、緑に包まれて静かに眠っているに違いない・・・

と、ところが・・・
門には、「浄土宗」「浄念寺」という立派な文字が左右にあり、門を入れば、芝増上寺からのお知らせもある(寄付依頼みたいだったけど)。書いてある通りです。

しかし・・・ぎっしりと、隙間もなく整列しているお墓の数々、な、なんだこれは、ちょっとイメージ違う・・・

梅の木もない! 銀杏もない!

気を取り直してお墓の間を歩いてみます。残念ながら、散策とは言い難く・・・ロッカー室のロッカーの間を歩く感じに近いのですが(汗)

それでも、墓石に刻まれた文字や家紋は、立派な時を経てきたらしいものが多く見られ、由緒ある寺であることを示していました。

そりゃ、もちろん、まずは探しましたよ!
「庄司家」の文字。

でも、2回まわったけど見つからず・・・なぜか「天野家」はあったのだけどね。

あと、戦前戦後を通じて活躍、引退後は、あの「ウルフ千代の富士」の育ての親でもあった、横綱「千代の山」の墓も、この浄念寺にありました。「昭和53年10月 九重勝昭 門弟一同による千代の山雅信之碑」とあります。

この九重勝昭親方は横綱「北の富士」で、この人も千代の山も千代の富士も、出身は北海道ですけど、何か浄念寺に縁があったのでしょうか。

都会の古いお寺にはありがちですが、墓参に来る人もいなくなり、この家の縁者は今どうしているのか、わからずじまいというお墓もいくつかあるようで、その連絡を待つ貼紙もありました。
「庄司家」がその中に無くってよかったですが・・・

墓地のスペースこそ、昔の二千坪に比べるとずっと縮小されてしまったようですが、浄念寺、営業的にはかなり頑張っています。
お寺の隣には、ぐっと目を引くモダンなビルが建てられ「セレモニーホール浄念」と堂々の看板がかかっています。

http://www.ceremony-jyonen.com/

立派なホームページもあり、いろんな斎場と提携して、手広く営業している様子です。

ちなみに「ワンデイベーシック \945,000」から「花祭壇100名コース\1,562,400」までいろんなコースが選べるようです。

う〜む50万くらいのはないのかな〜〜これは葬式代だけで戒名代は含まないのか?
あっ話がそれた

何にせよ、庄司家の菩提寺が、明治維新や大戦を乗り切って繁栄しているのは、おるいさんのためにも喜ばしいことに違いありません。

しかし、いつ頃この規模に縮小されたのかは、ホームページにも書いてないのでわからないのですが、たぶん平岩先生は、広い境内であった頃をご存知なのでしょうね。
お寺のほうのHPも作って、ご本尊や歴史についても、紹介してほしいものです・・・浄念寺は、「鬼平」にも出てくるお寺ですしね〜

この浄念寺のある蔵前の北側、元浅草・西浅草のあたりは、お寺がいっぱいで、仏壇仏具店なども軒を並べています。

また、南側は、鳥越神社(「鳥越神社の文字は鳩山一郎氏の書)のある「鳥越」。
藤沢周平「用心棒日月抄シリーズ」の青江又八郎がその裏の長屋に住んでいた寿松院などもすぐ近くで、このあたりの散策もしたかったのですが、彼岸も近いというのにちっとも勢いの衰えない残暑にげんなり、またの機会として、地下鉄の駅に向かったのでありました。

※引用は、文春文庫「御宿かわせみ(22)清姫おりょう」1999年11月10日第1刷からです

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