現場検証 「浄念寺」 ― 横浜から出て来た男 ―
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この交差点を南北に通っているのが「新堀通り」で、本編に、「新堀」と呼ばれる堀割として書かれているものです。 |
浄念寺は「境内は二千百五十坪」と書かれていることもあり、広々とした静かなお寺というイメージをずっと持っていました。 文庫28巻の「梅屋の兄弟」でも、おるいさんと東吾さんが、黄粉餅を持ってお参りに行ってますが、この時は蝋梅が馥郁とした香りを漂わせています。「横浜から・・・」ではラストシーンで銀杏が黄ばみ始めています。 と、ところが・・・ |
しかし・・・ぎっしりと、隙間もなく整列しているお墓の数々、な、なんだこれは、ちょっとイメージ違う・・・ 梅の木もない! 銀杏もない! 気を取り直してお墓の間を歩いてみます。残念ながら、散策とは言い難く・・・ロッカー室のロッカーの間を歩く感じに近いのですが(汗) それでも、墓石に刻まれた文字や家紋は、立派な時を経てきたらしいものが多く見られ、由緒ある寺であることを示していました。 |
そりゃ、もちろん、まずは探しましたよ! でも、2回まわったけど見つからず・・・なぜか「天野家」はあったのだけどね。 あと、戦前戦後を通じて活躍、引退後は、あの「ウルフ千代の富士」の育ての親でもあった、横綱「千代の山」の墓も、この浄念寺にありました。「昭和53年10月 九重勝昭 門弟一同による千代の山雅信之碑」とあります。 この九重勝昭親方は横綱「北の富士」で、この人も千代の山も千代の富士も、出身は北海道ですけど、何か浄念寺に縁があったのでしょうか。 |
都会の古いお寺にはありがちですが、墓参に来る人もいなくなり、この家の縁者は今どうしているのか、わからずじまいというお墓もいくつかあるようで、その連絡を待つ貼紙もありました。 墓地のスペースこそ、昔の二千坪に比べるとずっと縮小されてしまったようですが、浄念寺、営業的にはかなり頑張っています。 |
立派なホームページもあり、いろんな斎場と提携して、手広く営業している様子です。 ちなみに「ワンデイベーシック \945,000」から「花祭壇100名コース\1,562,400」までいろんなコースが選べるようです。 う〜む50万くらいのはないのかな〜〜これは葬式代だけで戒名代は含まないのか? 何にせよ、庄司家の菩提寺が、明治維新や大戦を乗り切って繁栄しているのは、おるいさんのためにも喜ばしいことに違いありません。 しかし、いつ頃この規模に縮小されたのかは、ホームページにも書いてないのでわからないのですが、たぶん平岩先生は、広い境内であった頃をご存知なのでしょうね。 |
この浄念寺のある蔵前の北側、元浅草・西浅草のあたりは、お寺がいっぱいで、仏壇仏具店なども軒を並べています。 また、南側は、鳥越神社(「鳥越神社の文字は鳩山一郎氏の書)のある「鳥越」。 |
※引用は、文春文庫「御宿かわせみ(22)清姫おりょう」1999年11月10日第1刷からです