現場検証 「麻布市兵衛町・今井町」

 ― 花の雨 ―

「盗賊の件もですが、吉井どのの倅、喜一郎どのが入りびたっているのは麻布市兵衛町の岡場所の紅屋と申す見世で、相手の妓は浮舟とわかりました」

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麻布市兵衛町の岡場所は見世の数は多くないが、総体に小ぎれいで、けっこう大見世があり、家の造りも悪くない。
「局見世にしては妓の衣裳も綺麗でございますし、客種も上等で、繁盛して居りますようで・・・」


「麻布の秋」などのお話でも舞台となっている麻布は、狸穴と同様、仙五郎親分の縄張りで、「月と狸」でご紹介した青山の西南にある町です。麻布の今昔については、「
麻布細見」という、地元の方が作っていらっしゃる非常に詳しいサイトがありまして、今回はそれに頼りっぱなしで手抜きです(^^ゞ
もっとも、当時、麻布市兵衛町・麻布今井町と言われていた地域は、現在の地図では麻布でなく、六本木と虎ノ門の境目くらいになるんですね。
このあたり、アークヒルズ・泉ガーデンなど、最近の再開発ですっかり様相が変わり、残念ながら江戸の面影は全くありません。もう少し南の麻布十番・広尾のあたりへ行くと、歴史を感じさせる静かな寺町などもあるのですが・・・。

「花の雨」では、市兵衛町の岡場所が物語のポイントになっていますが、「麻布細見」サイトに引用されている「港区史」によれば、確かに市兵衛町に岡場所はあったけれど、天保の改革で取り払われたという記録があるそうです。
かわせみの時代は天保よりもっと後ですが、改革でいったん取り払われたものが、政権交代のあと、また出てきたということなんでしょうか。

泉ガーデン裏手にある偏奇館跡のプレート

地元の方々にとっては、市兵衛町というと、岡場所よりも、「永井荷風が住んでいた所」というのが一番に思い出されるようです。
荷風は1920年(大正9年)、ここに木造洋館を建て「偏奇館」と名付けて居住。「墨東綺譚」を始めとする数々の名作がここで生まれましたが、東京大空襲で偏奇館は灰燼と化してしまいました。
関東大震災にあったのも、ここに住んでいる時で、日記「断腸亭日乗」には、震災の様子が次のように描写されています。【注】

九月朔。昜爽雨歇みしが風猶烈し。空折々掻曇りて細雨烟の来るが如し。
日将に午ならむとする時天地忽鳴動す。
予書架の下に坐し瓔鳴館遺草を讀みゐたりしが架上の書帙頭上に落来るに驚き、立って窗を開く。
門外塵烟濛々殆咫尺を瓣せず。児女雑犬の聲頻なり。塵烟は門外人家の瓦の雨下したるが為なり。
予も亦徐に逃走の準備をなす。時に大地再び震動す。書巻をを手にせしまゝ表の戸を排いて庭に出でたり。
數分間にしてまた震動す。身体の動揺さながら船上に立つが如し。
門に椅りておそるおそる吾家を顧るに、屋瓦少しく滑りしのみにて窗の戸も落ちず。稍安堵の思をなす。
晝餉をなさむとて表通なる山形ホテルに至るに、食堂の壁落ちたりとて食卓を道路の上に移し二三の外客椅子に坐したり。食後家に歸りしが震動歇まざるを以て内に入ること能はず。
庭上に坐して唯戦々兢々たるのみ。物凄く曇りたる空は夕に至り次第に晴れ、半輪の月出でたり。
ホテルにて夕餉をなし、愛宕山に登り市中の火を観望す。
十時過江戸見阪を上り家に歸らむとするに、赤阪溜池の火は既に葵橋に及べり。
河原崎長十郎一家来りて予の家に露宿す。
葵橋の火は霊南阪を上り、大村伯爵家の隣地にて熄む。吾廬を去ること僅に一町ほどなり。

【注】「墨東綺譚」の「墨」は、本当は「墨」にサンズイヘンのついた漢字なのですが、パソコンでは出せないのでこの文字で代用しています。
2月16日〜4月6日、世田谷文学館で、永井荷風展が行われており、「市兵衛町」と書かれた偏奇館の土地の登記権利証書や、間取り図も見ることができました。この展示は新しい荷風論として話題になっている持田叙子「朝寝の荷風」(人文書院2005)に基づいてプロデュースされたもので、都会でのシングルライフのさきがけとなった荷風には、現代の若者たちやお笑い芸人と共通する感覚が非常に多いとしています。「断腸亭日乗」はまさに荷風の「ブログ」である、など目からウロコでした。

ここに出てくる「山形ホテル」は、この日以外にもしょっちゅう荷風が食事に行っていたようで、日記によく出てきますが、この山形ホテルの主人の息子さんが、俳優として活躍した山形勲氏 (1915 - 1996) だそうです。

山形ホテルの跡地には、昭和47年に麻布パインクレストというマンションが建ちましたが、平成16年に、昔の町の名を残す麻布市兵衛町ホームズとして建て替えられました。
これは、住民主導の建替え決議によって都心部の老朽化マンション建替えに成功した初の事例だということです。 

「麻布市兵衛町ホームズ」と山形ホテルの説明板

 
たしかに、寺が五、六軒並んでいたが、喜一郎が入って行ったのは湖雲寺という、門前町を持つ曹洞宗、芝愛宕町青松寺の末寺であった。
境内はかなり広く、桜樹の横に茶店がある。

本文にも「境内はかなり広く」と書いてあるとおり、「江戸東京散歩」の「今井谷・六本木・赤坂絵図」(万延二年)を見ても、他のお寺の倍くらいある広い敷地です。
「麻布細見」によれば、この湖雲寺は、慶長年間に四谷に創建されたのですが、元禄年間の火事で焼失、四谷の土地は幕府が召し上げ、代替地として現在の所になったとか。
幕末までは「湖雲寺門前」という町名もあったそうで、なかなか由緒あるお寺のようです。

現在の地図を見ると、六本木通りの六本木4丁目交差点の近くらしいので、通り沿いに探しながら行くと、広い駐車場があり、その隅っこにお墓がいくつか並んでいて、石仏像なども古いのやら新しいのやら雑然とあるのが見えました。

近づいてみると「湖雲寺」と書いてある閼伽桶などもあり、あ〜ここでは幼稚園や書道塾の代りに駐車場を副業にしているのかと納得したのですが、本堂・山門はどこ?

グルグルと周囲を探し回ったのですが見つからない!

茶店はもちろん、桜の樹もありません。

お墓があるのですから、少なくともお墓の管理事務所みたいなものはあるはずだと思うのですが・・・今どきのお寺さんには時々あるように、どこかビルの一角にでも入ってしまったんでしょうか?
駐車場の土地の持ち主は、今はもうお寺ではないのでしょうか?

湖雲寺の現在はどうなっているんだろう・・・と気がかりなままです。

 
「思い出しました。以前、およねをみたのは、今井町の名主の野辺送りの時で、あの女は手伝いの中にいたんです」
早速、
今井町の名主の家へ出かけて、およねを知っているかと訊いたところ、家人の誰もが心当りがないと答えた。

今井町は、麻布と赤坂の境の地域で、赤坂にも赤坂今井町があり、これは「天が泣く」で長助が喜久江を尾行していくとき、赤坂今井町を通って青山に行ったと言っていますね。

先の「江戸東京散歩」の絵図の題名にもあるように、当時の今井町は「今井谷」と呼ばれ、谷のような地形であったようです。
江戸が開かれた
当初は市兵衛町も今井町に含まれていたそうですが、こちらは高台にあったため、「今井台町」と呼ばれており、元禄年間に、土地の名主の名前をとって市兵衛町と改名したということが「麻布細見」サイトに書いてあります。

今井町に限らず、このあたりの地域は、高台と谷とが細かく入り組んでおり、従って坂が非常に多い。タモリ著「TOKYO坂道美学入門」では、都内9区の37坂が紹介されていますが、そのうちの13坂は港区で、麻布周辺にあるのです。

この「行合坂」は、市兵衛町と飯倉町とが「行き合う」所なのでこの名になったという謂れが書いてあります。

上ったと思うと下り、また上りと続く坂道はうんざりですが、このように、命名の由来などが書いてあるのを読みながら行くと、案外楽しいものですよね。

※引用は、文春文庫「御宿かわせみ(24)春の高瀬舟」2001年3月10日第1刷からです

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