現場検証 佐賀町散策と深川七福神

― 福の湯 ―


深川佐賀町に、福の湯という湯屋があって、年に一度、初午の日に、特別の薬湯を沸かす。


何を隠そう、私の友人の一人は、深川佐賀町に住んでいるのです!
(あ、上の住所表示は全く関係ないですけど)
友人といっても息子と同い年の若い人ですが、彼女はなかなかの読書家であるにかかわらず、時代小説は読まない人なので、佐賀町に住むということがどれほど素晴らしいことかを私が力説しても、今いちピンと来ないようです。しかし私のことは気を遣ってくれていて、「たまこさ〜ん、前に教えてくれた江戸の小説、何でしたっけ、越中島物語? 今度読んでみますね〜」などと言ってくれます。
(「かわせみ」は大川端で、越中島じゃないっつ〜んじゃ〜(>_<))

佐賀町に「長寿庵」というお蕎麦屋さんはちゃんとあって、けっこう名所になっているらしいですね。ご本家の7周年アンケートにも載っていますね。残念ながら私はまだそこのお蕎麦屋さんに入ったことはないのですが・・・
「福の湯」のほうは、Yahoo電話帳で江東区内の銭湯を調べた限りでは見つかりません。銭湯もだんだん、スパとか岩盤浴とかに変わって、名前もカタカナになっていくようですねぇ。


公園というか単なる通路

さて、そこで今回の現場検証ですが、「佐賀町には、長寿庵と福の湯のほかに何があるのか?」という深遠なテーマをもって(笑)、佐賀町を散策することにいたしました。というか、実際には散策というより、限りなく徘徊に近いものでありましたが。

深川佐賀町、現在は江東区佐賀1丁目・2丁目ですが、佐賀という名が残っているのは大変喜ばしいことです。
なぜ佐賀町と呼ばれていたのか? 江東区のHPを見ると、「肥前国佐賀湊に地形が似ていたから」だそうです。なるほど〜。このHPは、江東区の他の町名もすべて由来が記してあって、とても興味深いです。

かわせみ読者の皆様は先刻ご承知のとおり、大川端・八丁堀(現在の中央区)と、深川佐賀町(現在の江東区)とは、大川(隅田川)で隔てられ、永代橋で結ばれています。

「西行法師の短冊」で、「距離からすれば遠くはないが、大川の対岸とこちら側とでは、出入りの八百屋、魚屋から湯屋までが違って来る」とありますが、現在でも、永代橋を渡るとなんとなく街の雰囲気が変わるように感じます。

両方とも高速道路が上を走り、高層ビルが立ち並んでいるのは同じなのですが、中央区側は道を通る人々もビジネススーツばかりなのが、永代橋を渡ると、ジャンパー姿なども増えて、時々はベビーカーを押していくお母さんの姿もあったり、ビルも看板などが親しみやすい感じを受けます。
長助親分、蕎麦粉をかついで永代橋を渡って行く時には、ちょっと襟を正して行き、帰りには荷物もなくなって、リラックスしながら大川を眺めつつ戻ってきたのでは・・・と思ったりしました。

というわけで、深川側からと、大川端側からの永代橋です。
深川側には、昨年出来たばかりの、石原慎太郎都知事による「永代橋重要文化財」の碑もあります。

永代橋 深川⇒大川端
長助with蕎麦粉

永代橋 大川端⇒深川
長助without蕎麦粉

逆光になってしまいましたが・・・
永代橋からの隅田川


佐賀町名所その1 乳熊(ちくま)味噌屋跡

永代橋といえば、忠臣蔵でも、本懐をとげた赤穂浪士たちが泉岳寺を目指して引き上げる時に、永代橋を渡って来たのが有名ですが、その元禄十五年十二月十五日の朝、永代橋たもとにある「乳熊味噌屋」では、ちょうどその日に店舗増築のための上棟式をすることになっていました。
元禄初期に伊勢の国から江戸に出て来て、深川のこの地で創業を始めた乳熊味噌屋の初代、竹口作兵衛さんは、俳句をたしなむ人で、赤穂浪士の大高源吾(俳号子葉)とは其角門下の友人。それで作兵衛さんは浪士たちに酒をふるまい、労をねぎらったそうです。
「ちくま」が千曲でも筑摩でもなく「乳熊」というのはとても珍しいですが、伊勢国乳熊郷(現在の三重県松阪市)の地名だそうです。
現在は初代の作兵衛さんからは何代目になるのかわかりませんが、竹口敬三さんという社長さんのもと、「ちくま味噌」と社名が平仮名に変わり、会社はお隣の福住町に移転しましたが、永代橋際には、名前をそのまま残すビルと、忠臣蔵のいきさつを書いた碑があります。
長助親分やおえいさんは、町内の寄り合いなんかできっと何度もこの話を聞かされていたんでしょうねぇ。


佐賀町名所その2 佐賀町ビル

第一別館と第二別館とあるのですが、なぜか本館がどこだかわかりません。

ビルに入っている会社はご覧のとおり。
(株)マサルというのは、防水材などを開発している会社で、社名は社長さんがマサル(勝)さんだからかな?


佐賀町名所その3 仙台堀川

ご存知のとおり、河口北側に仙台藩松平陸奥守伊達家の広い下屋敷があったため、仙台堀と呼ばれた運河です。

仙台堀川 清川橋より
左手奥の緑は清澄庭園

仙台堀川 海辺橋より

作られた時は幅六間で六間堀の一部であったのが、元禄年間に幅二十間まで堀り広げられ、小名木川と共に、江戸の水運の要として機能するようになりました。とくに木場からあちこちに運ばれる木材が、この仙台堀を常に流れていたといわれます。
夏に藩邸の庭で行われたという花火については、「鬼女の花摘み」に詳しく描かれていますね。


「福の湯と申しますのは、お寿さんの父親の禄兵衛さんといいますのが、若い時分、新潟から出て来て、一代で漸く持った湯屋でございます」
女房のおたかとの間に長女が誕生した時、お寿と名付けたのも、自分の名前が禄兵衛で、日頃から
福禄寿を信仰していた縁によるのだという。

大川の東側、本所深川の七福神といえば、先月「多聞寺」をご紹介した向島七福神(隅田川七福神とも呼ばれる。「秋の七福神」の舞台にもなっていますよね)や、「本所の萩寺」龍眼寺のある亀戸七福神が有名ですが、深川にも七福神があります。
深川の総鎮守社である深川神明宮から、「かわせみ」には何度も登場している富岡八幡宮(深川八幡)に至るまでの七つの社寺で、いずれも江戸年間に創建されたものですが、残念ながら、どれも佐賀町ではありません。

深川神明宮(寿老人)は、昨年「女師匠」でご紹介したので省略、深川稲荷から回ることにします。
佐賀2丁目から、清洲橋を左手に見つつ隅田川上流へ向かって行くと、前方に小名木川にかかる万年橋が見えてきます。小名木川に沿って右折し、ちょっと歩くと、こじんまりした鳥居と明治百年の碑。これが深川稲荷(布袋尊)です。
このあたりには、尾車部屋・北の湖部屋・大鵬部屋などがあり、若い力士が一人歩いているのとすれ違いました。お相撲さんも歩きながら携帯をいじっているのが今様というか。そういえば、深川稲荷の番付・・・じゃなかった、寄付の名の中には「大鵬幸喜」もありました。

深川稲荷から、小名木川と平行に、さらに3ブロックほど進むと、小名木川にかかる東深川橋と、仙台堀にかかる亀久橋をと結ぶ通りに出ます。これを右折して、再び隅田川下流に向かう感じで(小名木川から仙台堀のほうへ向かう)しばらく行った、三好3丁目の交差点という所に、龍光院(毘沙門天)があります。
慶長年間にまず馬喰町に建てられた後、何度か火事に遭い、天和2年(1682)に深川の地に移転したとのことですが、今の建物はかなり新しくなっています。

さらに仙台堀のほうへ歩くと、浄心寺という大きなお寺があります。
このお寺は、四代将軍家綱の乳母、三沢局という人が開基で、狩野永徳や岩井半四郎の墓もあるという深川の名刹ですが、もともとこのお寺の塔頭の一つであったのが、道路をはさんで向いにある円珠院(大黒天)で、七福神の一つになっています。ここも新しく建替えられていますが、生垣の山茶花が綺麗に咲いていました。

このまままっすぐ行って仙台堀を渡れば、次の弁財天ですが、清澄通りに「滝沢馬琴生誕地の碑」があるという事なので、寄り道してみます。
深川老人福祉センターの敷地内にある碑は、本人の像でなく、当時出版された形の里見八犬伝シリーズ本が積み重ねられた像になっているのが、なかなかインパクトがあって良いアイデアです。
平岩先生には、馬琴が大奥がらみの事件に関わり合って八丁堀同心に協力する「へんこつ」という作品もありますね。日本経済新聞に連載されていたのが確か私の新婚時代(^^ゞで、毎朝楽しみに読んだものですが、遠い遠い記憶ながら「作家の家族〜もちろん本人もですが〜っていうのは大変だよなぁ」と思った覚えがあります。

清澄通りが仙台堀を渡るところが「海辺橋」で、江戸東京散歩地図にも「海辺ハシ正覚ハシトモ云」と出ています。正覚橋ともいわれたのは、橋を渡ってすぐに正覚寺というお寺があるからで、この一帯には正覚寺のほか、恵然寺・増林寺・海福寺・心行寺・玄信寺・法乗院と、お寺が目白押しです。

このうち海福寺は移転してその跡が明治小学校になっていますが、後は、敷地は小さくなったようですが今でも残っており、この中の心行寺(福禄寿)が七福神の一つです。

たぶん福の湯の禄兵衛さんは、このお寺にお参りしていたのではないでしょうか。

この心行寺、もともと建てられたのは八丁堀(!)なんだそうで、寛永十年に深川に移ったそうです。福禄寿はかっこいい六角堂に祀られており、福禄寿の像がその前にありますが、これらは昭和も後期になってから作られたようです。

清澄通りと交差する葛西橋通りの、深川2丁目バス停のそばに、冬木町の弁天堂があります。冬木町は「鬼女の花摘み」のお新の長屋のあった所で、麻太郎たちが訪ねていくときに、仙台堀沿いの「寺だらけ」の所の先と書いてありますが、藤沢周平の短編にも、冬木町のことを「寺裏」と呼んでいるものがあります。いずれにしても今でも町名が残っているのは嬉しいことです。
弁財天は恋愛成就のほか、芸事の上達も担当する神様で、「バレエが上手になりたい」なんていう可愛い絵馬も見られました。

葛西橋通りと仙台堀の間にある深川第二中学校、ちょうど学校が終わったらしく、中学生たちがゾロゾロと出てきます。女の子たちが、「本所のさぁ〜」などと声高に話をしています。渋谷でも新宿でも池袋でもなく、本所っていうところが「おぉ〜よしよし」という感じです。
詰襟の黒い制服の男の子たちも、別に日本中どこにでもいる中学生ですが、150年前だったら、この年頃の少年達は、もう木場で材木に乗ったりして、いっぱしの男を気取っていたんだろうなぁと、これまたハートフルな目付きで見てしまうオバサンでした。

高速道路の下をくぐると、富岡八幡宮の広々とした塀と幟が見えてきます。
ご本尊とは別に、恵比寿・大黒天を祀るこじんまりとしたお宮があり、これが七福神の一つですが、両脇に、同じデザインの金比羅・富士浅間神社と、大鳥・鹿島神宮のお宮もあるので、なんとなくその他大勢の一つという感じも無きにしもあらずです。しかし正月松の内は、今閉まっている扉も開かれ、長い行列が出来るようです。
本堂その他は、ご本家の「かわせみの舞台」および、7周年アンケートに春霞さんが送られたお写真をご覧ください。


ようやく全部廻り終わって、門前仲町駅前の「伊勢屋」で、懐かしのデカ串団子&澄まし汁の「桃太郎セット」を頼んで一休み。
一昨年「名月や」の団子検証で訪れた時と、ウェイトレスのおば(あ?)さまは同じだったけど、値段は\350から\370へ値上がりしていました。でも原油高騰の折でもあるので許可します。甘辛たれのたっぷりかかった大きなお団子と、熱々の汁、前と変わらぬお味でした♪
おみやげに塩大福と桜餅を買って地下鉄で帰途に。ここの桜餅は、ピンクの皮のは中が白餡で、小豆餡のは皮が白と、2種類あるのが特徴です。

深川には、七福神の他にも、深川江戸資料館の向いで松平定信の墓のある霊厳寺(彼の所領にちなんで、このあたりが白河と呼ばれる)や、芭蕉ゆかりの臨川寺などの名刹がありますし、評判のお店も多いので、今後も、深川舞台のお話が「お題」になるのを楽しみに、ちょくちょく訪れたいものと思います。

※引用は、文春文庫「御宿かわせみ(19)かくれんぼ」1997年10月10日第1刷からです

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