現場検証 御舟蔵(竪川河口)・江戸川橋関口辺
― 忠三郎転生 ―
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今回のお話、ストーリー的には波乱万丈だし、七重さんと宗太郎さんの婚約が整ったために主人公たちの祝言へ道が開かれるという、全体の流れの中でも重要な転換点となる物語です。 しかし、現場検証的には、あんまりポイントが無いんですよね〜〜っていうか、もう出ている所ばかりなんです。 あとは、嘉助さんが襲撃される水戸家の石揚場くらいかな。竪川が隅田川に流れ込む地点ですが、現在はこのあたり、どうなっているんでしょう。 「煙草屋小町」でご紹介した新大橋から、堅川に至るまでの細長い地域に、幕府の御用船を格納する御舟藏が設けられていました。長さ三丁(327m)に渡る間に、大小14棟の格納庫が並んでいたそうです。 三代将軍家光の時代に建造された巨大な御座船「安宅丸」も係留されていたので、広重の新大橋の絵も「あたけの夕立」と名づけられたことは、前にも書いたとおりです。 |
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この御舟蔵の隣、竪川が隅田川に流れ込むあたりが、「水戸様の石揚場」だったのですね。 現在の墨田区千歳一丁目になりますが、石揚場跡を説明するようなものも、その筋向いにあったという「八幡宮御旅所」を偲ばせるものも、影も形もありません。 高速道路が隅田川の上にかかっており、両岸は遊歩道として整備されています。 堅川には河口から順に一の橋・二の橋・三の橋・四の橋が架けられ、本所一ツ目・二ツ目・・・として、時代小説にもよく出て来ますが、これらの橋は現在も健在です。 |
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「江戸東京散歩」の「礫川牛込小日向絵図」嘉永五年万延元年改訂版を見ると、今大路家もちゃんと記載されていて、田畑や川の様子もこの文の通りですが、ただ、今大路家の向いの寺は、長安寺ではなく、崇伝寺となっているのです。 それはともかくとして、江戸川(神田川)と今大路家の間にある比較的広い道は、現在の新目白通りにあたる通りですね。 現在は、この新目白通りを境に、北側が文京区関口・南側が新宿区山吹町となるため、今大路家別邸があった所は、今は新宿区のほうになるようです。 江戸川というのは、東京都と千葉県の境を流れる利根川水系の大きな川もあるため、紛らわしいのですが、昔は神田川の飯田橋より上流の部分を江戸川と呼んでいました。昭和40年の河川法改正で江戸川の名称を廃し、神田川に統一されたのですが、江戸川橋の名はそのまま、また江戸川橋から高田馬場に至るあたりは桜の名所でもあり、江戸川公園として緑道が整備され、川沿いの好い散歩道になっています。 本文中に「高田の森」と書かれているのは、ご存じ今の早稲田大学のあたりで、江戸川橋から現在の外苑東通りを越えて大学へ至る一帯は、当時は広大な「早稲田の田圃」が広がっていたそうです。 神田川の早稲田大学の対岸にあたる一帯は、広重の絵にも描かれた椿山(現在の椿山荘)・芭蕉庵・元細川越中守下屋敷であった新江戸川公園などの散策スポットが並んでいます。これらについては、こちらでご紹介しています。 ところで神田川の水源は現在の井の頭恩賜公園の中にある井之頭池(ここで一緒にボートに乗ったカップルは別れるというジンクス(?)が・・・弁天様があるせいか?)ですが、井之頭から流れてきた水を、江戸川橋よりやや上流寄りの所で2つに分け、片方を江戸の上水道として小石川方面に流し、もう一方が隅田川まで流れるように、江戸時代初期に工事がなされました。 分岐した上水道は、まず小石川の水戸藩上屋敷(現在の小石川後楽園・東京ドーム)に入って、屋敷内の飲料・生活用水や庭園の池水に使われた後、神田川のほうに戻るように流され、水道橋で川を横切り、神田の武家地を給水し、さらにそこから三手に分かれて、神田の大名屋敷・武家地・及び日本橋も含めた町人地に給水されたそうです。 |
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江戸川公園散策路入口と水神社(上水道の守護神を祀る) |
新目白通り文京区側「関口一丁目」 |
今大路家薬園はこのあたり? |
今大路家の別邸から、江戸川(神田川)を渡ると、すぐに目白不動があったはずですが、この目白不動は現在はもっと雑司ヶ谷寄りの金乗院というお寺に移転してしまっています。 目白不動が移転した後も、前の坂道は目白坂と呼ばれており、多くの寺社が並んでいます。この坂を上っていくと「新」のつかないほうの目白通りに出て、右手に日本女子大があります。平岩先生の後輩にあたる学生さんたちが数人、午後の授業に出るらしく道を急いでいました。 目白坂から目白通りに至る道は、昔から「清戸道(きよとみち)」と言われ江戸と武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)を結んでいた古道です。 |
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清戸の百姓たちは朝早く野菜を荷車に積んで江戸へ向い、市場や町家で売りさばくと、引き換えに町家の下肥を汲み取り、夕方までに村へ帰りついていたそうです。また清戸までの途中点にあたる豊島郡練馬村のあたりからも、練馬大根などを運んでいたと思われ、幕府が建設したのではなく、人々の往来から、自然発生的に成立した道だということです。 目白坂かいわいには、「立ん坊」と呼ばれる自由労働者がたむろしており、坂を上り下りする百姓たちの、荷物を満載した荷車を後押しして、その駄賃で生活していたそうです。江戸のフリーターというところでしょうか。 |
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※引用は、文春文庫「鬼の面 」1992年10月10日第1刷からです