現場検証  御舟蔵(竪川河口)・江戸川橋関口辺

 ―  忠三郎転生  ―

大川のふちにある御舟蔵の長い土塀が黒くみえる。
御舟蔵の先が水戸家の石揚場である。

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横川業平橋の先で自然に大川のほうへ折れている。川の右手が
水戸様の下屋敷で・・・」
塀のむこうは広大な敷地であった。

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すぐ隣の常泉寺の境内から石垣伝いに土塀の内側へとび下りる。
そこは畑であった。


今回のお話、ストーリー的には波乱万丈だし、七重さんと宗太郎さんの婚約が整ったために主人公たちの祝言へ道が開かれるという、全体の流れの中でも重要な転換点となる物語です。

しかし、現場検証的には、あんまりポイントが無いんですよね〜〜っていうか、もう出ている所ばかりなんです。
盗賊の被害にあった奥坊主、林家のある「本所石原町」は、「月と狸」で火事があったところですし、捕らわれた二人を救い出す場面、あの、うっとりする「門前捕り」の舞台となる「水戸家下屋敷(現在の隅田公園)」「常泉寺」も、前回「残月」でご紹介したばかり。

あとは、嘉助さんが襲撃される水戸家の石揚場くらいかな。竪川が隅田川に流れ込む地点ですが、現在はこのあたり、どうなっているんでしょう。

「煙草屋小町」でご紹介した新大橋から、堅川に至るまでの細長い地域に、幕府の御用船を格納する御舟藏が設けられていました。長さ三丁(327m)に渡る間に、大小14棟の格納庫が並んでいたそうです。
現在は、倉庫会社のビルなどが並んでいます。

三代将軍家光の時代に建造された巨大な御座船「安宅丸」も係留されていたので、広重の新大橋の絵も「あたけの夕立」と名づけられたことは、前にも書いたとおりです。
この「安宅丸」と歌舞伎には、意外な関係があったそうです。中村座座元初世中村勘三郎が、幕府の御用船『安宅丸』の江戸入港の際、得意の木遣りで艪漕ぎの音頭を取り、見事に巨船の艪の拍子を揃えたので、その褒美に船覆いの幕を拝領。これが黒・白・柿色三色の中村座の定式幕となったと伝えられています。
もっとも、一般に歌舞伎の定式幕としておなじみなのは、市村座と森田(後に守田)座が使用していた、白ではなく萌黄色と黒・柿色の三色(配色の順序が、市村座と森田座で違う)ですが、先年の十八代目中村勘三郎襲名披露興行では、黒・白・柿の定式幕が使用されたそうです。


この御舟蔵の隣、竪川が隅田川に流れ込むあたりが、「水戸様の石揚場」だったのですね。
現在の墨田区千歳一丁目になりますが、石揚場跡を説明するようなものも、その筋向いにあったという「八幡宮御旅所」を偲ばせるものも、影も形もありません。
高速道路が隅田川の上にかかっており、両岸は遊歩道として整備されています。

堅川には河口から順に一の橋・二の橋・三の橋・四の橋が架けられ、本所一ツ目・二ツ目・・・として、時代小説にもよく出て来ますが、これらの橋は現在も健在です。

   


坂のむこうに、広い原がみえている。その先のこんもりしたあたりは高田の森かと、東吾もそっちを眺めた。
「あそこに農家のような藁葺屋根のみえる一角が今大路家の薬園です」

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小日向台に入ったところで、日が暮れた。地主の佐藤庄兵衛を訪ねて、わかったのは、老母の診察に来ていたのが、今大路成徳の内弟子の山中友之助だということであった。
「御承知でもございましょうが、
江戸川の関口橋の近くに今大路先生の御薬園がございまして、内弟子の方がよくお出でになります。関口橋から手前共の別宅のある鬼子母神の近くまでは、比較的、近うございますので・・・」




広重名所江戸百景「せき口上水端はせを庵椿やま」


「関口水道町の今大路家別邸(薬園)」は、「橋姫づくし」の中でも重要な舞台となっていて、「今大路家から見ると関口水道町は北側に当り、道をへだてた東側は長安寺という寺で、それを取り巻く南西側が田圃と畑になっている。江戸川から分れた小川が二筋、田畑の中を蛇のようにまがりくねって流れている。」と書かれています。

「江戸東京散歩」の「礫川牛込小日向絵図」嘉永五年万延元年改訂版を見ると、今大路家もちゃんと記載されていて、田畑や川の様子もこの文の通りですが、ただ、今大路家の向いの寺は、長安寺ではなく、崇伝寺となっているのです。
「どの宗旨にも属さず、従って寺社奉行の管轄下にない不思議な寺」として登場するこのお寺、作者が名を変えたのは、やはり、うさんくさい事件に関連するからでしょうか。崇伝といえば、思い出されるのは「
金地院崇伝」、それが「大久保長安」の長安に変わっているというのも面白いですね。

それはともかくとして、江戸川(神田川)と今大路家の間にある比較的広い道は、現在の新目白通りにあたる通りですね。
新目白通りは川の南側に川と平行して通っており、江戸川橋のところで、音羽通りと交差しています。音羽通りを北へ進むと護国寺の門に至り、その途中に鳩山会館があります。

現在は、この新目白通りを境に、北側が文京区関口・南側が新宿区山吹町となるため、今大路家別邸があった所は、今は新宿区のほうになるようです。
もっとも、当時の水道町は、関口水道町ばかりでなく牛込水道町というのもあり、新宿区にも「水道町」の名が残る地域があるので、川の流域のかなり広い区域が水道町と呼ばれていたようです。

江戸川というのは、東京都と千葉県の境を流れる利根川水系の大きな川もあるため、紛らわしいのですが、昔は神田川の飯田橋より上流の部分を江戸川と呼んでいました。昭和40年の河川法改正で江戸川の名称を廃し、神田川に統一されたのですが、江戸川橋の名はそのまま、また江戸川橋から高田馬場に至るあたりは桜の名所でもあり、江戸川公園として緑道が整備され、川沿いの好い散歩道になっています。

本文中に「高田の森」と書かれているのは、ご存じ今の早稲田大学のあたりで、江戸川橋から現在の外苑東通りを越えて大学へ至る一帯は、当時は広大な「早稲田の田圃」が広がっていたそうです。

神田川の早稲田大学の対岸にあたる一帯は、広重の絵にも描かれた椿山(現在の椿山荘)・芭蕉庵・元細川越中守下屋敷であった新江戸川公園などの散策スポットが並んでいます。これらについては、こちらでご紹介しています。

ところで神田川の水源は現在の井の頭恩賜公園の中にある井之頭池(ここで一緒にボートに乗ったカップルは別れるというジンクス(?)が・・・弁天様があるせいか?)ですが、井之頭から流れてきた水を、江戸川橋よりやや上流寄りの所で2つに分け、片方を江戸の上水道として小石川方面に流し、もう一方が隅田川まで流れるように、江戸時代初期に工事がなされました。
この分岐点が関口大洗堰と呼ばれて、江戸川公園遊歩道の中に大洗堰跡の碑も立っています。

分岐した上水道は、まず小石川の水戸藩上屋敷(現在の小石川後楽園・東京ドーム)に入って、屋敷内の飲料・生活用水や庭園の池水に使われた後、神田川のほうに戻るように流され、水道橋で川を横切り、神田の武家地を給水し、さらにそこから三手に分かれて、神田の大名屋敷・武家地・及び日本橋も含めた町人地に給水されたそうです。

江戸川公園散策路入口と水神社(上水道の守護神を祀る)

新目白通り文京区側「関口一丁目」

今大路家薬園はこのあたり?


今大路家の別邸から、江戸川(神田川)を渡ると、すぐに目白不動があったはずですが、この目白不動は現在はもっと雑司ヶ谷寄りの金乗院というお寺に移転してしまっています。
目白不動が移転した後も、前の坂道は目白坂と呼ばれており、多くの寺社が並んでいます。この坂を上っていくと「新」のつかないほうの目白通りに出て、右手に日本女子大があります。
平岩先生の後輩にあたる学生さんたちが数人、午後の授業に出るらしく道を急いでいました。

目白坂から目白通りに至る道は、昔から「清戸道(きよとみち)」と言われ江戸と武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)を結んでいた古道です。
尾張藩の鷹場が清戸にあり、そこへ鷹狩に向かう尾張藩主が通ったと言われていますが、清戸の農村から、江戸の市場への農産物の輸送路としての役割も重要だったと思われます。

 

清戸の百姓たちは朝早く野菜を荷車に積んで江戸へ向い、市場や町家で売りさばくと、引き換えに町家の下肥を汲み取り、夕方までに村へ帰りついていたそうです。また清戸までの途中点にあたる豊島郡練馬村のあたりからも、練馬大根などを運んでいたと思われ、幕府が建設したのではなく、人々の往来から、自然発生的に成立した道だということです。

目白坂かいわいには、「立ん坊」と呼ばれる自由労働者がたむろしており、坂を上り下りする百姓たちの、荷物を満載した荷車を後押しして、その駄賃で生活していたそうです。江戸のフリーターというところでしょうか。

 

※引用は、文春文庫「鬼の面 」1992年10月10日第1刷からです

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