現場検証 「美男の医者」

―― 早春お江戸ツァー ――

江戸の呉服屋街 尾張町(現:銀座)

宗太郎さんファンにはワクワクの今月の「お題」、実は現場検証的にも、すごい充実の話だったということが、読み返してみてわかりました。お江戸中心部のショッピングゾーンから芝門前町へ、そして向島から浅草へ。ちょっとした「早春のお江戸ツァー」です。
方向音痴の私としては、どこから先に、どういうルートで行けばいいのか、迷いましたが、結局、物語に登場する順序で行くのが一番よさそうということで、まずは「四条屋」のあった「尾張町」から出発!

尾張町という町名は、昭和の初期までは残っていたようですが、今は残念ながらありません。
現在の銀座四丁目から五・六丁目にかかる一帯がそれで、今も「銀座四丁目の交差点」といえば、三越・三愛・和光などにはさまれた、東京を代表するスポットになっていますが、その昔は「尾張町の十文字」と呼ばれていたそうです。
尾張町は呉服屋街として名高く、「美男の医者」の「四条屋」ばかりでなく、「江戸の子守唄」で、紅花染めから事件解決の手がかりをつかんだのも尾張町の「蛭子屋」でしたし、「鬼女」の五兵衛とおあつ夫婦の店も、尾張町の「津田屋」でした。
「尾張町」という町名はなくなりましたが、「尾張町ビル」というビルが、銀座六丁目に残っています。
紳士オーダーメイドスーツの老舗「英國屋」が入っているビルです。


銀座四丁目角の交番
天辺にカエルの銅像(?)が

     


文藝春秋社銀座別館もこの近く
(本社は千代田区紀尾井町)


芝 増上寺

銀座から増上寺のある芝へは、都営浅草線で「東銀座」から「新橋」⇒「大門」の2駅間。歩いて歩けない距離ではありませんが、先が長いので、地下鉄で移動。
芝の増上寺は、上野の寛永寺と並んで徳川家の菩提所であったため、江戸期は隆盛をきわめていました。
したがって、江戸中心部から芝へのルートも非常に重要であったと思われます。
銀座から新橋へ向かう通りの一つに、「御門通り」というのがあり、「芝口御門跡」の碑があります。
増上寺の表門(総門)は、もともと江戸城の大手門だったのを家康が寺に与えたものだそうで、今でも「大門(だいもん)」として地名・駅名に残っており、増上寺の代名詞のようになっています。
大門のすぐ前の地域が、左太郎・おもんの兄妹が染屋を営んでいた片門前町、その外側が中門前町と呼ばれていましたが、昭和47年に、他の町々と合併になり、現在はそれぞれ、芝公園・芝大門という住居表示になっています。
大門をくぐりしばらく歩いて増上寺境内に入ると、東京タワーを背景に本堂の伽藍が威容を見せています。
そういえば、庄司家の菩提寺、浅草の浄念寺も、「芝増上寺の末寺」と、「横浜から出て来た男」にありましたね。

   


向島 三囲神社

四条屋の母娘が逼塞していたのは、向島の三囲(みめぐり)神社のそば。
都営浅草線「大門」駅から、さっきのルートをまた戻って、新橋⇒東銀座⇒宝町⇒日本橋⇒人形町⇒東日本橋⇒浅草橋⇒浅草⇒本所吾妻橋まで。かなりの距離になります。足の悪い左太郎さんが行くのは大変だっただろうと思います。
本所吾妻橋の駅から、北十間川にかかる「源森橋」を渡ります。本所を通り隅田川に流れ込む北十間川は当時「源森川」と呼ばれていたそうで、「ぼてふり安」ほか、いくつかのお話にも出てきますね。見番通りという下町らしい名の通りをしばらく行くと、三囲神社の鳥居が。
三囲神社は、隅田川七福神のひとつで、恵比寿と大黒(大国)の二神が祀られています。もともとは、越後屋(現在の三越)に祀られていたものだそうです。恵比寿は豊漁・商家の繁盛を、大黒は冨と円満をもたらす神で、似通っているところから、一対の神として祀られることが多いそうです。
お正月はもちろん、季節を問わず下町ウォーキングのイベントなどで賑わっている神社で、近くには墨田区の郷土資料館があり、数年前のお正月に七福神巡りに行ったとき、ここで休憩して茶菓のサービスを受けたのを思い出しました。

   


大川を渡って 浅草田原町 西光寺

四条屋の母娘は、向島から、大川を越えて浅草の寺まで墓参りに行くのですが、詳しいルートは物語には出てきません。
三囲神社の近くだと、言問橋を渡って行ったのではないか、と思った私は、「徒歩で渡し場へ行き、舟で大川を渡った」とある説明で、あれっと思ったのでした。「江戸東京散歩」地図を調べてみると、なんと、江戸時代には、言問橋が無い! もうひとつ上流の今の桜橋のあたりに、「竹屋の渡し」があったようです。母娘が渡ったのは、この渡しだろうと思われます。
しかし、ずっと東京に住んでいる60代・70代のオジサマオバサマ方に聞いてみても、皆さん「えっ、言問橋って、江戸時代からあるんじゃないの? だって『いざ言問はん都鳥』のあれだろ? 言問団子だって、江戸の昔から有名だったっていうよ。」とおっしゃるのです。
検索してみると、なんと、言問橋が出来たのは、昭和3年。関東大震災後の「帝都復興計画」の一環として出来たといいます。
言問団子のほうは、在原業平の故事にちなんで作られ、確かに江戸時代からあったらしい。「江戸東京散歩」の切絵図にも「都鳥の名所ナリ」という記載があります。
要するに、橋より団子のほうがずっと先輩だったってわけですね。今は70代だって昭和生まれですから、勘違いは無理ないかもしれませんね〜。

というわけで、竹屋の渡しに代り、桜橋を渡って、墨田区から台東区へ。桜橋は、完成のニュースをテレビで見た覚えがありますから、かなり新しいと思って調べてみると昭和60年3月でした。それでも、もう20年以上前です。
桜橋は、隅田川の他の橋と違い、歩行者専用の橋で、X型に交差したモダンなデザインです。
ここから、川辺の散歩道ゾーンを通って、浅草雷門のある吾妻橋のたもとまで歩きます。「春のうららの・・・」というには、まだちょっと寒々しいかもしれない隅田川。でも、気の早い桜が何本か、もう咲いているのがありました。
四条屋の母娘も、川辺の道を行ったのでしょうか、それとも、当時はまだ田畑の多かったであろう今戸を通り、浅草寺や伝法院にも、ついでにお参りして行ったのでしょうか。

 

「西光寺」というお寺は、えらくたくさんあるので、混同しそうになります。
向島から、隅田川でなく綾瀬川(荒川)を渡ったところにも、けっこう大きな「西光寺」があるので、最初これかと思ってしまいました。
東上野にもありますし、神林家の菩提寺である、日暮里の経王寺にほど近い谷中霊園の近くにもあります。
「浅草の西光寺」ということで探すと、たぶん、地下鉄銀座線「田原町」駅のそばにある「西光寺」が、この物語に出てくる西光寺だろうと思われます。小さなお寺みたいですが、今でもあるんだ!やった!
しかしこのあたり、江戸切絵図のほうも、現在の地図のほうも、わ〜寺だらけ。うじゃうじゃとあります。
ともかくも、吾妻橋のところから、雷門を右に見て、雷門通りを進む。つきあたるのが国際通りです。右折すればいわゆる浅草六区、お化け屋敷のある花やしき遊園地もそちらですが、反対に左へ折れ、浅草通りに出る手前でまた右へ入ります。やっぱり地図のとおり、周囲は寺だらけ。
ありました西光寺。でも、残念なことには単なる普通の住宅で、表札にただ「西光寺」と書いてあるだけ、屋根の下にも「西光寺」の額は見えますが、入ることは出来ません。歌人土岐善麿の墓もあるということが「東京・山手下町散歩地図」に載っていたので、入ってみたかったのですが、残念でした。このあたりのお寺は、ほとんどこのタイプのようです。マンションの一角というのも多いです。住職さんが住んでいて、電話で呼んで出張してもらうだけなんでしょうか。
このあたりの町名は「西浅草一丁目」ですが、駅名に残っている「田原町」というのは、もともと、浅草寺領の田圃があったことからついた名前だそうです。
浅草通りの向こうには、一昨年訪れた「遊女玉菊の墓」のある永見寺も、すぐ近くです。

 

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