大川を渡って 浅草田原町 西光寺
四条屋の母娘は、向島から、大川を越えて浅草の寺まで墓参りに行くのですが、詳しいルートは物語には出てきません。
三囲神社の近くだと、言問橋を渡って行ったのではないか、と思った私は、「徒歩で渡し場へ行き、舟で大川を渡った」とある説明で、あれっと思ったのでした。「江戸東京散歩」地図を調べてみると、なんと、江戸時代には、言問橋が無い! もうひとつ上流の今の桜橋のあたりに、「竹屋の渡し」があったようです。母娘が渡ったのは、この渡しだろうと思われます。
しかし、ずっと東京に住んでいる60代・70代のオジサマオバサマ方に聞いてみても、皆さん「えっ、言問橋って、江戸時代からあるんじゃないの? だって『いざ言問はん都鳥』のあれだろ? 言問団子だって、江戸の昔から有名だったっていうよ。」とおっしゃるのです。
検索してみると、なんと、言問橋が出来たのは、昭和3年。関東大震災後の「帝都復興計画」の一環として出来たといいます。
言問団子のほうは、在原業平の故事にちなんで作られ、確かに江戸時代からあったらしい。「江戸東京散歩」の切絵図にも「都鳥の名所ナリ」という記載があります。
要するに、橋より団子のほうがずっと先輩だったってわけですね。今は70代だって昭和生まれですから、勘違いは無理ないかもしれませんね〜。
というわけで、竹屋の渡しに代り、桜橋を渡って、墨田区から台東区へ。桜橋は、完成のニュースをテレビで見た覚えがありますから、かなり新しいと思って調べてみると昭和60年3月でした。それでも、もう20年以上前です。
桜橋は、隅田川の他の橋と違い、歩行者専用の橋で、X型に交差したモダンなデザインです。
ここから、川辺の散歩道ゾーンを通って、浅草雷門のある吾妻橋のたもとまで歩きます。「春のうららの・・・」というには、まだちょっと寒々しいかもしれない隅田川。でも、気の早い桜が何本か、もう咲いているのがありました。
四条屋の母娘も、川辺の道を行ったのでしょうか、それとも、当時はまだ田畑の多かったであろう今戸を通り、浅草寺や伝法院にも、ついでにお参りして行ったのでしょうか。
「西光寺」というお寺は、えらくたくさんあるので、混同しそうになります。
向島から、隅田川でなく綾瀬川(荒川)を渡ったところにも、けっこう大きな「西光寺」があるので、最初これかと思ってしまいました。
東上野にもありますし、神林家の菩提寺である、日暮里の経王寺にほど近い谷中霊園の近くにもあります。
「浅草の西光寺」ということで探すと、たぶん、地下鉄銀座線「田原町」駅のそばにある「西光寺」が、この物語に出てくる西光寺だろうと思われます。小さなお寺みたいですが、今でもあるんだ!やった!
しかしこのあたり、江戸切絵図のほうも、現在の地図のほうも、わ〜寺だらけ。うじゃうじゃとあります。
ともかくも、吾妻橋のところから、雷門を右に見て、雷門通りを進む。つきあたるのが国際通りです。右折すればいわゆる浅草六区、お化け屋敷のある花やしき遊園地もそちらですが、反対に左へ折れ、浅草通りに出る手前でまた右へ入ります。やっぱり地図のとおり、周囲は寺だらけ。
ありました西光寺。でも、残念なことには単なる普通の住宅で、表札にただ「西光寺」と書いてあるだけ、屋根の下にも「西光寺」の額は見えますが、入ることは出来ません。歌人土岐善麿の墓もあるということが「東京・山手下町散歩地図」に載っていたので、入ってみたかったのですが、残念でした。このあたりのお寺は、ほとんどこのタイプのようです。マンションの一角というのも多いです。住職さんが住んでいて、電話で呼んで出張してもらうだけなんでしょうか。
このあたりの町名は「西浅草一丁目」ですが、駅名に残っている「田原町」というのは、もともと、浅草寺領の田圃があったことからついた名前だそうです。
浅草通りの向こうには、一昨年訪れた「遊女玉菊の墓」のある永見寺も、すぐ近くです。
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