現場検証 初春芝口散歩/江戸切子細工

― びいどろ正月 ―


八丁堀組屋敷を横にみて、
中の橋を渡り、本願寺の裏を抜けて木挽橋から川沿いに土橋へ出て来る。
土橋を渡ったところが久保ヶ原だが、原っぱどころか、広小路のように賑やかであった。
・・・・・・
ここらは
芝口で町並みは金杉橋へ続いているが、双葉町というのは久保ヶ原を入ったすぐで、やはり人家が密集している。


なんとなく、東吾はそのあとについて行った。
芝口の表通りへ出て二丁目、三丁目、次が諏訪町で、二人が横町へ入った。


八丁堀から築地本願寺へ

東吾さんと宗太郎さんが、大川端のかわせみから、どんなルートで築地本願寺方面へ向ったのか、詳細はわかりませんが、亀島川沿い或いは、亀島川西側の八丁堀組屋敷と町屋の間の道あたりを通って、中の橋を渡ったものと思われます。


メトロ八丁堀駅


亀島川


中ノ橋北東児童遊園

「中の橋」というのは、江戸中いたる所にありまして、すでに名前のついている二つの橋の間に、ここにも橋があれば便利ということで新しく出来た橋が、みんな「中の橋」になったんでしょうが、ここで言う中の橋は、鉄砲洲稲荷の前の「稲荷橋」と、現在の首都高速環状線の京橋出入口にあたる「白魚橋」の間にある中の橋だと思われます。

この中の橋が架かっていた掘割は、今はもうありませんが、当時は稲荷橋の所で亀島川と合流し、共に隅田川に流れ込んでいました。
中の橋も全くあとかたもないだろうと思っていたところ、「中ノ橋北東児童遊園」という小さな広場が、地下鉄八丁堀駅を出た所にあるのを見つけました。名前だけでも残っているのは嬉しいですよね。

稲荷橋の名の元の鉄砲洲稲荷。
獅子頭の飾られている築地市場の波除稲荷のほうは「初春弁才船」の時にご紹介しましたが、こちらの鉄砲洲稲荷も、湊町の波除稲荷として、江戸の人々によく知られていました。「冬の海」で、おるいさんが散歩に行き、お吉さんが財布を落とした所ですね。
ご本家管理人さんも、「御宿かわせみの舞台」で紹介して下さっています。


広重は、「名所江戸百景」の中に鉄砲洲を2点描いており、左が「鉄砲洲稲荷橋湊神社」、右が「鉄砲洲築地門跡」です。

右の絵の大川越しに見える屋根が、築地本願寺の屋根ですが、現在の築地本願寺(→)は、インド式の丸屋根になってしまったので、かなり印象が異なります。


築地川と三つ橋

今回のお話には出てきませんが、中の橋を渡って本願寺のほうへ行く途中に、「三つ橋渡った」に出てきた、「ぐるりと渡って元に戻る」軽子橋・数馬橋・備前橋の三つ橋があるのです。この三つ橋の位置関係は、はいくりんぐでお題になった時に、大変見やすい地図を載せていただきましたね。

この三つ橋が架かっていた築地川は今はもうありませんが、「築地川公園」として緑地帯になっています。
そして三つ橋の中で備前橋だけは今も欄干と橋の名が残っているのは嬉しいです。これもご本家「御宿かわせみの舞台」で紹介されています。


備前橋


築地川公園

もっとも、当時江戸で「三つ橋」として、後に江戸名所図会にも書かれるほど有名だったのは、真福寺橋・白魚橋・弾正橋という、京橋川の三つ橋のほうでした。(中の橋をはさんで稲荷橋の反対側、京橋の所にある、先に記した白魚橋です。)

「三つ橋渡った」の中にも、長助親分が「ここの橋のことじゃないか」と言って、皆で確かめに行くシーンがありましたね。
ただ、こちらの京橋川の三つ橋は、川が交差していて本来は四つの橋が架かるべきところが三つしか架かってないという状態なので、三つの橋を渡っても元に戻ることは出来なかったのです。

ぐるりと三つの橋を渡って戻って来れるというのは、川がY字型になっている場合ですよね。
Y字型の川に架かる「三つ橋」、探してみれば他にもあるのでは?という気もしますが、軽子橋・数馬橋・備前橋の三つ橋では、軽子橋がちょっと離れた所にあるのがみそ(?)かもしれません。
白魚橋の三つ橋のほうには説明板が立っているのですが、備前橋のところにも作ってほしいですね。                            

軽子橋と数馬橋の間、隅田川の側に、水野伊勢守と松平周防守の屋敷がありますが、元禄時代にはここが赤穂藩浅野家の江戸上屋敷でした。忠臣蔵で「鉄砲洲の御屋敷」と言われるあれですね。
現在ここは聖路加看護大学になっており、校舎の前に、浅野内匠頭屋敷跡という碑があります。

     浅野内匠頭屋敷跡    公衆トイレの前に「元木挽橋」の看板が              東海道新幹線が高架上を走る土橋の交差点


木挽橋から芝口へ

さて東吾さんたちは「本願寺の裏を抜けて」とあるので、たぶん備前橋を渡ってまっすぐ武家屋敷の中を通り、現在は首都高速が走っている掘割(この高速の下の川跡も、緑地帯になって浜離宮のほうへ続いています)を越えて、采女ヶ原の横を通って左折するか、或いは掘割の手前で左折、二の橋を渡って酒井右京亮邸の前の道を通り、木挽橋へ出たものと思われます。

木挽橋の名前がどこかに残っていないかと見廻したところ、公衆トイレに「木挽橋」の名前が。。。
この木挽橋が架かっていた川は、幅が三十間(約55m)あったために、三十間堀川と呼ばれていましたが、現在は埋め立てられました。中央通りと昭和通りの間の道にあたり、高速の新橋入口出口に続いています。

「江戸東京散歩」の「京橋南築地鉄砲洲絵図」(文久元年改正版)では、赤坂溜池と浜離宮をつなぐ掘割に、この三十間堀川が突き当たる所が汐留橋、右折して赤坂方面に向って、新橋(芝口橋)・中ノ橋(難波橋)・土橋となっています。
新橋と中ノ橋(ここにも中ノ橋が♪)の間に能楽師金春太夫の邸である金春屋敷があり、高山仙蔵先生の住まいもこの辺でしたが、「びいどろ正月」の頃は高山先生は江戸にはおられなかったですね。

東吾さんは、土橋を渡って久保ヶ原・双葉町の長崎屋を観察したあと、宗太郎さんが薬を買っている間に弥助・おせき兄妹の後をつけて、また芝口橋のほうへ戻り、硝子細工の店まで行ってみます。
芝口というのは芝の大門・増上寺への入口であるところから芝口と言われたので、銀座の南のはずれ銀座八丁目と、新橋一丁目の境のあたりに、芝口御門跡の石碑があります。

土橋のガード下をくぐると新橋駅。
都心のオフィス街らしい高層ビル群と、昭和の香りを色濃く残すガード下の飲み屋の列とが、間近に向い合っている街です。

「広小路のように賑やか」な「久保ヶ原」は、現在のJR新橋駅烏森口(駅前広場に「汽笛一声」の蒸気機関車が鎮座しています)を出たあたりの一帯でしょう。
久保ヶ原から東へ隅田川方面に向かって、双葉(二葉)町・西側町・芝口の表通りとなり、双葉町の南に、藤原秀郷の創建といわれる烏森神社があります。
ビルの間に埋もれているような烏森神社ですが、初詣の人が次々に訪れます。サラリーマン風・地元商店主風・親子連れ・若いカップルなどいろいろ。日本橋・銀座系も本所・深川系も、新宿・渋谷系も何でもありというのが、ここ新橋の特徴かもしれません。

久保ヶ原から芝増上寺へ至る道が切絵図では「愛宕下大名小路」、現在の「赤レンガ通り」ですが、この中ほどにあったのが、陸奥一関藩主田村右京大夫の上屋敷です。そう、浅野内匠頭が切腹となった屋敷ですね。
これにちなんだ「切腹最中」なる、餡が皮からはみ出している銘菓(?)の店があります。考えようによっては悪趣味ともいえますが(^^ゞ


「諏訪町」の謎

さて、硝子細工師の弥助の住まいは、芝口の通り二丁目・三丁目の次の諏訪町ということなのですが、地図で見ると芝口三丁目の次は源助町、その次が露月町・柴井町・宇田川町・神明町・浜松町と続いています。浜松町は山手線の新橋の次の駅で、ここはもう増上寺の門前です。
源助町とか露月町っていうのは、かわせみの他のお話にもあったと思いますし、時代小説一般によく登場する町名ですが、芝の諏訪町というのは聞かないですよね〜
江戸の御府内が大体移行したと思われる明治11年の東京15区の中の「芝区」を見ても諏訪町というのはなく、港区公式HPの旧町名案内にも「諏訪町」は見つかりません。

角川と平凡社から、都道府県別の町名辞典が出ているのですが、それによると、江戸の諏訪町というのは、一つは現在の文京区後楽二丁目にあたる小石川の諏訪町、もう一つは現在の駒形になる浅草の諏訪町です。
現在、新宿区の早稲田大学の近くに諏訪町がありますが、これは江戸時代は諏訪「村」だったものです。
いずれも、町の鎮守が諏訪神社であった事からの町名のようですが、芝には諏訪神社も見あたらないので・・・何といっても芝神明宮と増上寺の縄張りですからねぇ。
というわけで、何故作者がここで「諏訪町」を使ったのかは、非常に謎なのです。

源助町や露月町という町名が、今はなくなってしまったのは寂しい限りですが、町内に貼られている「謹賀新年」のポスターに「新橋露月町会」とあり、町会の名前としては残されているんだとわかって嬉しく思いました。


日比谷稲荷と塩釜神社

「源太郎の初恋」で、歯痛封じの神社として登場した鯖稲荷日比谷神社は、何度も移転を繰り返した社ですが、現在はJRの線路と第一京浜が交差する所にあります。

江戸時代の芝口から現在の新橋に至る四百年余にわたり、関東大震災や戦災を乗り越え、地元の人々の崇敬を集めています。

境内の石碑に「日蔭町」の文字が見えます。
芝口の表通りから一つ西側の通りが「日カゲ丁通りト云」と切絵図にありますが、この通りに、桜吹雪の入れ墨でおなじみ、遠山金四郎の屋敷があったそうです。

日比谷稲荷の前の第一京浜をずっと南下して、環状高速と交差する所が金杉橋です。
金杉橋は「残月」の時にご紹介しましたが、あの時は、まだ建設が始まったばかりのチビなスカイツリーの写真も入ってましたね〜

先の切腹最中のあった田村右京大夫屋敷(いや、田村屋敷で浅野内匠頭が切腹したから切腹最中が出来たんだけど)の筋向いには、仙台藩の中屋敷もあり、その屋敷内に勧請されていた塩釜神社が、現在は塩釜公園となっています。
烏森神社も日比谷稲荷も、都心の神社はどうしてもビルの中に埋もれてしまいますが、ここはなかなかゆったりとしたスペースで、都会のオアシスといった感じです。

     


「だいぶ前ですが、薩摩様が
製薬館という薬の研究所のようなものを建てられた時、びいどろの薬瓶が要ることになって、江戸から四本亀次郎というびいどろ師を呼んで作らせたという話を聞いたことがあります。」


薩摩ガラスと島津斉彬・四本亀次郎

上記の本文中で「薩摩様」と言われているのは、幕末の名君として名高い島津斉彬で、江戸からガラス職人四本亀次郎を招いた件は、「斉彬言行録」という文書に書かれているそうです。  

斉彬の建てた薩摩紅ガラスの製造所跡については、鹿児島市のHPにも紹介されていますが、戸澤道夫さんという薩摩ガラスの研究家による「薩摩ガラスと江戸の文化」という本によれば、当時、藩の殖産として窯ガラスを考えたのは薩摩藩だけでなく、鍋島藩・筑前藩・長州藩など、多くの藩がこれを試みたものの、結果的に唯一成功した例が薩摩藩だったということです。

四本亀次郎は芝源助町に住むガラス職人で、加賀屋久兵衛という店で働いていましたが、加賀屋久兵衛にガラス製造技術を伝授したのは、今ちょうど大河ドラマにも登場している佐久間象山でした。
蘭学者として広範囲にわたる西洋の科学技術を身につけていた象山は、それまで江戸で作られていたガラスよりもっと質の高い、切子の製造に適した硬質ガラスの製造を加賀屋に伝えたのです。
そして象山は島津斉彬とも親交が深かったことから、加賀屋の職人四本亀次郎が、はるばる江戸から薩摩まで呼ばれて行ったということのようです。

天明から寛政にかけて、歌麿の美人画に描かれたようなガラスは、主として長崎から伝えられ大坂で作られたものだったであろうとこの本の著者は述べています。

ただ、そうしたガラスはまだ脆くて薄いもので、実用品というよりは遊び道具の一種でした。
それが文化年間に江戸でガラスが製造されるようになると、もう少し強度のある実用的なものとなり、ガラスは江戸の名産品の一つに。江戸土産としてガラス製品が持て囃されるようになりました。
文化八年に出版された「進物便覧」という出版物には、「東都(=江戸)土産」として、「錦絵・江戸紫染め・浅草海苔・塩瀬まんじう・京伝たばこ入」などと並んで、「江戸ギヤマン・コップカンザシ、その他細工物」が挙げられています。
加賀屋久兵衛もこうした江戸のガラス製造・販売店の一つであったと考えられますが、加賀屋というガラス店は江戸に複数あったと言われ、主の久兵衛という人物についてもまだ不明な点が多いそうで、今後の研究が待たれます。

また、薬瓶としてのガラス容器製造についても興味深い記載がありました。
文化文政期の滑稽本作者式亭三馬が、副業として薬品・化粧品販売を行っていたのですが、「おしろいのはげぬ薬・江戸の水」と名付けた化粧水を、ガラス瓶に詰め箱に入れて売り出したところ、これが大当たりして、かなりの財を得ました。
ところが、このアイデアは、三馬オリジナルではなく、その以前に、ある薬屋が「三能水」という水薬をガラス瓶に入れて売り出し好評だったことから、思いついたというのです。

しかし、三馬の化粧水は瓶入り・箱入りで四十八文、三能水も同じ値段だったそうです。それに比べると「びいどろ正月」の長崎屋の一瓶二分というのは、かなりべらぼうです。
というか、「かわせみ」の時代より何十年も前に、すでに当たりを取っていたガラス瓶入りの薬というものに、今さら江戸っ子が珍しがって大金を払うというのも、ちょっと疑問な話なのですが・・・弥助さんの「びいどろ」技術とデザインがそれだけ優れていたということでしょうか。
まぁ、化粧品とかサプリ類の原価と売れ筋の関係っていうのは、今もよくわからないものですがね(^^ゞ

式亭三馬がガラス瓶を作らせたのは、最初は大伝馬町の平井善右衛門に十個百文で、その後、米沢町のガラス屋が、同じ百文でこちらは十六個作ると言ってきたので、そちらに発注したそうです。(三馬はこうした細かい事を全部日記につけていたんですね)。
弥助さんの瓶も、長崎での修業の時の恩を着せられて、「随分と安く」買い叩かれていたと本文にありましたが、長崎屋はいくらで買っていたんでしょうか。


オランダ語源の「ぎやまん」とポルトガル語源の「びいどろ」

もう一冊、「謎のびいどろ―江戸期の硝子をたずねて」という本は、起源のはっきりしないガラスの歴史に迫ろうという狙いの読物です。
古代からガラスの存在は知られており、日本でも「瑠璃」と呼ばれて珍重されていました。

中国では「硝子」と書いて「シャウツー」と読まれ、鉛ガラスの技術を持った硝子師たちが宋の時代から活躍し、明王朝に続きますが、その後明が清に滅ぼされて、硝子師たちが長崎に避難したことにより、日本にもガラス製造の技術が伝わったということです。

「ビイドロ」という言葉は、新井白石が「東雅総論」という書物の中で、「(南蛮語では)瑠璃をビイドロといひ」と書いているのが見られるそうですが、天文年間にポルトガル船で来日したフランシスコ・ザビエルが、山口の大内義隆に献上した南蛮品の中にガラス製品があり、そのポルトガル語「ヴィドッロ」が「びいどろ」になったものと言われます。
ガラス自体の製法は、その後いろいろ変わっても、この「びいどろ」の名は長く日本人に親しまれて来ました。

いっぽう、鎖国の後、日本と交流を持った唯一の西欧の国であるオランダの言葉が元となったのが「ぎやまん」だそうです。
もっとも、「ぎやまん」の元となったオランダ語の「ディアマント」は、「ガラス」ではなく、ダイヤモンドのことでした。
ダイヤモンドを使ってガラスに彫刻を施した「ギヤマン彫りのびいどろ」、つまり高級ガラス製品としてのカットグラス――「切子細工のびいどろ」が、ぎやまんの元々の意味だったのですね。


「びいどろぎやまん図譜」の「びいどろ櫛」

最後にご紹介するのは、淡交社の「びいどろぎやまん図譜―江戸時代のガラス・粋と美」。美しいカラーグラビアで多数のびいどろ細工が紹介されており、ページを繰っていると時間を忘れてしまいます。

弥助さんの作った薬瓶は、きっとこんな感じだったのではないかなと思われるようなガラス小瓶や、ラストシーンで東吾さんが妄想(?)する、ガラス徳利と盃のセットなども、いろいろな色・意匠のものが載っています。
皿小鉢、菓子器など、食器酒器に限らず、文鎮や筆洗などの文房具や風鈴。
根付などごく小さなものから、ガラス入りの屏風などまで。
ビーズ飾りとガラスを組み合わせた作品も多く、そのモダンな感覚は、現代のビーズアクセサリーと言っても全く違和感がありません。

お題でもおるいさんの「びいどろ櫛」が話題になったので、気になるびいどろ細工の装身具をチェックしてみると、まず目につくのは一本棒型の笄。飴色の細い棒ガラスから出来ており、髪の外に出る部分に、小鳥や花の小さい装飾や、黒い模様がつけてあります。
このタイプのびいどろ笄は、比較的安価(銭湯の値段とほぼ同じ)で、江戸の若い庶民の娘たちにも気軽に使われていたようです。

いっぽう、いかにも高価そうなのは、鼈甲の櫛の上部に、彫刻をほどこしたガラス板を嵌め込んだ櫛で、もしかしたらおるいさんが正月に挿していたのは、これかもしれません。
ガラス板の彫刻が、それはそれは精緻で美しいもので、例えば帆船と波とか、植物であれば花と葉とかが、それぞれガラス板の両側に彫られ、立体感を出しています。
初春の陽射しの中、美人の恋女房がこんな櫛を挿して寄りそっていたら、東吾さんじゃなくても、煮過ぎた雑煮の餅みたいにとろけてしまいますよね(^O^)
 


「こんな仕事の出来るのは、何人もいないだろう」
切子をやるのは、まだ少いので・・・」


「その櫛、びいどろじゃないのか」
前髪に見事な
切子細工のびいどろの櫛が光っている。


墨田区江戸切子館とすみだ珈琲

東京スカイツリーの建築に江戸切子の技が取り入れられたとして話題になりましたが、そのお膝元である墨田区太平(江戸時代の柳島村・押上村)に、江戸の職人技を今も極め続ける、江戸切子館という工房があります。
錦糸町駅から徒歩数分のところです。

もともと、創業百年を越える廣田硝子という会社で、デパートや問屋にガラス食器製品を卸していたのですが、バブル後の不況をきっかけに、一般消費者への直売に切り替え、工房とギャラリー・製品の直売を行うクラフトショップとして再出発しました。
江戸職人の技を今に生かした町づくりを推進している墨田区のバックアップもあって、とくに江戸切子作品が全国的に注目されるようになり、これまで江戸切子には無かった「黒ガラスの切子」という新製品も、「すみだブランド」として開発されました。

こじんまりとしたお店ですが、色とりどりの繊細な作品に目を奪われます。
眺めるだけで、なかなかお買い上げまで至らないのは残念ですが・・・


江戸切子の素晴らしさは充分わかるけど、たびたび買えるものでもなく、いつも見るだけじゃ申訳ない・・・と思うあなた! そういう方が気軽に江戸切子の「お客様」になれるのが、江戸切子館の近くにある「すみだ珈琲」という喫茶店。
切子の器の珈琲が楽しめます。

ガラスの器だから、アイスコーヒーに限るのかと思ったら、ホットコーヒーも藍色の美しい切子のカップで出て来ました。
熱湯を入れても割れないように、特別の製法で作られているのだそうです。

入口に、大きなコーヒーミルがでんと置かれて、4人掛けのテーブルが2つと、数人が座れるカウンターだけの、とてもこじんまりとしたお店ですが、店内にも色々なガラス製品が飾られていて、目も舌も楽しむことができました。

 


※引用は、文春文庫「八丁堀の湯屋」1994年11月10日第1刷からです


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