現場検証 波除稲荷/品川

― 初春弁才船 ―


「麻太郎兄様と
波除稲荷のところで大きなお船をみました。帆柱が三つもあって、白い帆が沢山、沢山ついているお船・・・・・・」

                     ・・・・・・・・・

神棚をみると波除稲荷の御神符が納めてある。
「さっき、嘉助とお吉がおまいりに行って来ましたの」


波除稲荷
暮れの買い物客で賑わう築地の場外市場を抜けて隅田川方面へ向うと、波除稲荷があります。
海難防止の神様として波除稲荷といわれるものは、他にもいくつかありますが、やはり「波除さん」といえば長く築地で親しまれてきたこの神社でしょう。

明暦の大火の後、四代家綱の治世下、築地の埋立工事が行われましたが、激しい波浪のために工事は非常に難航しました。
或る夜のこと、海面に光るものが漂っているのを見て舟を出した人々は、それが稲荷大神の御神体であることを発見し、早速社殿を作りお祀りしたところ、波風がぴたりと治まり、埋立工事は無事完了。これが波除稲荷の創建となったといわれています。

波除稲荷神社の祭りは、江戸時代から獅子祭りとして有名で、今でも6月10日の夏の大祭「つきじ獅子祭」では、神輿に乗った獅子頭が町を練り歩きます。
写真左は「弁才天お歯黒獅子」、写真右は「厄除け天井大獅子」です。

また境内には、魚河岸碑のほか、寿司塚・海老塚・鮟鱇塚・玉子塚など、各同業組合によるいろいろな塚が建てられています。


波除稲荷から晴海通りへ出ると、東吾さんが通っていた、軍艦操練所跡の説明板が立っています(^O^)


晴海通りが隅田川を横切る所に架かっているのが勝鬨橋ですが、もともとは明治38年に渡船場が作られた所です。
勝鬨橋という名は、日露戦争の旅順陥落を記念して名づけられました。「坂の上の雲」で見たばかりですね〜
その後、関東大震災後に架橋計画が作られ、昭和14年に日本唯一、東洋一の可動
跳開橋として完成しました。

設置当初は、船舶通航に際し、1日5回、1回につき20分ほど跳開していたそうです。
しかし戦後の高度成長期に入り、船舶通航量の減少と道路交通量が増大によって、次第に跳開回数が減り、試験的な跳開を経て、1970年11月29日を最後に橋の開閉が停止となりました。

今では欄干のレリーフで、往時を想像するのみです。

勝鬨橋を渡る人々は、真中の継ぎ目の所でしばし足を止めて「この継ぎ目の所が開いたんだな〜」と感慨に(?)ふけります。

勝鬨橋は、清洲橋・永代橋と共に、国の重要文化財に指定されています。



「あんた方は
品川から来たのか」
御殿山の千種屋の別宅に奉公していると宗太郎から聞いていた。

                  ・・・・・・・・・

・・・航吉の話だと今朝はしらじら明けに御殿山を出て、走って大川端まで来たらしい。


品川御殿山

広重名所江戸百景「品川御殿やま」

桜の名所として、かわせみにも何度か出てきた品川御殿山ですが、桜が移植されたのは、寛文年間(17世紀後半)で、文政時代の史料によれば、11,500坪の土地に600本の桜の木が植えられていたそうです。

もともと、江戸湊を見下ろす高台で、家康がここに品川御殿を作ったので、御殿山と呼ばれていました。家康は、淀君を江戸に来させて、ここに住まわせるつもりだったとも言われています。
その後品川御殿は、歴代将軍の鷹狩りの休息所や、重臣たちとの茶会などに使われていましたが、元禄15年に火事で焼失、その後は御殿の新設はされませんでした。
花の名所となったのは、焼け跡地に桜が植えられたという事だったのですね。

幕末には、この御殿山の土地が削られ、台場の建設に用いられました。

文久元年、幕府は、諸外国の公使館を御殿山に作る計画を立て着工しますが、翌年師走、長州攘夷派の焼き討ち事件によって、完成間近の英国公使館が全焼、計画は中止となってしまいました。

この焼き討ちの時に、長州藩士たちが結集したのが、↓にご紹介する、東海道品川宿の妓楼「土蔵相模」でした。

御殿「山」というだけあって、現在でもかなりの高低差があり、第一京浜国道のあたりからは、右の写真のような階段を上っていかなければなりません。

ちなみに現在品川区に「御殿山」と言う町名はありませんが、このあたりのマンション・アパートは皆、名前に「御殿山」を使っています。
しかし「北品川郵政宿舎」だけは、忠実に町名の「北品川」を使っているところが律義というか(^−^)

御殿山通りと御殿山ガーデンホテルラフォーレの庭園 


品川駅から御殿山方面へ向う道筋に、立派な石塀が長々と続き、鬱蒼と大きな木々の茂っている一画があります。

開東閣(かいとうかく)と呼ばれる三菱グループの倶楽部の建物です。

三菱財閥の二代目総帥、岩崎弥之助が、明治22年に伊藤博文の邸宅地を買い取って別邸としたものですが、弥之助は一度も住むことなく死去し、長男の小弥太の所有になる三菱財閥の迎賓館となりました。
本館は、ジョサイア・コンドルの設計による、エリザベス様式の洋館ですが、木々に覆われて外からは見ることが出来ません。

品川神社と荏原神社

第一京浜をはさんで品川神社と荏原神社がありますが、品川神社は北品川の鎮守、荏原神社は南品川の鎮守とされてきました。

品川神社には富士塚もあり、現在も丸嘉講という富士講が町内に残っていて、7月に山開き行事を行っているそうです。

荏原神社は、府中の大国魂神社とも関係の深い社です。


品川湊と東海道品川宿

広重名所江戸百景 「月の岬」



今、私たちが「東海道」と聞いて思い浮かべるのは、弥次喜多道中を始め、大勢の旅人で賑わい、旅籠や茶屋の立ち並ぶ街道筋のイメージですが、東海道は決して庶民の旅のために作られたものではなかったのです。

東海道の宿駅伝馬制度が作られたのは1601年。
「徳川家康が江戸幕府を開き、五街道を整備した」と学校で習ったような気がしていたのですが、実は江戸幕府開府よりも、東海道のほうが2年も早かったのですね。

宿駅伝馬制度とは、各宿場に輸送用の馬と人足を常備させ、宿場に着くごとに交代していく(継立)ことにより、江戸と京・大坂間に迅速なネットワークを確立するものでした。

家康は、迅速で強力な情報ネットワークを掌握することが、安定した権力の維持に不可欠であることを知りぬいていたのです。

もともと品川は、中世の頃から港町として繁栄し、戦国時代には、目黒川(当時目黒川の河口付近が「品川」と呼ばれていた)をはさんで南品川宿と北品川宿の二宿が出来ていました。
家康の宿駅伝馬制度が整備される頃には、北品川のさらに北側に新しい町「歩行新宿(かちしんじゅく)」ができ、合わせて三宿で東海道品川宿の機能を果たし、日本橋を出発して第一の宿場として、昼夜を問わず賑わっていました。

現在の東海道である幹線道路は第一京浜(国道15号線)で、1キロごとに日本橋からの距離が表示されていますが、旧東海道品川宿の街道筋は、JR品川駅と京浜急行北品川駅の間で線路の上にかかっている「八ツ山橋」を渡り、京急の踏切の向こうに続いている商店街の道です。
旧東海道の史跡を残す工夫がいろいろとされていて興味をそそります。外国人観光客向けでしょうか、格安ゲストハウスも・・・

   現在はコンビニ 妓楼「土蔵相模」跡

     
利田(かがた)神社と鯨塚

利田神社は、「菜の花月夜」でちらっとご紹介した、品川のほうの洲崎神社ですが、寛政年間に、暴風雨で品川沖に迷い込んだ鯨が捕獲されたことを記念する「鯨塚」があります。
当時の江戸の三大奇獣は、象・駱駝・鯨で、この鯨は「寛政の寄せ鯨」として有名になり、多くの見物人が押しかけたそうです。



品川台場跡
 

ペリー来航後、幕府は江川太郎左衛門等に海防のための台場(砲台)を築造させました。
最初は品川から深川洲崎まで11基が予定されていましたが、経費不足のため、5基しか出来ませんでした。

品川の対岸である現在の「お台場」は、第三台場の跡です。

また、当初の計画の11基の他に、陸続きの御殿山下台場が作られました。
現在台場小学校のある所で、校門の前に当時の石垣があります(↑)。

現在、住宅地になっている←の所が当時の海岸線で、石垣は当時のものだとか。
波が石垣を浸食した跡がある所が、海水面の高さだったようです。


品川駅の西、山手線の内側にあたる高輪・御殿山地域には、国際ホテルや大使館などが立ち並んでいるのに対し、旧東海道側には、まだ↓のような路地も残っています。

訪れる人に、いろいろな顔を見せてくれて、興味の尽きない品川です。

     


たしかに
品川は初日の出を見物する人々が押しかける場所の一つではあったが、長助の気持の中には岩吉の乗った船、もしかすると航吉も一緒かも知れない鹿島屋の船が無事にへ入って来るのを見届けたい思いがあるに違いない。

品川埠頭

吉田修一の小説に、テレビドラマにもなった「東京湾景」という作品がありますが、これは、お台場の会社に勤める女性と、品川埠頭の倉庫で働く男性との恋愛模様を、東京臨海高速鉄道(りんかい線)開通の頃(2002)の東京を背景に描いたものです。

「目の前に見えているからといって、決してそこが近い場所とは限らない」ように、近づきそうでなかなか近づけない二人の心。昔のような身分や家制度などの障害が無くなった今、恋愛の一番の障害は、当事者自身の気持ちの揺れなんですね。

作者は、映画化されて大きな話題を呼んだ「悪人」の作者でもありますが、「悪人」では連鎖的に破滅に向かっていった道が、本当のハッピーエンドになるかどうかはわからないけれど、少し明るい方へ向いて終わります。
それはちょうど、お互い目の前に見えていてもぐるっと東京湾を半周しなければならなかった品川埠頭とお台場が、りんかい線開通により、東京湾の底をもぐって一直線に結ばれた事に符合するようです。

実際、品川埠頭から見るお台場は、すぐ目の前ですが、品川埠頭橋を渡って埠頭に入ってからは、歩いている人などは一人もおらず、コンテナが積み上げられている中を大型トラックが行き来するだけで、別世界に入ったような不安感があります。

人が集まった姿が見られるのは、入管事務所の入り口周辺だけ。

入管事務所            対岸のお台場・レインボーブリッジがすぐ目の前に


21世紀の航吉たち

波除稲荷から月島もんじゃ街を抜けると越中島、元の東京商船大学です。

現在は水産大学と合併して、東京海洋大学となりましたが、大学の門の周辺には全く人影がなく、大学町らしさがありません。


海洋大学の越中島キャンパスに置かれている明治丸は、日本最古の鉄船で、明治政府が洋式灯台の巡視船として英国グラスゴーの造船所に発注し、1875年に横浜港に到着したものです。

当時の最高級のハイテク船であり、通常の業務の他にも様々な業務を行い、御召し船としても用いられました。
1876年の明治天皇の北海道・東北地方への巡幸に供され、7月20日に横浜に無事帰港した事を記念して、「海の日」が設定されました。

元水産大学のほうは品川埠頭の西側、東京モノレールの通る天王洲にありますが、こちらは普通のキャンパス風景で女子学生の姿も見られます。

水産資料館や鯨ギャラリーなどがあり、押し花の代りに「押し海藻」が展示されているのが面白かったです。



品川キャンパスのほうにある船は「雲鷹丸」で、水産大学の前身「水産講習所」だった頃の練習船です。
     


※引用は、文春文庫「初春弁才船」2004年10月10日第1刷からです


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