現場検証  二本榎(英一蝶の墓)と麻布・六本木

 ―  浅妻船さわぎ  ―


「るいは
英一蝶の浅妻船の由来ってのを知っているか」


朝妻筑摩と鍋冠祭

今回のお話は「虹のおもかげ」の麻太郎蝉取りルートや「花の雨」と共通の所が多いですが、蝉取りルートにあった松平大和守藩邸、現在のホテルオークラ附属美術館である「大倉集古館」のショップで、英一蝶の絵葉書セットを見つけました。
英一蝶は昨年、板橋の赤塚城址にある美術館で企画展の展示があった時にも、ちょっとご報告しましたが、大倉集古館の絵葉書はオーソドックスな花鳥の絵が中心なのですが、よく見るとやはり、一蝶らしい飄逸な味わいがあります。

浅妻船の「浅妻」は、「朝妻」と書かれることも多いですが、滋賀県米原市に「朝妻筑摩」という地名があります。
お仕事の出張でよく米原を通るというはなはなさんが、この琵琶湖畔の地について、貴重な情報をお寄せ下さいました。
朝妻船とは、この朝妻筑摩と大津の間を航行していた渡し船で、平家滅亡の折に女房達が落ちぶれて遊女となり、船を出して客を誘ったという伝説があるのだそうです。綱吉愛妾というイメージも、そういう伝説が下地になっているのかもしれませんね。

湖畔に筑摩神社という古い神社があるのですが、この神社には「鍋冠祭」という珍しいお祭り(例年5月3日)があります。地元の少女たちが、狩衣・袴姿で、頭に鍋をかぶって踊るのだそうです。
もともとは、女性が契った男性の数だけ鍋を頭に載せ、数を偽ると神罰が下るという縁起だそうで、これは「筑摩江(つくまえ)」というお能にも出てくるのだそうですが、この能の作者はなんと井伊直弼だとか。
「鍋をかぶる」事については、昔この地に朝廷の食料庫があり、筑摩神社の祭神が食べ物を司る神であることから、食べ物を頭上に載せて神前に運んだ風習とか、鍋には呪力があると信じられていて、それをかぶって力を得ようとしたのではないか等の説もあるようです。


二本榎の承教寺

英一蝶の墓は、品川駅から泉岳寺へ向う途上の、高輪の承教寺というお寺にあります。
狛犬がユニークな姿をしていて面白いです。
このあたりは、昔、二本榎といわれていた土地で、その由来の碑もお寺の入り口にあります。

承教寺の境内に、塔頭の一つのような感じで「妙福寺」というお寺(表札に妙福寺と書いてあるだけで、見かけはごく普通の住宅)があります。
↓に出てきた「妙福寺」が、ひょっとしたら、六本木の再開発でここに移転して来たとか?
調べてみようと思ったのですが、よくわかりませんでした。


渋谷から広尾の原を抜けて金杉橋から江戸湾へ流れ出る川は、もともと
古川と呼ばれていた。
元禄の頃、麻布白銀御殿の造営の際に舟の通行の便のため、大がかりな川ざらえをして川幅をぐんと広げた。以来、川の名も新堀川と変り、その工事の際に人夫の持ち場を一番から十番に分け、各々に組の印の幟を立てた。
麻布一ノ橋のあたりはこの十番に当るところから、ごく自然に麻布十番という地名が生まれた。
その
一ノ橋の北方に「十番馬場」という細く長い馬場が出来たのは享保年間のことで、毎年十一月から十二月にかけて三回、仙台馬の市が開かれる。

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竹彦の実家が麻布十番なら一ノ橋界隈は子供の時の遊び場のようなものであり、道に迷って川に落ちるわけもなく、また、竹彦は下戸で酒は飲まないという点でも、酔っての上の災難とも思えなかった。

広重名所江戸百景「広尾ふる川」


広尾ふる川と麻布十番

古川の別名は渋谷川で、水に鉄分が含まれていて赤茶色(渋色)をしているためにそう呼ばれたという説もあるそうです。
ほぼ西から東に流れているこの川は、白金から麻布の所だけクランク状に曲がって南北になっており、北から、一の橋・二の橋・三の橋・古川橋と橋がかかっています。ただし古川橋は江戸時代にはありませんでした。


一の橋と二の橋の間に、「災害時用ボート」を収納してある箱が置いてあります(←)

本文にもあるように、一の橋の周辺が「麻布十番」で、現在も町名として残っています。

→は十番稲荷神社。これは新しい社殿ですが、建て替えられる前の鳥居は、喜劇王エノケンの奉納によるものだったそうです。


「江戸の馬市」(「秘曲」所収)にも、馬市は毎年、浅草と麻布十番の二か所で開かれ、浅草は南部馬で、麻布は仙台馬と決まっていたと書いてありましたね。

十番馬場のあった場所は、現在の地下鉄「麻布十番」駅をはさんで、商店街と反対側(東側)の、赤羽橋のほうに向った、このあたり(→)だろうと思いますが、今の風景からは、全く想像がつきません。

 


麻布十番近辺は、都内でも長らく、車でないとアクセスの悪かった地域ですが、2000年に都営大江戸線とメトロ南北線の「麻布十番」駅が出来て、麻布十番通りといわれる商店街が雑誌などでもてはやされるようになり、江戸の職人芸の雰囲気を残す店と、都会ふうのお洒落なスイーツ処が、違和感なく共存している、個性ある散策スポットになっています。

節分シーズンにはよくタウン誌のグラビアを飾る麻布十番の「豆源」(好い名前♪)では、揚げ餅の塩おかきを店内で作っており、揚げたてをその場で買って食べることが出来ます。


   


東吾が長助と待ち合わせたのは本願寺の前でまっすぐ木挽町へ出て堀沿いを五丁目、六丁目、七丁目と歩いて行くと、汐留橋を渡ってこっちへ向って来る仙五郎と若い女の姿が見えた。

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甘酒を飲み、とにかく今井町へ行ってみようという話になって、お久美を駕籠に乗せ、一行四人がを渡り、虎ノ御門の先、溜池のへりを抜けた。

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赤坂今井町一ツ木町の通りを上って来て松平出羽守の中屋敷にぶつかったあたりから谷播磨守の上屋敷までの細長い町屋で、市兵衛の妾宅は、妙福寺という寺の裏側にある。

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三人がさりげなく竜土町のほうへ歩き出すと、心得てお久美もついて来る。
もうすぐ
六本木というところで、男三人はお久美が追いつくのを待った。


築地から赤坂・六本木へ

東吾さんたちが築地の本願寺から、虎ノ門・赤坂を経由して六本木まで歩いたルートを追っかけてみましょう。
築地から六本木まで、JRやら地下鉄の駅がたくさんあるので、ずいぶん遠い距離のように思いますが、都心のこのあたり、駅と駅の間はごく短いもので、ぶらぶらとあちこち寄りながら歩いても、15000歩程度のものです。
赤坂・六本木は、このお話が御題の宿題になっている期間に、ちょうどNHKの「ブラタモリ」でも取り上げていたので、グッドタイミングでした。

本願寺前の築地四丁目の交差点から、今なら晴海通りをまっすぐ進んだほうが早いですが、東吾さんたちと同じルートで行くため、新大橋通りをワンブロック隅田川下流へ進んで右折、昔の木挽橋へつながる道(現在みゆき通り)に出ます。
松平采女正の屋敷があったことから采女ヶ原と呼ばれた空き地が江戸の地図にも載っていますが、その名にちなむ采女橋を渡り新橋演舞場の裏手を見ながら進むと昭和通りへ。ここに狩野派の画塾があったということで、碑が立っています。

「堀沿い」の堀が、今のこの昭和通りになっているわけで、左折して銀座五丁目・六丁目・七丁目と汐留へ向って行きます。
今は木挽町も尾張町も皆、町の名前は「銀座」になってしまいましたが、丁目の数え方は昔とほぼ同じで、東吾さんたちと同じように五丁目・六丁目・七丁目と進んでいくのが嬉しいところです。

汐留橋のあった所は、今では高速道路と大きな歩道橋の下をひっきりなしに車が走っていますが、昔も多くの人や荷車が行き交っていたのでしょう。

高速道路をくぐるとすぐにJR新橋駅になります。駅の銀座口から日比谷口へ抜けると駅前広場に機関車が鎮座ましましています。新橋といえばやはり「汽笛一声」の鉄道唱歌ですね。

地下鉄メトロ銀座線が下を走る外堀通りを、新橋から虎ノ門へと歩き、桜田通りを渡ります。
「ブラタモリ」でタモリさんが「気になっていた」と言っていた、旧江戸城外堀の石垣を右手に見ながら行くと、昔、溜池があった所に今あるのは特許庁のビル。


さらに赤坂見附へ向って行くと、日枝神社が見えてきます。
隣に山王パークタワーが出来て、そびえる鳥居もちょっと影が薄くなったように見える日枝神社ですが、階段の横にエスカレーターを設置するなど頑張っています。

日枝神社の前で左折し、赤坂通りを乃木坂のほうへ向います。この通りの下を走っているのは、メトロの千代田線です。
目的地の赤坂今井町は、今の乃木神社・乃木公園のあるあたりで、もう着いたも同然ですが、その前にちょっと、「ブラタモリ」でやっていた三分坂と練塀の残る報土寺に寄り、雷電為右衛門の墓参りをしていきましょうか。
「夏の夜ばなし」に登場した力士「釈迦ヶ嶺」と同様、雷電も雲州候お抱えでしたものね。

赤坂今井町の市兵衛の妾宅が、妙福寺という寺の裏側だということで、妙福寺を探したのですが見つかりません。
「江戸東京散歩」の地図にはちゃんと載っているお寺なのですが、このあたり赤坂サカスや六本木ミッドタウンとして再開発され、すっかり様変わりしてしまっています。
その妙福寺が、上に記したように、英一蝶の墓のある高輪のお寺の中になぜか存在していたのは、全く無関係の偶然かもしれませんが、何か縁を感じてしまいました。

六本木竜土町は、ミッドタウンと国立新美術館に挟まれた三角形の地域で、再開発の影響を受けずに残ったエアポケットのような所です。

国立新美術館関係者行きつけのお食事処もいろいろ?竜土町              天祖神社「竜土神明宮」、今の氏子代表?はテレビ朝日


「先程、兄上が先生にお訊ねした先代旧事本紀とは、いったい如何なる書ですか」

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「容易ならぬことじゃ、これでは、なんのために、我が師、伊勢貞丈先生が御苦心されて記録の真偽をただされたのかわからぬではないか」

 

おまけ 世田谷・大吉寺(伊勢貞丈の墓所)


世田谷通り沿いにある「大吉寺」は、
直木賞作家でスポーツ評論家としても人気を博した、寺内大吉さんの生家です。自分宛ての郵便物の宛先に「大吉寺内」と書いてあるのの順序をひっくり返してペンネームにしたのだそうです。

月に2〜3回は訪れる世田谷区中央図書館とも、すぐ近くなのですが、まさかこんな所に、「かわせみ」ゆかりのスポットがあったなんて全く予想してませんでした(^O^)

境内に「浅井長政由縁の大吉寺山の石」という大石が置いてあるのですが、近江の浅井氏ゆかりの大吉寺といえば、由来が天智天皇の御代にさかのぼるという名刹ですよね。
近江の大吉寺は天台宗なのに、世田谷の大吉寺は浄土宗。たまたま名前が一緒なだけで、末寺でも何でもないんじゃないかな〜と思うのですが、どういう経緯で(っていうか世田谷くんだりまで運んでくるのも大変だったろうに)。

伊勢貞丈 ( 1718 - 1784 ) は、江戸中期の幕臣で、中世以来の武家の制度・礼式など武家故実の第一人者とされた人です。
もともと、室町幕府政所執事の家柄であった伊勢氏(ということは、伊勢新九郎@北条早雲ともつながりが?)で、貞丈の祖父の代に家光に召し出され、幕臣として御小姓組に勤めるかたわら、有職故実の研究家として多くの著作を遺したそうです。

ただ、この貞丈先生、享保の生まれで天明時代に亡くなっている方です。
松浦方斎先生「我が師」とおっしゃってますが、何歳のころに師事していたんでしょうねぇ。「浅妻船」の話が1860年頃だとすると、貞丈先生が亡くなる直前の数年に中学生くらいの年齢で師事したとして、方斎先生90歳を越えてることになっちゃいますね。
まぁ、昔でも真田信之や秋山小兵衛(あ、これは実在ではないか)のように90歳以上まで矍鑠としていたスーパー老人もいたらしいから…

     

※引用は、文春文庫「十三歳の仲人 」2007年4月10日第1刷からです

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