現場検証 渋谷・青山散歩

― 女同士 ―


五月五日端午の節供の日、
青山御手大工町にある京菓子所、三升屋六右衛門の店の前は、とりわけ、華やかな武者絵の幟が十数本も風に、はためいて居り、又、表座敷には見事な冑人形が飾られて、往来を行く人々の目を見張らさせていた。


青山通りを行く

港区HPによれば、「青山」の地名は、天正18年(1590)に土地を与えられた徳川家重臣の美濃郡上藩「青山家」の名が起源だそうです。
現在は国道246号線である青山通り(昔の厚木街道=大山道)を境に、北青山・南青山となっています。

「青山御手大工町」は今の地下鉄青山一丁目駅のあたり、通りの向こうはもう赤坂で、赤坂御所の長い緑の垣が続いています。
東宮御所を始め、秋篠宮邸、三笠宮邸、先日逝去された寛仁親王邸などのある御所で、明治12年の地図では「青山御所・離宮」となっており、「太政官宮内省」の文字も見えます。


青山通りを西に向って進むと、右手に明治神宮外苑へ続く公孫樹並木が見えます。
神宮球場・秩父宮ラグビー場などのある所で、「月と狸」でご紹介した高徳寺もこの近くです。

青山一丁目駅から500mもない距離ですが、外苑前駅があり、神宮球場で試合のある時は、お弁当屋さんが並びます。

ここの右手が久保町、左手が梅窓院です。

     


「この近くです。
久保町で・・・」
青山の通りは、両側が殆ど武家地であった。
小身の侍たちの住宅がぎっしり軒を並べている。どの家も敷地が狭く、隣家と軒を接しているのが多い。
やがて、左手に
梅窓院観音の境内がみえ、その向い側の町屋が久保町であった。


久保町と「里神楽の殺人」

久保町は、はやぶさ新八シリーズの「里神楽の殺人」に、「里神楽を演じるのは、青山久保町に住む神楽師の仲間で、江戸の里神楽の一座としては、以前から評判がよかった」と書かれていますが、里神楽というのはもともと、荏原郡で行われており、神楽師たちもそこに住んでいたのが、青山に移転してきたものだと、久保町の名主が説明しています。
荏原郡というのは非常に広い地域で、現在の大田区・品川区・世田谷区・目黒区あたりを含みます。というか、昔の東京は、大きく分けて北が豊島郡、南が荏原郡という感じですよね〜

この青山の「久保町」というのも、神楽師たちが昔住んでいた「荏原郡の世田ヶ谷村字久保」の名をそのままつけたと言っています。

「久保」や「窪」のつく地名は、韓流ブームで有名な新宿区の大久保や、杉並区の荻窪のように、都内でも数多いのですが、現在の世田谷区には、とくに見当たりません。

図書館の郷土史の棚をのぞいてみると、現在の梅ヶ丘のあたりに、昔、久保とか北沢窪などと呼ばれる土地があったということです。
世田谷城主吉良氏の時代に、家臣の集落のあった土地だということですが、里神楽も、吉良氏の家臣たちが楽しんでいたものでしょうか?

右の写真は、梅窓院前の歩道橋の上から撮りましたが、正面の一画が、当時の久保町だったと思われます。

     


子守のおきみという十五歳になるのが、一太郎をおぶって近くの
梅窓院観音の境内へ遊びに行ったところ、一人の女が近づいて来て、おぶっている赤ん坊の様子がおかしいといい、手伝っておきみの背から赤ん坊を抱き取った。

                  ・・・・・・・・・

三人は、そこから梅窓院へ道を渡った。
境内はかなり広い。
本堂の前に若い娘がひざまずいて合掌している。


梅窓院
左の写真は、青山通りの反対側から梅窓院入口を撮ったものですが、地下鉄外苑前駅の入口が邪魔をして、ほとんどわかりません(汗)

ビルの間に埋もれてしまっているような形ですが、笹竹が両側に茂る参道は、独特の景観があります。
実は山門の隣にあるビルが平成15年に建て替えられた本堂で、今は山門と竹の茂る参道だけが昔の面影を残しています。
残念ながら、今は梅の木もなくなってしまったようです。

HPを見ると、墓苑には、宝塔や切支丹燈籠など、面白そうなものがあるみたいですが、ちゃんと受付を通してご案内いただくことになっているようです。
ふらりと立ち寄って、境内や墓地をぶらつくという感じではないような・・・

長青山宝樹寺梅窓院は、青山家の菩提寺として寛永年間に建てられ、梅窓院の号は、老中も勤めた青山幸成の法名からつけられたものです。

本尊の阿弥陀如来は、聖徳太子の作と伝えられる古いもので、江戸の六阿弥陀の一つとして信仰を集めていたそうです。
もっとも、一般に「江戸の六阿弥陀」といわれる(かわせみの「六阿弥陀道しるべ」にも出てきた)六阿弥陀とは別で、「山の手六阿弥陀」といわれるもの。この中には青山の寺が3つも入っています。

また「青山の観音様」として親しまれてきた泰平観世音は、天竺仏と伝えられ、鑑真和上が聖武天皇に献上して東大寺大仏殿に奉安されていたものを、源頼義親子が奥州討伐の際に帯持して陣中守護とし、その功徳により奥州平定が成ったと伝えられています。

 


青山は、この先の
百人町も含めて小身の御家人のすみかが多かった。
武家地の中にぽつんぽつんと町屋がある。

                     ・・・・・・・・・

「近松慎之助どのの用人、今井市之丞の娘、お梅は、大橋子市郎と申す者に縁づいて居ります。大橋子市郎の屋敷は、青山百人町・・・」


青山から渋谷へ

青山百人町

青山百人町については、新八シリーズの中で、「もともとは、徳川家の始祖、神君家康に従って近江国甲賀郡から出て来た甲賀百人衆がここに組屋敷を頂いて居住したもので、鉄砲百人組の一つに加っている」と説明があります。

鉄砲百人組というのは新宿区にもありますが、いずれも小身の御家人たちで、暮らしのための内職が、新宿はツツジの栽培(TIMEを読む会の新宿散歩ページで、ちょっとご紹介しました)、青山は傘作りと春慶塗だったんですね。

梅窓院を過ぎて、南青山三丁目の角から、青山通りの一つ右手に通りをずれると、都営青山北町団地があります。
このあたりが昔の青山百人町だったのではないかと。

緑の多い、落ち着いたたたずまいで、ベルコモンズやエイベックスのビルが並ぶ表通りと、がらりと雰囲気が変わります。

新八シリーズにも「青山百人町の傘」という泣かせる話がありますが、そう思って見るせいか、青山通りには傘を売る店が目につきました。季節柄もあるのでしょうが・・・

 


団地を抜けて青山通りに戻ると、もう表参道の駅前です。
ここには、秋葉神社(→)と善光寺(↓)があります。

善光寺サミット

青山善光寺は、「江戸名所図会」によれば、「信州善光寺本願上人の宿院にして、浄土宗尼寺なり」とあります。
創建は永禄元年(1558)、もともと谷中にあったのが、宝永年間にここに移転したとか。
この善光寺も、上記の「山の手六阿弥陀」の一つで、善光寺と梅窓院・高徳寺が青山、あとは赤坂一ツ木の龍泉寺、四谷の了学寺・西念寺で、下町のほうの六阿弥陀に比べると、近いところにまとまっていて、お参りも楽そうですね♪

「菜の花月夜」のときに、川口の善光寺をちょっとご紹介しましたが、善光寺という名のお寺は、全国に119もあるそうです。
寺名は違っても、善光寺仏を本尊とするものも含めると、400以上にもなるとか。

これらのお寺は宗派はさまざまだそうですが、善光寺如来の仏徳を宣揚し世界平和に寄与するという共通目的のもと、平成五年に「全国善光寺会」を設立し、二年に一回、「善光寺サミット」を開いているんだそうです。

岡本太郎エリア


表参道の次の信号が南青山青山五丁目の交差点、左手に「月と狸」でご紹介した骨董通りが伸びており、その先が青山学院大学です。

青山学院は松平左京大夫邸だったところで、このあたりを過ぎると、もう人家も殆どなくなり田畑ばかりになっていたようですね。

青山学院の向いにある「こどもの城」は、1979年の国際児童年を記念して、厚生省(当時)が構想、1985年に開館した、児童の健全な育成を目的とする施設です。青山劇場・青山円形劇場の2つの劇場があり、正面には岡本太郎によるモニュメント「こどもの樹」があります。

隣接する国際連合大学も含め、このあたり、かつては、都電の青山車庫だった所で、その後都バスの車庫になった後、現在の姿となりました。


岡本太郎が生前アトリエとしていた、岡本太郎記念館も、骨董通りを西麻布方面へ向ってしばらく行ったところにあります。

NHKのドラマになったときに、ここも何度か登場しましたね。

だんだん、渋谷駅に近づいてきました。宮益坂上です。
ここから宮益坂・金王坂の二つの坂が、渋谷駅方面に下っています。

渋谷駅を過ぎると、今度はまた道玄坂を上ることになるので、渋「谷」というだけあって、今の渋谷駅前が谷底で、両側に坂を上る形になっていたんですね。

宮益坂                                    金王坂

渋谷駅東口、昔東急文化会館のあった所に、「渋谷ヒカリエ」が今年の4月にオープンしました(↓写真左)。
ショッピングセンターのほか、今月18日開幕のミュージカル劇場なども備えて、新しい渋谷文化の発信拠点となります。

しょっちゅう渋谷を通過する、東京西側の住民には珍しくもない光景ですが、渋谷のスクランブル交差点を見渡せる井ノ頭線からJRへの乗り換え通路の窓際では、よく外国人がカメラを構えていたり、何人か集まって指さして騒いだりしているのを見かけます。今日は誰もいなくて残念だったけど(^^ゞ(↓写真中)

そして今の渋谷駅自慢のピカ一は、岡本太郎作「明日の神話」の壁画。毎朝毎晩、通勤通学の人々に元気を与えてくれています。(↓写真右)

渋谷川

「東急デパートの東館には地下がない。それは地下を渋谷川が流れているから」と、「ブラタモリ」で言っていましたが、左のデパート各階案内図を見ると、東館(右側、青い図)だけ地下がないのが一目瞭然ですね。
西館と南館は、地下がフードセンターになっていますが・・・

中の写真は、東口の歩道橋の上から、ビル群とビル群の背中合わせの路地をひっそりと流れる渋谷川を撮ったものです。
「えっ、こんな所に川が流れていたんだ」と、ほとんどの都民が驚く渋谷川ですが、今も明治通りに沿って渋谷から恵比寿・白金を通って麻布からは古川となり、金杉橋を経て、江戸湾よりも少し遠くなった東京湾へとしっかり流れ込んでいます。


お待たせしましたお茶漬けカードの時間です〜(笑)

広重の「名所江戸百景」の中には青山はないのですが、「不二三十六景」の中に「東都青山」として、青山から富士山を望む絵が描かれています。(山梨県立博物館HPより)

渋谷金王八幡

「かわせみ」や新八のシリーズには出てきませんが、今年の大河ドラマ所縁の渋谷金王八幡宮を最後にご紹介しておきます。
渋谷はもともと、高望王を祖とする秩父氏の中の一族が渋谷氏を名乗り居城を持っていた所で、金王八幡宮も渋谷氏により創建されこの地の鎮守とされたものです。

渋谷金王丸(金王麿)は、渋谷重国の子として生まれましたが、鎌田正清らと共に源義朝の側近く仕え、義朝と正清が長田忠致の裏切りにより殺害された時、下手人たちを斬って京まで戻り、常盤に義朝の最期の模様を伝えたといわれます。
ドラマではまだ出て来ていませんが、是非、登場してほしいものです。

金王八幡境内の奥にある金王丸御影堂は、金王丸が17歳で義朝に仕えるため渋谷の地を去る時、別れを惜しむ母の為に自分の像を作らせ安置した堂だそうです。
ここの説明を見ると、金王丸はその後出家して土佐坊昌俊となり、義朝の菩提を弔いつつ頼朝に仕え、頼朝の命を受け義経を討とうとするが失敗し、勇ましい最期をとげたとなっています。

土佐坊昌俊は「平家物語」にも登場し、義経の「いかに土佐坊、鎌倉殿より御文はなきか」に始まる二人の対決がそのまま演じられる謡曲「正尊」もあります。平家物語でも八坂本というバージョンには、土佐坊の幼名が金王丸であったという記載があるそうですが、はたして義朝の家臣であった金王丸が土佐坊と同一人物であるかについては、確証はないようです。

境内には頼朝が金王丸の忠義に報いるために鎌倉亀が谷から桜を移植させたという「金王桜」があります(↑写真右)。


さらにこの渋谷金王八幡は、ちょうど今映画化が話題になっている「天地明察」(冲方丁原作)に出てくる「算額絵馬」が奉納される神社でもあったんですね。

そういえば社務所に映画のポスターと、スタッフ・キャストの集合写真が貼ってありましたが、とくに神社として宣伝している様子は見られません。

しかし、奉納されている絵馬をよく見ると、↓のような「算額」が今も!!
真中の絵馬は、PCで作成して、透明な紙に印刷し、絵馬に貼りつけたものでしょうか?


渋谷駅から歩いてほんの数分の所ですが、隣接する東福寺(金王八幡の別当寺であった)と共に、都会の中の別世界を作っている渋谷金王八幡宮。
都会の景観の中に溶け込んだ梅窓院とは、対照的かもしれません。

渋谷・青山を通る際は、ぜひ両方を訪れてみられることをお勧めします。


※引用は、文春文庫「二十六夜待の殺人」1994年4月25日第6刷からです


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