現場検証 番外編  墨堤の桜2010

もともと、江戸の花見は上野山内、飛鳥山が有名だったが、上野は場所柄、山同心がうるさくて、唄うのはいいが三味線、鳴物は禁じられていたし、おまけに暮六ツをすぎると山内から追い出されるところから、次第に敬遠され、かわりに本所隅田堤、即ち、向島辺りが盛んになって来た。
ここは、舟からの夜桜見物もよし、更ければ、その足で吉原へ繰り込むのにも便利とあって、年々、人気が上り、向島の花見に出かけなければ江戸っ子ではないようにいう者さえ、出てくる始末であった。 <ぼてふり安>


桜が咲く前にぐっと暖かくなったと思うと、咲き始めてから「花冷え」になるというのは例年のことですが、それにしても今年の春は、冬に戻ってしまったような寒さがいつまでも続きましたね。まぁそのおかげで、振り返ってみれば、かなりの日にちを散らずに持ちこたえてくれたことになりますが・・・

江戸の昔も今も、春の隅田川は花見客でいっぱい。「かわせみ」にも、初期の作品から明治編まで、「向島の花見」はことあるごとに触れられています。しかし、おるいさん自身が花見に出かけたのは、ざっと見た限りでは、「犬張子の謎」だけのようで、やはり客商売となると、なかなか留守にするのは難しいとみえます。

もと「小梅の水戸屋敷」といわれた向島の隅田公園は、「残月」の現場検証でご紹介しましたが、初秋のあの時は静かな公園でしたが、花時は平日でも大賑わい。「桜まつり」の提灯や屋台もたくさん出ています。

 

 

 

公園の一画にある牛島神社は、勝海舟が若き日にここの境内で剣術の稽古をしたといってNHK「龍馬伝」紀行にも登場しましたね。

源三郎の口車に乗せられて、翌日、東吾は大川を舟で向島へ渡った。
ちょうど花見時で、堤の上はかなりな賑いである。大抵が女連れで、花の下に敷物を広げ、持参の酒や弁当で昼間から浮かれているのを横目にみて、男二人がそそくさと歩いて行くのは、あまりいい格好ではない。 <奥女中の死>

それでも、吾妻橋から言問橋・桜橋と、上流へ向って行くと、人混みもだんだん少なくなってきます。

その日、江戸の桜は満開であった。
・・・・・・・・・・・
堤の上の満開の桜は、夕映えの中でひとしきり花吹雪を散らしている。
「なんと美しい・・・花は生涯、忘れません。お江戸の春は、たとえようもなく見事で、そして・・・かなしい・・・」
東吾はつとめて磊落に応じた。
「泉州の春も美しいと思いますよ、花姫さまの行かれるところ、春は必ず、美しい。何故なら、あなたは花の姫君ですからね」 <岸和田の姫>

今年の向島の花見、いつもにも増して賑わっているのは、スカイツリーのおかげです。
まだ建設途中ではありますが、先日、東京タワーの高さを越え、都民の話題となりました。
「残月」のときに、業平橋で撮った写真にもチラっと写っていますが、あの時は、まだずっと下の方しか出来てなかったんですよね。
来年、完成した高さだと、あまりにも高くなりすぎて桜と一緒に写すのが難しい。花の中にスカイツリーを写せるのは今年しかない!というので、皆カメラを向けています。
完成したツリーの写真なら、来年でも再来年でも撮れますが、建設中の写真は、「今日この時の一枚だけ」というわけで、聞くところによると、毎日撮影してブログで工事の進行状況を中継している「スカイツリーおたく」も多数いるとか。

向島の堤の桜は、五分咲きというところだった。
「満開よりも風情がありますね」
とお吉がいうように、花が生き生きとして薄紅色が鮮やかである。
堤の上の人出も多かったが、大川を埋め尽すほどの船が並んで、なかには芸者を乗せて飲めや唄えやと、花そっちのけで大さわぎをしているのもいる。 <犬張子の謎>

 

墨堤の桜は三分咲きであった。
にもかかわらず、大川は花見舟で埋め尽され、船着き場の周辺は客待ち舟と、新たに漕ぎ寄せて来る舟とで、ごった返している。
「神林の若様、畝の若旦那、只今、そちらへ着けますんで・・・」
川から大声で船頭が呼び、一艘の猪牙が群がる舟の間を巧みに竿を操ってぐんと岸辺へ寄せて来る。 <春風の殺人>

「はいくりんぐ」の現場検証で「かわせみ」所縁の街を歩き始める前は、東京といっても生まれ育った西側しか知らず、浅草も本所・深川あたりも、全くといってよいほど知らなかったのです。
その後結婚してからは、東京の東半分を飛び越えて千葉県に20年ほど住むことになり、会社勤務の間は都心には出ていたものの、駅とビル街だけが都心だと思っており、その場所の江戸の昔など考えたこともありませんでした。「かわせみ」を読み始めてからも、八丁堀くらいは駅名で知っていたものの、どの物語がどの場所を舞台にしていたのかということについては、ほとんど意識も記憶もしていませんでした。
「はいくりんぐ」に参加するようになって、「千手観音の謎」が御題になったとき、たまたま、物語に出てくる「菊の被綿」が、我が家から歩いていける距離の大宮八幡宮で実物を見られることを知り、写真を送ったのがきっかけで、現場検証が病みつきになるとは、まことに「お釈迦様でも気のつくめぇ」成り行きだったわけですが・・・

東京の街を歩いてみて気付いたのは、街が大きく変わった節目がいくつかあること。一つは関東大震災後の「帝都復興計画」で、隅田川の橋々も隅田公園もこの一環だったのですね。それからもちろん戦災、そして焼け野原となった東京の復興の象徴となった東京オリンピック。古い写真を見ると、東京オリンピックを境にして街の風景が大幅に変わったように感じます。そして、その後はバブルとその崩壊ということになるでしょうか・・・

 

 
こうして見ると、明治維新というのは、政治や社会の仕組みはガラリと変わったけれども、街の風景はそれほど変わりはなかったといえるのかもしれません。西郷さんと勝さんのおかげということでしょうか。

江戸が東京となり、江戸湾が東京湾となっても、向島の花見を楽しむ人々は変わらなかったのですね。そしてその心情は、21世紀の今も、昔のままに続いているのだと思います。

<おまけ>
アサヒビールのビルの壁面に映るスカイツリー。(⇒)
壁に描かれた絵のように鮮やかに見えますが、映っているだけです。


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